【梶原景時】源義経を死に追いやった御家人の生涯

源義経と対立して死に追いやったとして悪役にされがちな梶原景時。

実際は、KYで政治的才能がなかった源義経に振り回されて苦労した人物です。

ならず者集団であった鎌倉武士団の中で、数少ない教養・風流人でもありました。

石橋山の戦いで源頼朝を救って重用され、北条家による他氏排斥運動に巻き込まれて生涯を終えた梶原景時の人生を振り返っていきましょう。

梶原景時の出自(1140年?)

梶原景時は、保延6年(1140年)ころ、坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族である梶原氏の梶原景清と横山孝兼の娘との間に出生したと言われています。

梶原景時の曾祖父または従曾祖父は、後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景正(梶原氏の祖)であると考えられています。

梶原氏は大庭氏と同族でもあり、共に元々は源氏の家人であったのですが、平治の乱で源義朝が敗死して平家の天下となった後は平家に従っていました。

源頼朝に下る

源頼朝挙兵(1180年8月17日)

平治の乱以降平家に従っていた梶原景時でしたが、伊豆に流されていた源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵したことにより事態が動き出します。

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝は、舅の北条時政土肥実平、佐々木盛綱らを率いて打倒平家の兵を挙げ、伊豆国目代・山木兼隆を殺害します。

平家方としては源頼朝の反乱を許しておけるはずがなく、東国の平氏に従う武士達に、源頼朝討伐を命じます。

この平家からの源頼朝討伐命令は梶原景時にも届けられます。

そこで、梶原景時は、一族の大庭景親に率いられ、俣野景久、渋谷重国、海老名季貞、熊谷直実ら3000余騎と共に源頼朝討伐に向かいます。

石橋山の戦い(1180年8月23日)

大庭景親らの軍が迫るのを察知した源頼朝が石橋山に陣を敷いたため、大庭景親・梶原景時らは、治承4年(1180年)8月23日夜、暴風雨の中で北側から源頼朝軍への攻撃を開始します。

このとき、南側からも伊豆国の豪族である伊藤祐親が300騎を率いてやってきたため、挟撃された源頼朝軍は散々に打ちのめされて大敗します(石橋山の戦い)。

敗れた源朝朝は、夜陰に紛れて土肥の椙山に逃げ込み、「しとどの窟」に、土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎で隠れます。

源頼朝を取り逃がした大庭景親は、朝になるのを待って全軍で源頼朝の捜索と、源頼朝軍の残党狩りを始めます。

洞窟に隠れて平家方をやり過ごそうと考えた源頼朝でしたが、これを梶原景時が発見します。

ところが、梶原景時は、何を思ったか源頼朝を見逃し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと言って大庭景親らをよそへ導いて、源頼朝の命を救います。

源頼朝に下る(1180年12月)

九死に一生を得た源頼朝は、治承4年(1180年)8月29日、安房国へ逃れ、そこで千葉常胤、上総広常らを味方に引き入れます。

源頼朝は、その後も豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らを傘下に入れ、治承4年(1180年) 10月6日、膨れ上がった軍を率いて鎌倉に入ります。

そして、軍備を整えて鎌倉を発った源頼朝は、治承4年(1180年)10月20日、富士川の戦いで平維盛率いる平氏軍を撃破します。

このとき、大庭景親が源頼朝に捕らえられて処刑されています。

この後、同年12月には、梶原景時も土肥実平を通じて源頼朝に降伏します。

もっとも、梶原景時は、石橋山の戦いの後に源頼朝を見逃した恩から処刑されず、そればかりか翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列せられるという破格の待遇を受けました。

この後、梶原景時は、東国武士としては珍しく文字の読み書きができ教養が高く、弁舌も立ったことから、源頼朝に重用されて、源頼朝の東国支配に協力し、鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられ、侍所所司(次官)にも任じられています。

また、梶原景時も、源頼朝の信頼に応え、寿永2年(1183年)12月、謀反の噂があった上総広常を、双六を打っていた際に頸をかき斬り討ち取るといった汚れ仕事もこなしています。

