【堀川夜討ち】失敗に終わった源義経暗殺未遂事件

堀川夜討ちは、文治元年(1185年)10月17日、源頼朝が、刺客を放って源義経の暗殺を試みたが失敗し、対する源義経が源頼朝に敵対することを決めるに至った暗殺未遂事件です。

政治の天才・源頼朝が、源平合戦の英雄である源義経を粛清するという名目で守護・地頭を設置するきっかけとなり、関東を治める地方武士から全国を治める武家の棟梁に駆け上がる最初のステップとなった歴史の転換期の事件でもあります。

本稿では、そんな大事件である堀川夜討ちについて、その発生経緯から見ていきたいと思います。

堀川夜討ちに至る経緯

源頼朝の全国支配構想

富士川の戦い後に鎌倉を中心として東国支配を進める源頼朝ですが、その支配は東国に限定されており、全国としてみるとまだまだ天皇を頂点とする朝廷の全国支配構造から脱却できていませんでした。

そこで、源頼朝は、平家を滅亡させたことにより、今度は政治力を駆使して源氏の棟梁(鎌倉殿)を頂点とする武士による全国支配構造への転換を目論んでいました。

平家滅亡と源義経凱旋

そんな中、元暦2年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経が京に凱旋してきます。

ところが、源頼朝の深い考えを理解できない猪武者である源義経は、ここから源頼朝と後白河法皇との間のドロドロの政治争いに巻き込まれていきます。

戦にはめっぽう強いものの、政治力は皆無であり、またKYで求心力がなかった周りを支えてくれる有能な部下を持つことができなかった源義経に、この政治闘争を潜り抜ける能力はありませんでした。

後白河法皇の暗躍

平家が滅んでしまうと、武士といえば源氏ということになります。もはや対抗勢力はありません。

こうなると、朝廷の中心人物である後白河法皇は、それまでの平家ではなく、源氏との勢力争いを繰り広げなければなりません。

形の上では、朝廷が上で源氏が下ではあるものの、実際の力は逆転していますので、後白河法皇からすると源氏の力を削がなければならないのです。

このとき後白河法皇が目を付けたのが、平家を滅ぼして西国から戻ってくる武士たちでした。

後白河法皇は、西国から戻ってくる武士たちを取り込んで、源氏を東国の源頼朝派と、後白河法皇の息のかかる反源頼朝派に分断して争わせて勢力を減殺しようと考えます。

もっとも、政治の天才・源頼朝は、そのような後白河法皇の意中など百も承知であり、西国から戻ってくる武士たちに、予め勝手に官位をもらったりしないようにと釘を刺しています。

ところが、政治の世界が理解できない源義経やその周りの坂東武者達は、源頼朝がいう勝手に官位を受けてはならないという命令の本質が理解できません。名誉ある官位を受けて何の問題があるのかくらいにしか考えが及ばないのです。

そのため、源義経は、源頼朝の命に反して、源頼朝に無断で後白河法皇からの申し出を受けて官位を得てしまうのです。また、総大将源義経が官位を受けたということから、その部下たちも次々と任官していくこととなりました。

そればかりか、源義経は、かつて平家において軍事的地位を独占していた平時忠(平清盛の義弟)の娘である蕨姫を側室にもらい受けるなど、平家残党の吸収を図るかのような動きを見せます。

これらのことを聞かされた源頼朝は激怒します。

自分の目の届かない京で、源義経らが、自分の構想の根本を覆す大問題を起こしていたからです。

このとき政治の天才・源頼朝はすぐに動きます。

まず、元暦2年(1185年)4月15日、朝廷から任官を受けた関東の武士らに対して東国への帰還を禁じます。

源頼朝と源義経との対立

ところが、源義経は、源頼朝が激怒している理由が理解できません。

そればかりか、平家を滅ぼした英雄気分が抜けません。

そこで、源元暦2年(1185年)5月7日、頼朝の東国への帰還禁止命令を無視して、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛・清宗父子を連行して鎌倉に凱旋帰国するために京を立ち、鎌倉に向かって進んでいきます。

その後、鎌倉近くまで進んだ際に、源義経はようやく源頼朝の怒りに気が付きます。

源頼朝から、源義経が引き連れてきた平宗盛父子のみを鎌倉に入れ、源義経の鎌倉入りを許さず、源義経は鎌倉郊外の山内荘腰越(現神奈川県鎌倉市)ある満福寺に留め置くと伝えられたからです。

これにより源義経の英雄気分は一気に吹っ飛びます。

ここで初めて源頼朝の怒りを知った源義経は、急ぎ自分が叛意のないことを示した書面(腰越状)をしたため、元暦2年(1185年)5月24日、源頼朝の側近である大江広元に託します。

もっとも、源頼朝は、この手紙を見ても源義経の鎌倉入りを許しませんでした。

源義経は、やむなく同年6月9日、連れてきた平宗盛父子と平重衡を伴わせて京への帰路につきます(途中、平宗盛父子は近江国で斬首し、平重衡は東大寺へ送っています。)。

なお、このとき源義経は、源頼朝を恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、これを聞いた源頼朝は、怒って源義経の所領をことごとく没収したと言われています。

源義経帰京

京に戻った源義経は、六条堀川にあった源氏堀川館(現在の京都市下京区五条通堀川下る西側)に入ります。

猜疑心の強い源頼朝は、文治元年(1185年)9月、京に戻った源義経の様子を探るため、梶原景時の嫡男・梶原景季を遣わすとともに、源義経に対して叔父・源行家追討を命じます。

