【木曾義仲(源義仲)】平氏を京から追い払い朝日将軍と呼ばれた男の転落人生

木曾義仲の波乱万丈の人生をご存知ですか。

平氏打倒で名を挙げて朝日将軍として謳われるなど誰もがうらやむ名声を得ながら、人心を失って悲しい最期を遂げた人物です。

平家物語に描かれた、幼い頃から苦楽を共にしてきた巴御前との別れのエピソードなどが有名かもしれません。

本稿では、そんな波瀾万丈の人生を駆け抜けた木曾義仲の生涯について、できるだけわかりやすく説明していきたいと思います。

木曾義仲の出自

木曾義仲出生(1154年)

木曾義仲は、久寿元年(1154年)、清和源氏の流れをくむ河内源氏一門の源義賢の次男として生まれます。

生誕地は父・源義賢の勢力下にあった上野国・大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町付近)で、幼名は駒王丸といいました。

源義賢は、皇太子東宮の警護職である帯刀(たちはき)の長官を意味する先生(せんじょう)を務める程のエリート武士であり、遊女に産ませた子が木曽義仲と伝えられています。

木曽谷に逃亡(1155年8月)

源義賢は、兄である源義朝(源頼朝の父)と源氏の棟梁の座を争って対立し、久寿2年(1155年)8月16日、源義朝の長男である源義平に討ち取られます(大蔵合戦)。

源義賢は、平氏ではなく、同じ源氏に敗れたのです。

大蔵合戦の敗北により当時2歳の木曾義仲も討伐対象となりますが、畠山重能・斎藤実盛らが見逃し中原兼遠に預けて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れさせたため、木曾義仲は命だけは助かります。なお、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もあります。

その後、木曾義仲は、中原兼遠の庇護の下で育てられ、木曾次郎と名乗ったそうですが、このころの詳しい記録は残っていません。

隠遁生活

当初は、同じ源氏一族である源義朝から隠れながら木曽谷において成長していった木曾義仲ですが、平治元年(1159年)に発生した平治の乱により源義朝が敗死すると、源氏全体の勢力が一気に衰えて世の中は平氏の勢力に席巻されます。

ここで、八幡太郎源義家の直系である木曽義仲も、今度は平氏から逃れるために木曽谷での隠遁生活を続けます。

元々は源氏の家人であった中原兼遠も、平氏の天下となった後は平氏の番役として度々京に上っていたようで、木曽義仲はそんな中原兼遠に同行して上京し、驕り高ぶる平氏の腐敗状況を目にしていたようです。

なお、真偽は不明ですが、木曾義仲に最後まで従った巴御前も中原兼遠の娘とも言われていますが、本当のところはわかりません。

元服(1166年)

木曾義仲は、仁安元年(1166年)、石清水八幡宮において元服の儀を執り行い、木曾次郎義仲と名乗ります。

そして、中原兼遠は、木曾義仲を主君と仰ぎ、息子である樋口次郎兼光と今井四郎兼平の2人を木曾義仲につけて仕えさせています。なお、この2人は後に義仲四天王にも数えられます。

 

平氏と戦うため挙兵

以仁王の令旨(1180年4月9日)

治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の第3皇子である以仁王が、平氏の横暴に耐えかねて、全国に平氏打倒を命じる御教書(以仁王の令旨)を発し挙兵します。

木曾義仲の叔父である源義盛が、源行家と名を変え、また山伏の姿に変装して、翌同年4月10日に密かに京を脱出して諸国に点在する源氏に挙兵を呼びかけて回ります。

源行家は、近江国・美濃国・尾張国と順に回って源氏諸勢力に令旨を知らせて回ります。

同年4月27日には、伊豆国・蛭嶋にいた源頼朝にも令旨を届けています。

源行家は、その後、甲斐国の武田信義、信濃国の木曾義仲らに令旨を届けています。

なお、木曾義仲の兄である源仲家は、以仁王の挙兵に参戦し、源頼政と共に宇治で討死しています。

源氏の3勢力の旗揚げ

源氏の勢力は、各地で旗揚げをしますが、その大部分は平氏に鎮圧されて終わります。

もっとも、平氏の抵抗を排して活躍をした源氏勢力が3つあります。

1つ目の勢力は、甲斐源氏・武田信義です、

甲斐源氏の武田信義は、治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、以仁王の令旨に応じて挙兵しています。

