【屋島の戦い】源義経率いる150騎の奇襲での平家拠点陥落

屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日に起こった、源頼朝方(源義経)と平家との直接対決の1つです。

平家が滅んだ壇ノ浦の戦いの直前の戦いでもあり、何と言っても「那須与一の扇の的」が有名です。

本稿では、そんな屋島の戦いについて、当時の情勢を追いつつ見ていきたいと思います。

屋島の戦いに至る経緯

一ノ谷の戦いの戦後処理

一ノ谷の戦いに勝利して福原から平家を追い払った源頼朝(源範頼・源義経)でしたが、源氏には水軍がなかったため、その勢いで平家の本拠地である讃岐国・屋島や長門国・彦島を攻撃することはできませんでした。

そこで、一ノ谷の戦いの後、源頼朝は、京の治安維持に源義経を残し、大内惟義、山内経俊、豊島有経などを畿内の惣追捕使として畿内の平家方勢力を討伐を図ります。

また、梶原景時を摂津・播磨・美作の、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使(守護)に任命して山陽道を確保します。

さらに、源頼朝自身も、知行国主として関東知行国を獲得し、源氏一族の源範頼が三河守、源広綱が駿河守、平賀義信が武蔵守に任官した上で、その他の一ノ谷の戦いを戦った東国武士団を鎌倉に戻します。

平家によるゲリラ戦

結果、一ノ谷の戦い後の山陽道の統治は、惣追捕使となった梶原景時、土肥実平らに任されることとなります。

ところが、元暦元年(1184年)7月頃から、屋島に残る平家の勢力が再び船で瀬戸内海を渡って山陽道に出没し始め、そこかしこで鎌倉御家人を襲撃するようになります。

これに対し、水軍を持たない源氏が屋島を攻撃してこれを封じることはできません。

そこで、源頼朝は、屋島を攻略して平家を討伐するのではなく、まずは平家を援助する西国家人らを鎮圧し、瀬戸内方面で平家を孤立させることを決断します。

源頼朝は、瀬戸内の平家討伐のために源義経を派遣する予定だったのですが、畿内でも平家方の勢力が兵を挙げてはこれを源義経が鎮圧するということが繰り返されていましたので、源義経を派遣することができませんでした。

源範頼の山陽道・九州遠征

そこで、源頼朝は、この西国討伐の役を鎌倉に戻っていた源範頼に任せます。源範頼の山陽道・九州遠征です。

源範頼は、元暦元年(1184年)8月8日、和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎を率いて鎌倉を出発し、途中京に入った源範頼は、同年8月27日に追討使に任命された上で軍の結集を待ち集まった3万騎を率いて、同年9月1日、京を出発し西に向かって出陣します。

山陽道を進む源範頼の軍は、同年12月に備中国で平行盛軍を撃破して(藤戸の戦い)、山陽道の一応の安全を確保します。

その後、源範頼は、さらに平家の最西の拠点・彦島を無力化するため、さらに西に向かって進んで行きます。

ところが、源範頼軍は、3万騎という大軍であったために戦線が長く伸びてしまった上、瀬戸内水運を平家水軍に押さえられていることもあって兵站がままならず、慢性的な兵糧不足に陥って進軍が停滞します。

屋島の戦い

源義経の屋島攻略作戦立案

元暦2年(1185年)1月に入ると、畿内で平氏勢力の掃討戦を続けていた源義経の耳に、西国の源範頼の苦戦の報が入ります。

ここで、源義経は、勢いの弱くなった畿内の平氏勢力の掃討よりも、西国の源範頼の助けが必要であると判断し、後白河法皇に対して、西国出兵の許しを求めます。

もっとも、水軍を持たない源氏は、この時点では大軍をもって海からのみで屋島を攻撃することはできません。

四国と本州が瀬戸内海で隔てられている上、屋島自体が四国とも独立した単独の島だったからです(現在の屋島は四国から陸続きとなっていますが、これは江戸時代の新田開発の際の埋め立てによるものです。)。

そこで、源義経は、後白河法皇の許しを得次第、屋島に向かうことを目指します。

オーソドックスなルートは、乙島から児島を通っていくルートですが、これは木曾義仲が通ろうとして水島の戦いで平家に大惨敗したルートですので避けられました。

源義経は、阿波の反平家勢力と連絡を取り、自らは少数で阿波へ渡り兵を集めつつ迂回して陸上から攻め、屋島の平家軍を引きつけた上で、梶原景時に大規模な水軍を擁して海上から攻撃させるという作戦を立てました。