源平合戦と源義経との対立

宇治川の戦い(1184年1月20日)

木曾義仲を討つための上陸戦に際しては、源義経の軍に従軍し、寿永3年(1184年)1月20日の宇治川の戦いに参戦しています。

なお、このときは、梶原景時の嫡男である梶原景季が佐々木高綱と先陣を争い武名を上げたことでも有名です(宇治川の先陣争い)。

宇治川の戦い後、各将が源頼朝に報告書を送ったのですが、源範頼・源義経・安田義定らのものはいずれも「勝ちました」程度の簡単なものであったのに対し、梶原景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所、様子、敵方武将の死者とそれを討ち取った者の名前など詳細に戦果を記しており、その事務能力・実務能力の高さが際立ちました。

一ノ谷の戦い(1184年2月7日)

木曾義仲を討ち取り京を奪還した源範頼・源義経らは、その後、平家の本拠地の1つであった福原へ向かって進軍して行きます。

このとき、源範頼の侍大将として土肥実平が、源義経の侍大将として梶原景時が従っていたのですが、お互いに気が合わなかったことから途中で交代したため、梶原景時は源範頼の下で戦うことになりました。

福原に攻め込むこととなった源氏方は、1184年(寿永3年)2月7日、生田口を源範頼が、夢野口を安田義定が、塩屋口を土肥実平が担当することで戦いが始まります。

このとき、梶原景時は、大手軍であった源範頼軍で奮戦し、以下の「梶原の二度駆け」というエピソードを残します。

このとき生田口では、源氏軍の先陣であった河原高直・盛直の兄弟、藤田行安などが討死するなど死傷者が続出したのですが、この状況を打破すべく、梶原景時とその息子梶原景季・梶原景高兄弟が平家方の砦の中に突撃していきます。

砦の中を荒らしまわった梶原景時らは、一旦源氏方の人に退却をするのですが、陣に戻った梶原景時は、長男の梶原景季が戻ってきていないことを知ります。

息子の危険を察知した梶原景時は、再度砦に向かって突撃し、砦の中で敵兵に囲まれていた梶原景季を助けて再び源氏方の陣に戻っていきます。

梶原景時らの活躍もあり、一ノ谷の戦いは源氏方の大勝に終わり、梶原景時は、戦後に摂津・播磨・美作の惣追捕使(守護)に任命されています。

源範頼の山陽道・九州遠征

そして、梶原景時は、一ノ谷の戦いで捕らえた平重衡を護送して一旦鎌倉へ戻り、1184年(寿永3年)4月に土肥実平とともに上洛して各地の平氏所領の没収にあたります。

その後、同年8月に範頼が平氏討伐のため鎌倉を発向するのに従って鎌倉を発ち、源範頼の山陽道・九州遠征に随行しています。

屋島の戦い(逆櫓論争)

その後、源範頼の遠征軍の苦戦が伝えられ、畿内に残っていた源義経が水軍勢力を取りまとめて、四国経由で源範頼の援軍に向かうこととなり、梶原景時は源範頼の下から源義経の下に付け変えられます(源範頼の下で九州に留まっていたとの説もありますが、本稿では源義経の下へ行った説を採用します。)。

渡辺津において軍備を整え、出港間際となった元暦元年(1185年)正月、福島(現在の大阪市福島区福島)において、源義経と梶原景時との間でトラブルが起こります。

有名な逆櫓論争です。

戦奉行である梶原景時は、源義経に対して、安全を期して船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案します。

これに対し、源義経は、後ろに下がることができるようにすれば兵が退却を考えるため、死ぬ気で戦わなくなると反論します。

ところが、これに対して、梶原景時が、進むのみで後退を知らないのは猪武者であり大将のすることではないと諫めます。

そして、さらにこれに対し、源義経が、最初から逃げることを考えていては勝てる戦も勝てなくなる、自分は猪武者で結構だと言い放ち、軍議を終えてしまいまったというものでした。