武田信義は、同年4月の挙兵後、信濃国伊那郡へ出兵した後、同年8月頃、安田義定、一条忠頼らと協力して甲斐国を制圧します。

そして、武田信義は、勢いを増す源頼朝と計って、その勢いのまま駿河国に侵攻し、同年10月14日、富士山の麓で駿河目代・橘遠茂を撃破します(鉢田の戦い)。

2つ目の勢力は、源頼朝です。

治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ挙兵します。

初戦である石橋山の戦いこそ敗れはしたものの、その後安房国に逃れて勢力を募り、鎌倉に入った源頼朝は、先に挙兵していた武田信義と同盟を結び、富士川の戦いで平氏軍を蹴散らしてその存在感を強めます。

もっとも、富士川の戦い後、武田信義は駿河国・遠江国の支配権を得てその統治に、また源頼朝は東国支配権確立に注力したため、すぐには平氏追討の戦いとはなりませんでした。

このとき、平氏追討の急先鋒となったのが、3つ目の勢力である木曾義仲です。

木曾義仲挙兵(1180年9月)

木曾義仲は、源頼朝が挙兵したことを知り、自分も源氏嫡流であるとの自負もあって信濃国の武士に令旨を伝え、(おそらく木曽谷で)兵を集めて挙兵します。ときに木曾義仲27歳でした。

これに対して、平家に与する信濃の豪族・笠原平五頼直が、木曾義仲討伐のために木曾への侵攻を企てたたため、それを察した源氏方の村山七郎義直と栗田寺別当大法師範覚らとの間で、治承4年(1180年)9月7日に信濃国水内郡市原付近での戦いが行われます。

村山義直からの要請に応じて、木曾義仲が援軍として到着したところ、不利を悟った笠原頼直が退却し、戦いは木曾義仲方の勝利に終わります(市原合戦)。

その後、木曾義仲は、父・源義賢の旧領であった上野国・多胡郡に向かいますが、既に源頼朝に押さえられていたことを知り、信濃国に戻ります。

木曾義仲の快進撃

信濃国に戻った木曾義仲は、兵を募って勢力を拡大させていたのですが、これを脅威と見た平氏は、越後国の城助職に追討を命じます。

城助職は、治承5年(1181年)6月、大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣します。

対する木曾義仲は、信濃国・佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆、計3000騎を集結して北上、同年6月13日、横田河原において両者が激突します。

越後軍には長旅の疲れや油断もあって総崩れとなり、兵力で劣る木曾義仲方が勝利を収めます(横田河原の戦い)。

木曾義仲は、横田河原の戦いの後、逃げ帰る城助職を追いかけて会津まで追い払い、越後国府に入って越後国の実権を握ります。

この信濃勢の勝利の後、若狭、越前などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発になり義仲は後に倶利伽羅峠の大勝を得て北陸を制覇する基盤を獲得することになります。

木曾義仲が信濃国から越後国に勢力を伸ばし、さらに北陸道を西に進んだことにより、平氏は北陸方面の勢力を失います。

養和2年・寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承することとなります。

この結果、木曽義仲は、京の平氏、鎌倉の源頼朝と並ぶ3つ目の巨大勢力に成長します。

この後、木曾義仲は、甲斐国・南信濃・駿河国・遠江国に勢力を伸ばした甲斐源氏・武田信義頼朝との衝突を避けて、北陸方面に勢力を伸ばしていきます。

もっとも、養和2年(1182年)は、養和の大飢饉によって食糧調達がうまくいかず、平氏方において木曾義仲討伐に軍を派遣することができませんでした。

翌寿永2年(1183年)になり、飢饉がひと段落したため、平氏は東国反乱勢力活動を再開し、まず第一に兵糧の供給地たる北陸道の回復を図ります。

そこで、平氏方は、寿永2年(1183年)4月17日、平維盛を総大将として10万人とも言われる大軍で北陸へ向かい、同年4月26日に越前国に入ります。

倶利伽羅峠の戦い(1183年5月11日)