ところが、源義経は、自身が病に伏していること、また源行家が同じ源氏であることから討伐することはできないことなどを理由としてこの命令を拒絶します。

源義経暗殺命令(1185年10月)

源頼朝は、梶原景季から源義経が命令を拒否したと聞かされると、源義経が源行家と同心して自分と対立しようと考えているため、仮病を理由に命令に背いたのだと判断し、ただちに直ちに源義経討伐を決断します。

そして、源頼朝は、御家人を招集して源義経を誅殺する役割を果たす人物を募ります。

ところが、源義経の武勇を恐れてなかなか名乗り出る者がいませんでした。

これを見た土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)が、それでは自分がと、その役目を引き受けます。

なお、この土佐坊昌俊については、源義朝の死を愛妾・常盤御前に仕えた伝えた郎党であった渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまる)と同一人物であり、土佐坊昌俊(金王丸)が常盤御前とともにいた幼い源義経を覚えていたため討つことができなかったとする説もありますが、史料において確認されない伝説とされています。

土佐坊昌俊は、鎌倉を発つ前に、源頼朝に下野国にいる老母と乳児の行く末を頼朝に託したため、源頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えています。

堀川夜討ち(1185年10月17日)

土佐坊昌俊は、文治元年(1185年)10月9日、弟・三上弥六家季ら83騎を率いて鎌倉を出発し、一路京に向かって進んでいきます。

そして、京に着いた土佐坊昌俊は、同年10月17日、60余騎を率いて、源義経がいる六条堀川にあった源氏堀川館を襲撃します(堀川夜討ち)。

このとき、襲撃を受けるとは思っていなかった源義経は完全に油断をしており、また供回りの家人や兵をほとんど連れていませんでした。

そのような状況下で襲撃を受けた源義経は苦戦を強いられ、佐藤忠信らを伴って自ら門戸を打って出て応戦しなければならないような状況に陥ります。

もっとも、このとき騒ぎを聞きつけた源行家が源氏堀川館を守る源義経に加勢したため、源義経は何とか土佐坊昌俊らを撃退することに成功します。

敗れた土佐坊昌俊は、鞍馬山に逃げ込んだのですが、追ってきた源義経の郎党に捕らえられ、源義経の前に引っ立てられます。

なお、以上の通説に対し、源義経が土佐坊昌俊の襲撃を予め知って待ち構えていた可能性があるとも考えられていますが、本当のところはわかりません。

堀川夜討ちの後

源義経と源頼朝の手切れ

源義経は、捕えた土佐坊昌俊尋問した結果、自身の暗殺未遂事件(堀川夜討ち)の首謀者が源頼朝であることを知って絶望します。

その結果、源義経は、源頼朝に反旗を翻す決意をします。

源義経は、早速、翌文治元年(1185年)10月18日、六条殿(現在の京都市下京区富小路通六条下る本塩竈町529・長講堂)に赴いて後白河法皇に謁見し、源頼朝追討の宣旨を受け取ります。

また、この源頼朝追討には、同じく源頼朝と対立していた源行家も同調します。

源氏の棟梁との争いを決めた源義経と源行家は、早速、京で賛同者を募ったのですが、源頼朝の勢力が強大であったこと、KYな源義経にカリスマ性がなかったことなどから協調するものはほとんど現れませんでした。

困った源義経・源行家は、同年10月26日に土佐坊昌俊を処刑して六条河原で梟首した後(吾妻鏡)、源頼朝と対峙する勢力を整えるべく、それぞれの拠点にて挙兵の準備をすることとします(源義経は九州に、源行家は四国に影響力を持っていました)。

源義経追討の院宣

源義経と源行家は、大物浦(現在の兵庫県尼崎市)から、船に乗って西へ向かったのですが、暴風雨に見舞われて乗っていた船が難破し、供をしていた仲間ともちりじりになってしまいます。

他方、後白河法皇が自分に対する討伐院宣を下したことを聞いた源頼朝は激怒し、すぐに北条時政に命じて兵を連れて京に向かわせ、後白河法皇に対して圧力をかけます。

そして、この圧力に屈した後白河法皇は、今度は逆に源義経追討の院宣を源頼朝に与えたため、源義経は一層窮地に陥ることとなります。

守護・地頭の設置

また、政治の天才・源頼朝は、源義経追討という状況を覆して一気に日本全国を支配するため、大江広元の献策を採用し、状況を利用してとんでもない一手を打ちます。

源頼朝は、後白河法皇に圧力をかけた際、ついでに守護・地頭の設置を認めさせたのです。

具体的には、文治元年(1185年)11月、源頼朝は、自分に弓を引く源義経・源行家を追討するという名目の下(どこに逃げたかわからない源義経と源行家を探すという名目)で、後白河法皇から追討の院宣のみなならず、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に源頼朝の御家人により選任された国地頭の設置・任命権を得ることの勅許を受けました(文治の勅許)。

名目上は、源義経と源行家を探すため全国に御家人を展開させる目的だったのですが、実質は地頭として任命した御家人を通じて源頼朝の支配が西国にも及ぼすきっかけとなっていきます。

この源頼朝の守護・地頭の設置権獲得により、源義経はさらに追い詰められていくのですが、長くなりますので以降の話は別稿にて。

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