結局、源義経は、梶原景時を渡辺津に残して5艘・150騎で出港し、僅かな兵で平家の本拠地・屋島を攻略してしまいます(屋島の戦い)。

その後、源義経が志度合戦をも制した翌日である元暦2年/寿永4年(1185年)2月22日、梶原景時が、源義経の屋島攻略に数日遅れて、140余艘の船をもって屋島へ到着したのですが、源義経からその遅参を時機を逃して役に立たないものの例えである六日の菖蒲に喩えて嘲笑され、さらに源義経と梶原景時の仲を悪化させたと描かれています。

もっとも、この平家物語による逆櫓論争の逸話に対しては、吾妻鏡や玉葉では、このころ梶原景時が山陽道から九州に入った源範頼軍と行動を共にしていたと記載されているため虚構の可能性が高いとも言われており、本当のところは不明です。

壇ノ浦の戦い(1185年3月22日)

屋島を攻略した源義経率いる源氏水軍は、周防国で軍備を整えると共に、水軍の訓練を行います。

そして、ついに源義経率いる源氏水軍840艘(摂津国・渡辺水軍、伊予国・河野水軍、紀伊国・熊野水軍の連合軍)が、周防国を出発し彦島に向かって進んでいくきます(平家物語・吾妻鏡)。梶原景時も付き従っています。

先頭は、大将源義経です。

平家との最終決戦を迎え、源義経軍で軍議が行われたのですが、このときに屋島の戦い前に続いてまたも源義経と梶原景時が対立します。

軍議の際、梶原景時が先陣を希望したのですが、源義経は自身が先陣を務めるとしてこれを却下します。

これに対し、梶原景時が大将が先陣など聞いたことがない、大将は後方でじっくり腰を据えているべきだと反論します。

ところが、源義経は、源氏の大将は源頼朝であり源義経ではないからその理屈は成立しないと述べ、梶原景時を押さえつけます。

これに怒った梶原景時が、源義経に対して将の器ではないと愚弄したために、あわや源義経と梶原景時との斬り合い寸前に至ったとのエピソードが残されています。

いずれにせよ、元暦2年/寿永4年(1185年)3月22日に起こった源氏と平家の最終決戦は、潮流を味方にした源氏方が勝利し、一時は平家にあらずんば人にあらずと唄うほど栄華を極めた平家が滅亡します(壇ノ浦の戦い)。

源義経討伐

前記に記載した屋島の戦いの際の逆櫓論争や、壇ノ浦の戦いの際の先陣争いの真偽については、疑問も多く呈されているのですが、少なくとも源義経と梶原景時との間に対立があったことは間違いないようです。

実際、梶原景時は、平家打倒の報告に、鎌倉の源頼朝に対して、源義経は傲慢で諫言を聞き入れず、逆に罰せられるかもしれないので早く源義経の側から離れて関東に帰りたいと書き綴っています。

この梶原景時の報告は、「梶原景時の讒言」と呼ばれており、かつては梶原景時のみの諍いとも考えられていましたが、「梶原景時の讒言」に対し、梶原景時以外の将も源義経を弁護していないこと、後に源義経が後白河法皇の院宣を得て挙兵した際にこれに応じる武士がほとんどいなかったことなどを考えると、今日では梶原景時の讒言は真実をついていたと考えるのが有力です。

梶原景時の讒言や、後白河法皇から勝手に官位を得たことなどにより源頼朝の怒りを買った源義経は、華々しい戦果を挙げたにもかかわらず鎌倉への帰還も許されず、京に追い返されます。

さらに、鎌倉から刺客を送られた源義経は、源頼朝打倒のために挙兵しますが失敗し、奥州藤原氏の下へ逃れますが、文治5年(1189年)に藤原泰衡に殺されます(衣川の戦い)。

そして、源義経の首は鎌倉へ送られ、梶原景時と和田義盛がこれを検分しています。

鎌倉幕府宿老として

梶原景時は、文治5年(1189年)7月の奥州合戦にも参戦しています。

その後、建久元年(1190年)、源頼朝が上洛する際に、梶原景時も供奉し、途中の遠江国橋本宿での遊女を集めての宴で源頼朝と梶原景時が和歌を交わしています。

同年12月1日、源頼朝が右近衛大将に任命された際、梶原景時も拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしています。