寿永2年(1183年)4月27日、平氏の大軍は、木曾義仲方についた越前・加賀の在地反乱勢力が籠もる越前国・火打城を取り囲んだ後、陥落させます。

その勢いで平氏方は、仁科太郎守弘や平泉寺長吏・齋明威儀師が守る越前国・燧ヶ城も攻略します。

燧ヶ城を脱出した源氏方の北陸武士たちは、河上城に集結するもすぐに城は陥落し、三条野(現在の金津町御簾尾で熊坂峠の入口あたり)で平氏勢を迎え討ちますが、またも敗れ、ついに平氏に越前国を奪還されます。

勢いに乗る平氏軍は、そのまま東進して加賀国に入って木曾勢の築いた城を立て続けに攻略し、加賀国も奪還します。

その結果、支配地域のうち越前国と加賀国を失った木曾義仲は苦しくなります。

そして、平氏軍は、さらに越中国に侵攻するべく、加賀国からさらに東に進んで、般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地に陣を敷きました。

これを見た木曾義仲が動きます。

寿永2年(1183年)5月9日明け方、般若野に陣を敷いていた平氏軍先遣隊である平盛俊の軍に対し、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平が奇襲をかけてこれを打ち払ったのです(般若野の戦い)。

般若野の戦いの敗戦により、平氏軍は、倶利伽羅峠の西まで戻り、軍を2手に分け、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛・平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛・平行盛・平忠度らの7万余騎とする形での軍の再編を行います。

軍を2手に分けた平氏に対し、木曾義仲方も直ちに対応します。

寿永2年(1183年)5月11日、陽動のために源行家・楯親忠の兵が志雄山へ向けて進軍して平氏方を牽制し、木曾義仲本軍が平氏本隊の砺波山へ向かいます。

砺波山へ取り付いた木曾義仲軍は、義仲四天王・樋口兼光隊に平氏本隊の背後に回らせて夜を待ちます。

そして、同日深夜、木曾義仲本隊が大きな音を立てながら平氏軍本隊に奇襲を仕掛けます。

正面からの攻撃を防ぎ切れないと判断した平氏軍は、後方へと退却をしようと試みますが、後方は義仲四天王・樋口兼光隊に押さえられているため後方からの退却もできません。

平氏軍は、暗闇の中で唯一木曾義仲軍が殺到してこない方向に一目散に逃げていきますが、そこは倶利伽羅峠の断崖であったため、平氏方の将兵が次々に谷底に転落して半数近い兵を失います。

戦いに敗れた平維盛は、残る兵を引き連れて退却しますが、木曾義仲は退却をする平維盛を追いかけます。

そして、木曾義仲は、加賀国・篠原で平氏軍に追いつき、逃げる平氏軍を後方から攻撃します。

逃走中に後方から攻撃を受けた平氏軍は、ほとんど抗戦することなく一方的に蹂躙され、平氏方は総崩れとなって壊滅し、平維盛は僅かな兵に伴われてからがら京へ逃げ帰るという有様となりました。

平氏を蹴散らした木曾義仲は、沿道の武士たちを糾合しながら勢力を拡大しつつ京を目指します。

寿永2年(1183年) 6月10日に越前国、同年6月13日に近江国へ入った木曾義仲は、同年6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めます。

木曽義仲上洛

平家都落ち(1183年7月25日)

寿永2年(1183年)7月、源行家が伊賀方面から進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫ります。