そして、その準備として、源義経は、後白河法皇の回答が出る前から、畿内の海運関係者である淀江内忠俊や摂津源氏と関係の深い水軍・渡辺党の取り込み工作を行います。

渡辺党の協力を取り付けた源義経は、文治元年(1185年)1月、渡辺党の本拠地・渡辺津へと赴き、兵糧の集積と兵船の準備を進めます。

また、源義経は、元暦2年(1185年)2月、熊野別当湛増の熊野水軍と河野通信の伊予水軍をも味方につけて、これらを渡辺津に集めます。

水軍を得た源義経は、本格的な屋島攻略を決めます。

源義経の出港準備

ところが、出兵の準備を進める源義経の下に、元暦2年(1185年)2月16日、後白河法皇の使者が、源義経の西国出兵は認めないとする回答を持って現れます。

これは、後白河法皇が、いまだ畿内に平氏勢力が残る状況で源義経がいなくなることを恐れていたためでした。

後白河法皇の許しを得られなかった源義経は、やむなく後白河法皇の許しなく独断で出兵の決断をします。

逆櫓論争

準備を整えいよいよ出港となったはずの源義経でしたが、ここで想定外の内輪揉めが起こります。

有名な逆櫓論争です。

平家物語によると、論争の内容は以下のとおりです。

渡辺津を出航するにあたり、福島(現在の大阪市福島区福島)において、源義経と戦奉行の梶原景時とで軍議を持ったのですが、ここで梶原景時が船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案します。

これに対し、源義経は、後ろに下がることができるようにすれば兵が退却を考えるため、死ぬ気で戦わなくなると反論します。

ところが、これに対して、梶原景時が、進むのみで後退を知らないのは猪武者であり大将のすることではないと諫めます。

そして、さらにこれに対し、源義経が、最初から逃げることを考えていては勝てる戦も勝てなくなる、自分は猪武者で結構だと言い放ち、軍議を終えてしまいまったというものでした。

なお、このときの論争により、梶原景時と源義経が双方に対する遺恨を持ち、後の源頼朝への讒言へと繋がったとされています。

この平家物語による逆櫓論争の逸話に対しては、吾妻鏡や玉葉では、このころ梶原景時が山陽道から九州に入った源範頼軍と行動を共にしていたと記載されているため虚構の可能性が高いとも言われています。

源義経出港(1185年2月18日)

いずれにせよ、源義経は、梶原景時ら水軍本隊を渡辺津に残し、寡兵を率いて渡辺津から屋島へ出兵することを決断します。

しかも、よりによって暴風雨で海が荒れ狂っていた元暦2年(1185年)2月18日午前2時に船を出します。

このとき、荒れる海を見て、海での戦いに慣れていない源氏方の諸将は出航を見合わせた結果、源義経に従ったのは僅か5艘150騎であり、この5艘にも弓で船頭を脅して何とか出港したという有様でした。

なお、吾妻鏡によると、同日午前2時に渡辺津を出た源義経らは、同日午前6時に阿波国・勝浦に到着したとされていますが、これだと通常3日かかるルートを僅か4時間で到着したこととなるためにあり得ないと考えられますので、吾妻鏡が出発日または到着日を1日間違え、実際には1日と4時間の航行だったという見解が有力です。

荒れた海を越えて同年2月18日早朝に阿波国・勝浦に上陸した源義経は、在地武士であった近藤親家を伊勢義盛の説得により味方につけ、近藤親家の道案内に従って屋島に向かって進んで行きます。

これに対し、屋島の平氏方は、源氏軍の本隊が渡辺津にいたため、源氏の攻撃はまだ先であると考え、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かうなどしており、屋島の守りは薄く、屋島には僅か1000騎程しか残していませんでした。

源義経の屋島奇襲(1185年2月19日)

屋島に向かって進軍していく源義経は、途中で、阿波国衙に隣接する平家方の重要拠点であり、平家最大与党・阿波民部大夫の近親者である桜庭良遠(田口成良の弟)の桜間館を襲って打ち破った後、夜を徹して屋島へ向かって進撃していきます。

途中、丹生に至った際に、源義経は、自身が率いる軍が寡兵であることを悟られないようにするために軍を2つに分け、屋島を挟み込む形でそれぞれが屋島に向かい、同年2月19日に屋島の東側と南側に至ります。