また、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた際にもその1人に入ったのですが、この栄誉については子の梶原景茂に譲っています。

侍所別当就任(1192年)

梶原景時は、建久3年(1192年)、和田義盛に代わって侍所別当に就任します。

この人事は、奥州まで平定した鎌倉幕府としては、以降は軍事行動よりも内政が重視されることとなりますので、武勇に優れた和田義盛よりも、事務能力・実務能力に優れた梶原景時が求められたという側面が強いと言えます(当時の坂東武者は文章を書ける者はほとんどいなかったといわれており、和歌までこなせる梶原景時がいかに得難い人物であったかが伺えます)。

もっとも、文武に優れた梶原景時は鎌倉幕府侍所別当として御家人たちの行動に目を光らせて勤務評定や取り締まりにあたる目付を行いますが、権力が集中する梶原景時がその権力をふるっていくこととなるため御家人たちからは恨みを買いやすい立場となります。

13人の合議制(1199年4月12日)

建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、苦労を知らないお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。

そして、源頼家の権限は、将軍就任後3ヶ月も持たず、同年4月12日、有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制が確立され、将軍権力の抑制がなされていきます。

この13人の合議制は、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムです。

梶原景時も、有力御家人の1人としてその一翼を担います。

梶原景時の乱

梶原景時糾弾の連判状

権力の絶頂期に至った梶原景時でしたが、13人の合議制が始まってしばらくしたころから、御家人間の権利争いにより没落して行きます。

始まりは、阿波局(北条時政の娘であり、北条政子・北条義時の兄弟)が、御家人である結城朝光に対し、結城朝光が謀反を企んでいると梶原景時が将軍に讒言したと讒言したことでした。なお、真偽は不明ですが、梶原景時失脚のきっかけを作ったのが阿波局であることから考えると、北条家による他氏排斥運動の始まりであると考えるのが一般的です。

身に覚えのないことから危機に陥ったと感じた結城朝光は、三浦義村に相談し、和田義盛ら梶原景時に恨みを抱く御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まり、梶原景時糾弾のための話し合いを行います。

そして、正治元年(1199年)10月28日、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・所左衛門尉(藤原)朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長入道・佐々木盛綱入道・稲毛三郎重成入道・安達景盛・岡崎義実入道・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景入道・工藤行光・中原仲業以下御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出されました。

もっとも、これを受け取った大江広元は、梶原景時を恐れて連判状をしばらく留めていました。

この大江広元の行為に怒った和田義盛が強く迫り、遂に連判状が源頼家の下に届けられます。

連判状を見た源頼家は、同年11月12日、梶原景時を呼び出して弁明を求めたが、何を思ったのか、梶原景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて相模国一宮に下向してしまいました。

その後、梶原景時は、同年12月18日、源頼家から鎌倉からの追放を申し渡され、和田義盛、三浦義村らにより梶原景時の鎌倉屋敷が取り壊されます。

また、同年12月29日には、播磨国守護は小山朝政に、美作国守護は和田義盛に交代させられてしまいました。

梶原景時暗殺(1200年1月20日)

所領を失った上で鎌倉まで追われた梶原景時は、京で再起を図るべく(または、九州で兵を募って反乱を起こすべく)、正治2年(1200年)正月、一族を率いて相模国一ノ宮より出立し上洛の途につきます。

ところが、梶原景時ら一行は、同年正月20日、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くに達した際、偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちや相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受けます。

そして、駿河国狐崎にて子の三郎景茂(年34)・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれます。

また、嫡子景季(年39)、次男景高(年36)は山へ引いて戦ったのち討ち死にし、梶原景時は西奈の山上にて自害しました(梶原一族全滅の地は、現在は梶原山と呼ばれています。)。

梶原一族の死者は33人にも上り、その首は路上に晒されました。

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