この源氏の動きを見た平氏は、同年7月25日、一連の戦いで多くの兵を失った平氏軍では都の防衛は不可能であると判断し、安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を擁し、三種神器を携えた上で京を出ます(平家都落ち)。

なお、このとき平氏方は、後白河法皇をも伴うつもりでしたが、危機を察した後白河法皇が鞍馬寺を経由して比叡山に身を隠したため、なんとかこれをやり過ごしています。

都を後にした平氏一門は、福原に立ち寄って火を放ち、さらに西に落ちていきます。

木曽義仲入京(1183年7月28日)

平氏がいなくなったため、寿永2年(1183年)7月27日、まずは後白河法皇が、木曽義仲に臣従した山本義経の子である錦部冠者義高に守護されて都に戻ります。

そして、木曽義仲も、翌日同年7月28日に、比叡山に逃れていた後白河法皇を伴って入京します。

入京後、木曽義仲は、六条西洞院を拠点として活動を開始し、源行家と共に蓮華王院に参上し、後白河法皇から平氏追討を命じられます。

同年7月30日に開かれた公卿議定において、勲功の第1が源頼朝、第2が木曽義仲、第3が源行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになりました。

また、在京する木曽義仲に、京中の狼藉の取り締まりが委ねられ、同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当することとなります。

その上で、同年8月10日に勧賞の除目が行われ、木曽義仲は従五位下・左馬頭・越後守、源行家は従五位下・備後守に任ぜられます。

また、同年8月16日になると、木曽義仲は伊予守、源行家は備前守に命じられます。

このときが木曽義仲の人生のピークとなりました。

嫌われ者の兵士を都から追い出したヒーローとして、朝日将軍という称号までも得ることとなりました。

 

期待から失望へ

皇位継承問題への介入

御白河法皇は、安徳天皇は平清盛が勝手に即位させた天皇に過ぎないとして、その廃位と安徳天皇・三種神器の返還を平氏に求めたものの交渉は不調に終わります。

そこで、御白河法皇は、やむを得ず、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮(惟明親王)か四之宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することで話を進めようとします。

ところが、よせばいいのに、ここで木曾義仲がしゃしゃり出ます。

木曾義仲は、平氏追放の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統であるとして、以仁王の息子である北陸宮を即位させるよう朝廷に圧力をかけます。

天皇の皇子が二人いるのにもかかわらず、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという提案など受け入れられようはずがありません。

この木曾義仲の提案は、宮中の政治・文化・歴史への知識や教養がない「粗野な人物」として疎まれる契機となり、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から、後白河法皇や朝廷貴族らから総スカンを喰らいます。

これは、幼少期を京で育ち京文化を熟知する源頼朝とは違い、地方の山村で育った木曾義仲の限界でした。

京の治安悪化

木曽義仲は、北陸道において沿道の武士たちを糾合しつつ大軍となって京に到達します。

もっとも、このころ西国は養和の大飢饉に見舞われており、突然現れた大軍を養うだけの食料がありませんでした。

そして、このとき木曾義仲が引き連れていたのは、木曾義仲の部下ではなく、源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であったため、木曾義仲が全体の統制が出来る状態にありませんでした。

そのため、木曾義仲に連れられた遠征軍の兵士達が飢えて都やその周辺で略奪行為をはじめてます。

これにより、本来は都周辺の治安維持をするはずの軍によって急速に京周辺の治安が悪化するという事態が生じます。

これに対し、後白河法皇は、木曽義仲を呼び出して兵による狼藉を止めるよう命じますが、木曾義仲にはどうすることもできません。

京市中に住む人々も、平氏の方がマシだったと、あれほど嫌っていた平氏と比べてさらに木曾義仲に嫌悪感を示すようになります。

やむなく、木曽義仲は、寿永2年(1183年)9月20日、皇位継承問題や治安悪化によって失った信用を回復するため、腹心の樋口兼光を京都に残し、このとき讃岐国・屋島にあった平氏の拠点にに向かいます。