南側に回り込んで屋島に取りついた源義経は、周囲の調査を行った結果、屋島は、満潮時には到達困難であるものの干潮時には騎馬で渡ることができることを知り干潮時を見計らって強襲することを決めます。

そして、干潮の時間になると、屋島の南側と東側の民家等に一斉に火をかけて大軍の襲来と見せかけた上で、源義経率いる80騎が一気に安徳天皇行宮へと攻め込みます。

屋島にいた平家軍は、渡辺津にいると思っていた源氏方が現れ、しかも予想していた海上ではなく陸路で攻めてきたのを見て狼狽し、屋島と安徳天皇行宮を捨てて海上へ逃げ出します。

一旦海上に逃れた平家でしたが、その後の戦闘経過を見ると、源氏方の兵力が少数であることを知ります。

そこで、海上に逃れた平家軍は、再度屋島に戻り、源氏方に反撃を加えます。

このとき、平家の猛将・平教経から放たれた矢が源義経に迫り、これを郎党の佐藤継信が庇って源義経の盾となり討ち死にします(もっとも、吾妻鏡によると、平教経は一ノ谷の戦いで討ち死にしていることとなっていますので、真偽は不明です。)。

また、この復讐として、平教経の童であった菊王丸が、佐藤継信の弟である佐藤忠信に射られて討ち死にしたと言われています。

那須与一の「扇の的」

元暦2年(1185年) 2月19日の戦いがひと段落し、同日夕刻に休戦状態となります。

そうしたところ、平家軍から美女の乗った小舟が現れ、源氏方に対して、竿の先の扇の的を射よと挑発します。

挑発された源氏方は、対応しなければ逃げたとののしられることは明らかですが、射た結果外してしまえば源氏の名折れになります。

困った源義経は、手だれの武士であると見込んで畠山重忠に射撃を命じますが、畠山重忠はこれを辞退し、代りに下野国の武士・那須十郎を推薦します。

ところが、那須十郎も傷が癒えていないとこれを辞退し、弟の那須与一(なお、与一とは名前ではなく、単に11男である「十与一」という意味です。)を推薦します。

押し付けられる結果となった那須与一でしたが、上司が次々と辞退した結果断り切れなくなり、やむなくこれを引き受けます。

そして、那須与一は、岸から的を射ようとしたのですが遠すぎたために距離を詰めるために海に馬を乗り入れ、射損じれば腹をかき切って自害するとの覚悟の上、弓を構えて「南無八幡大菩薩」と唱え、鏑矢を放ちます。

そうしたところ、那須与一の放った矢は扇の柄を射抜きます。

平家物語の「扇の的」の名場面です。

那須与一の妙技に、源氏方・平家方のいずれも驚嘆し、これを見ていた平家方の齢50歳位の武士が舞い始めます。

ところが、源義経が、那須与一に対して、舞う老齢の武士も射貫くよう命じ、那須与一はこれもまた射貫きます。

これに怒った平氏が源氏に攻めかかったため、再び激しい合戦が始まります。

ここでも、有名な源義経の弓長しというエピソードが起こります。

再び始まった戦闘の最中、源義経が海中に打ちいって戦っていた際に、脇下にはさんでいた弓を海に落としてしまったのですが、源義経が周りが止めるのを無視してわざわざ敵の攻撃をかいくぐり、海に弓を取りに行ったのです。

このとき、平家方の越中次郎兵衛盛嗣に熊手をかけられたため、源義経は危うく海に落ちかけたのですが、何とか太刀で熊手をあしらい、左手の無知で弓をかき寄せて引き上げます。

何とか弓を拾い上げて戻ってきた源義経は郎党から注意を受けたのですが、これに対して源義経は平家方に弓を拾われ源氏の大将の弓がこんなに張りの弱い弓を使っているのかと嘲られては末代までの恥辱だったからと答えたそうです。

屋島の戦い決着

その日の戦いは、日の入りと共に終了しましたが、その後に、遅れて渡辺津から出航してきた(源範頼方の九州からとの説もあります。)梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫るとの報が入ったため、平家方は屋島を放棄して一旦は東側にある志度寺に逃れますがそこも放棄し(志度合戦)、平家最後の拠点である彦島へ退き、屋島の戦いが終わります。

屋島の戦いの戦後

屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失います。

既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまいます。

こうして、陸路から迫る源範頼軍、水路から迫る源義経軍により、彦島攻略作戦が始まり、源平最後の決戦「壇ノ浦の戦い」へと進んでいきます。

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