志度合戦(しどかっせん)は、屋島の戦いに敗れて屋島を失った平家が、一旦東側に逃れて四国での再起を試みた戦いです。
もっとも、志度合戦の決着はあっけなく、度重なる敗戦と屋島の陥落により士気の下がった平家軍は、源義経率いる源氏軍に対し、本格的な戦いをするまでもなく敗退し、結果として四国を源氏に明け渡す結果に至りました。
本稿では、そんな屋島の戦いと壇ノ浦の戦いの架け橋となった志度合戦について見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
志度合戦に至る経緯
元暦2年/寿永4年(1185年)2月19日の源義経の奇襲等により、屋島を捨てて海上に逃れた平家総大将の平宗盛は、安徳天皇を奉じて五剣山を越え、屋島の東側にある讃岐国の志度寺に入ります。
これに対し、源義経が、追撃のために80騎を率いて志度寺に至ります(吾妻鏡・文治元年2月21日条)。
ここで、平氏家人・田内左衛門尉が源義経に帰順し、また河野通信が30艘の船を整えて加わります。
志度合戦(1185年2月21日)
志度寺に迫る源義経軍ですが、田内左衛門尉及び河野通信の軍勢わ加えても平家に比べて圧倒的に寡兵でした。
そこで、数の優位があると判断した平家方は、1000余騎を繰り出して、源義経が陣を敷く渚に攻め込みます。
混戦となったのですが、屋島に残していた200騎が源義経の援軍に現れたます。
このとき、熊野別当湛増が源氏に味方するため渡海するとの噂があったため、源氏の大軍がやってくると判断した平家は、志度寺を捨てて再び海へ逃れていきました(平家物語)。
こうして屋島にいた平家一門は四国を追われることになったのですが、畿内は佐原義連・佐々木定綱・津々見忠季・大内惟義らに、山陽道は土肥実平・梶原景時に、九州は源範頼に押さえられていることから、瀬戸内に平家が上陸できる場所はありません。
やむなく、平家一門は、瀬戸内海をさまよって転々としながら最後の拠点である彦島へ退いていきました。
志度合戦後
田口教能の帰還
他方、志度寺を押さえ、同地にて首実検をする源義経の下に、伊予国の河野通信討伐に赴いていた平氏方の田口一族・田口教能が、3000騎を率いて屋島・志度寺方面に戻ってきていました。
屋島を攻略した源義経としては、3000騎を相手にする兵力はありません。まともに戦えば結果は見えています。
田口教能の降伏
そこで、源義経は、田口教能を投降させる作戦をとります。
具体的には、郎党の伊勢義盛以下の16騎に戦意がないことを表す白装束を着せて、田口教能と対面させます。
ここで、伊勢義盛が、田口教能に対して、屋島の戦いで田口教能の父・田口重能を捕虜にして預かっているところ(実際は彦島にいました。)、田口教能の安否を気遣っている、戦って父に会えずに死ぬも降伏して父に再開するも田口教能次第であると言葉巧みに語りかけます。
屋島が陥落したことにより意気消沈していた田口教能は、伊勢義盛の話を信じてしまい、配下の3000騎と共に源義経に降伏しました。
なお、この田口教能の降伏が、後に壇ノ浦の戦いで田口重能が平家を裏切る伏線となっています。
梶原景時の到着(1185年2月22日)
源義経が志度合戦を制した翌日である元暦2年/寿永4年(1185年)2月22日、梶原景時が、源義経の屋島攻略に数日遅れて、140余艘の船をもって屋島へ到着します。
なお、嵐を避けて渡辺津から(または、九州の源範頼軍から)の行程であったため、想定通りのスケジュールだったのですが、平家物語では、源義経からその遅参を時機を逃して役に立たないものの例えである六日の菖蒲に喩えて嘲笑され、さらに源義経と梶原景時の仲を悪化させたと描かれています。
壇ノ浦の戦いへ
屋島に梶原景時率いる水軍が到着したため、源義経は、水上交通手段を得ます。
これにより、源義経は、水軍を率いて平家最後の本拠地である彦島を目指して屋島を発ちます。
屋島を発った源義経軍は、途中の周防国で水軍の鍛練を行った後、いよいよ、源平争乱(治承・寿永の乱)のクライマックスである壇ノ浦の戦いに挑みます。