水島の戦い(1183年閏10月1日)

寿永2年(1183年)閏10月1日、四国へ渡海する準備として、木曽義仲方の足利義清・足利義長兄弟と海野幸広(海野氏)を指揮官として、備中国・水島(現在の倉敷市玉島)に陣を敷いて船を出します。

他方、対する平家は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより海上に陣を構築します。

そして、源平両軍の船舶が接近して戦闘が開始したのですが、このとき海に慣れた平氏方は、よく整備された軍馬によって海岸まで泳いで水島に上陸し木曾義仲軍を蹴散らします(水島の戦い)。

この水島の戦いにより、木曾義仲方では足利義清、海野幸広、足利義長、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失って壊滅し京へ敗走することになりました。

他方、この勝利により平家軍は勢力を回復し、摂津国・福原までその勢力を押し戻します。

そして、このまま木曾義仲対平家氏の西国戦線が膠着します。

源頼朝待望論

木曽義仲が水島の戦いで敗れたとの報を聞いた後白河法皇は、京で嫌われ者となっていた木曽義仲に代わるもう1つの源氏勢力である源頼朝に上洛を要請します。

源頼朝は皇位継承問題に特段の意思がないために扱いやすく、また木曾義仲に対する失望もあったため、後白河法皇は木曾義仲と距離を置き始め、源頼朝に接近することとしたのです。

これに対し、寿永2年(1183年)閏10月7日、源頼朝は、藤原秀衡と佐竹秀義に鎌倉を攻められる虞があること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に使者を返して後白河法皇の要請を断ります。

困った後白河法皇は、同年10月9日に平治の乱で止めた頼朝の位階を復すると、14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を源頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を源頼朝が行うという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨)。

これにより、源頼朝は私的に行っていた東国の所領の収公や御家人の賞与罰則について(御恩と奉公)、朝廷から公的お墨付きを得ます。

また、この寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた源頼朝率いる鎌倉政権が朝廷から公式に認められる勢力となります。

 

源頼朝との戦い

敵が平氏から源頼朝に変更される

この後白河法皇の源頼朝への接近に焦りを感じた木曽義仲は焦り、寿永2年(1183年)10月15日、急ぎ平氏との戦いを切り上げて、少数の供廻りだけを連れて京に戻ります。

そして、木曾義仲は、同年10月20日、法住寺殿にいる後白河法皇の下に赴き、源頼朝の上洛を促したこと、源頼朝に宣旨を下したことに対して激烈な抗議をするとともに、源頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、及び志田義広の平氏追討使への起用を要求しますが、許されませんでした。

木曾義仲の敵が、平氏から源頼朝に変わった瞬間でした。

後白河法皇による最後通牒

鎌倉軍の侵攻に焦る木曾義仲は、軍議を開き、後白河法皇を奉じて関東に進軍して鎌倉軍を迎え撃つという案を検討しますが、源行家、土岐光長の猛反対により廃案となります。

また、興福寺の衆徒に源頼朝討伐を命じることに決め命令を下しますが、興福寺の衆徒がこれを拒絶したため上手くいきませんでした。

木曾義仲軍内部では、木曾義仲と源行家との不仲もあって瓦解状態となり、収拾がつかない状態となります。

そうこうしている間に、寿永2年(1183年)11月4日、源範頼と源義経が率いる軍が不破の関(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にまで達し、京に迫ります。

源頼朝軍が迫るとの報に力を得た後白河法皇は、木曾義仲を京都から放逐するため、木曾義仲との対抗戦力への接近を図るようになります。

この動きに対し、木曾義仲は、後白河法皇に対して、鎌倉軍が少数であれば入京を認めると妥協案を示しますが、後白河法皇はこれを拒否し、逆に延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせて法住寺殿の武装化を行います。

また、木曾義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れて、数の上では木曾義仲軍を凌ぐほどに膨れ上がります。

木曾義仲を超える勢力となった判断した後白河法皇は、木曾義仲に対し、ただちに平氏追討のため西下せよ、院宣に背いて源頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら謀反と認めて成敗するという最後通牒を発します。

法住寺合戦(1183年11月19日)

寿永2年(1183年)11月19日、追い詰められた木曾義仲は、後白河法皇がいる法住寺殿を襲撃します。

後白河法皇方では、土岐光長・光経父子が奮戦しましたが大敗し、法住寺殿から脱出しようとした後白河法皇が捕縛されます。

そして、木曾義仲は後白河法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉し、翌同年11月20日、義仲は五条河原に光長以下百余の首をさらすなどして朝廷を掌握します。

同年11月21日、木曾義仲は、松殿基房(前関白)と連携し、同年11月22日には基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立します。

その上で、同年11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、中納言・藤原朝方以下43人が解官され、前摂政・近衛基通の家領八十余所を木曾義仲に与えることが決まります。

さらに、同年12月1日、木曾義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握します。

その上で、木曾義仲は、同年12月10日、幽閉中の後白河法皇に圧力をかけて源頼朝追討の院宣を発給させます(これにより形式上は源頼朝が朝敵となりました。)。

木曾義仲の最期

宇治川の戦い・瀬田の戦い(1184年1月20日)

朝廷権力を掌握した木曾義仲ですが、寿永3年(1184年)1月6日、その後も西進を続ける鎌倉軍が美濃国へ入ったという報を聞かされます。

ここで、木曾義仲は北陸道を下って本拠地に戻るか、鎌倉軍を迎え撃つかの判断に迫られます。

このとき、木曾義仲は、鎌倉軍が飢饉によって兵を動員することができず兵数はわずか1000人程度にすぎないとの偽の情報に惑わされ、北陸道下向を取りやめて、鎌倉軍を迎え撃つという判断をします。

同年1月15日、自らを征東大将軍に任命させた木曾義仲は、源頼朝軍討伐の準備を行います。

ところが、同日夜、鎌倉軍の勢力が少ないとの情報が間違いでありその総数は数万人であるとの報が入り、木曾義仲は焦ります。

もっとも、このときには既に北陸道の入り口となる近江国・瀬田が源範頼に押さえられていたため、木曾義仲の北陸道下向の選択がなくなります。

木曾義仲は、やむなく、義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、木曾義仲自身は100余騎で院御所を守護する形で鎌倉軍を待ち受けます。

そして、寿永3年(1184年)1月20日、源範頼が3万騎で瀬田を、源義経は2万5千騎で宇治を攻撃します。

源義経が攻める宇治川では、源義経軍が矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れることで戦いが始まります。なお、佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこのときに起きています。

宇治を守る根井行親、楯親忠は必死の防戦をしますが、多勢に無勢で勝負にならず、すぐに源義経軍に宇治川を突破されます。

そして、源義経軍は雪崩を打って京へ突入したため、木曾義仲がこれに応戦しますが、ここでもすぐに敗れます。

木曾義仲は、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かいますが、源義経が自ら数騎を率いて追撃して院御所門前で木曾義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功します。

粟津の戦い(1184年1月20日)

京を奪われ、後白河法皇を連れ出すことにも失敗した木曾義仲は、源範頼の攻撃を受けていた瀬田へ向かいますが、大津までたどり着いた際、瀬田を突破されて退却してきた今井兼平と合流します。

このとき、木曾義仲は、今井兼平と共に北の北陸道への脱出をはかりますが、ここに今井兼平を追ってきた源範頼の大軍が襲いかかります。

木曾義仲・今井兼平らは、必死に防戦をするも、供をする兵が次々に討たれていき、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で木曾義仲が顔面に矢を受けて討ち取られます。享年31歳でした。

木曾義仲敗死を見た今井兼平は、木曾義仲を追って自害し、これより木曽義仲軍が壊滅し,木曾義仲の時代が終わります(粟津の戦い)。

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