【倶利伽羅峠の戦い】平家の大軍を壊滅させた木曾義仲の奇襲戦

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は、寿永2年(1183年)5月11日、北陸地方で勢力を高めていた木曾義仲(源義仲)を討伐するために派遣された平維盛率いる平家軍と木曾義仲軍とが激突した戦いです。

倶利伽羅峠の戦いの直前は戦局が平家方有利に進んでいたのですが、倶利伽羅陶芸での木曾義仲による奇襲によって、それまでの戦局が一変するというターニングポイントとなりました。

本稿では、歴史の転換点となった倶利伽羅峠の戦いについて、合戦に至る経緯から説明していきます。

木曾義仲による北陸支配

以仁王の令旨を受け取る

久寿2年(1155年)8月16日、父・源義賢が、源義朝の長男である源義平に討ち取られたため(大蔵合戦)、木曾義仲(源義仲)は、信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、在地豪族であった中原兼遠の庇護下で育ちます。

木曽谷で成長した木曾義仲の下に、治承4年(1180年)、叔父である源行家(源義盛)が、平家打倒を訴える以仁王の令旨を携えて現れます。

この以仁王の令旨は、同年4月9日にしたためられた後、近江国・美濃国・尾張国と順に回って源氏諸勢力に届けられ、その後、伊豆国の源頼朝、甲斐国の武田信義を経て、信濃国の木曾義仲の下に届いたものでした。

以仁王の令旨を受けて源氏の諸勢力が各地で旗揚げをしますが、その大部分は平家に鎮圧されて終わります。

もっとも、平家の抵抗を排して活躍をした源氏勢力が3つあります。

1つ目の勢力は、武田信義安田義定らを中心とする甲斐源氏です。

甲斐源氏の武田信義は、治承4年(1180年)4月下旬または5月上旬ころ、以仁王の令旨に応じて挙兵しています。

2つ目の勢力は、源頼朝です。

治承4年(1180年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じ挙兵します。

そして、3つ目の勢力が、平家追討の急先鋒となった木曾義仲です。

木曾義仲挙兵(1180年9月7日)

27歳となっていた木曾義仲は、源頼朝が挙兵したことを知り、自分も源氏嫡流であるとの自負もあって信濃国の武士に令旨を伝え、木曽谷で兵を集めて挙兵します。

当然ですが、すぐにこれに対して平家方対応し、信濃の豪族・笠原平五頼直を木曾義仲討伐に向かわせることとします。

笠原平五頼直の侵攻に対しては、治承4年(1180年)9月7日、源氏方の村山七郎義直・栗田寺別当大法師範覚らが信濃国水内郡市原付近で防戦し、その後に木曾義仲が援軍として駆けつけたこともあって戦いは木曾義仲方の勝利に終わります(市原合戦)。

初戦に勝利した木曾義仲は、味方を募るために父・源義賢の旧領であった上野国・多胡郡に向かいますが、同地は先に挙兵していた源頼朝に押さえられていたことを知り、やむなく信濃国に戻ります。

木曾義仲が越後国を獲得

平家方は、信濃国に戻った木曾義仲を討伐するため、越後国の城助職に木曾義仲追討を命じます。

治承5年(1181年)6月、城助職は大軍を率いて信濃国に侵攻し、川中島平南部の横田城に布陣します。

対する木曾義仲は、信濃国・佐久郡にある依田城に木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆(甲斐衆とあるが実際は上州衆との説がある)計3000騎を集結させ、これらを率いて北上します。

そして、同年6月13日、両軍が、横田河原において両者が激突します。

このとき、木曾義仲軍が、井上光盛が立案した、本来平家が用いるはずの赤旗を用いて(源氏の旗は白旗です。)千曲川を渡河して襲いかかるという奇策により、平家方の城助職に奇襲を仕掛け、兵力で劣る木曾義仲方が勝利を収めます(横田河原の戦い)。

木曾義仲は、逃げる城助職を追いかけ、越後国から陸奥国・会津まで追い払った上、越後国府に入って越後国の実権を握ります。

木曾義仲が北陸一帯を掌握

越後国を制圧した木曾義仲は、甲斐国・南信濃・駿河国・遠江国に勢力を伸ばす甲斐源氏・武田信義や、東国に勢力を伸ばす源頼朝との衝突を避けるため、北陸方面に侵攻していきます。

養和2年・寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を庇護し、平家打倒の大義名分も獲得します。

これに対し、養和2年(1182年)ころは養和の大飢饉によって食糧調達がうまくいかない時期であったため、平家方は、木曾義仲討伐に軍を派遣することができず、有効な対応ができませんでした。

この結果、木曽義仲は、京の平家を脅かす、鎌倉の源頼朝、東海の武田信義に並ぶ3つ目の巨大反平家勢力に成長していきます。

平家による越前国・加賀国奪還

木曾義仲討伐軍出陣(1183年4月17日)

巨大勢力となった木曾義仲を捨ておけない平家は、寿永2年(1183年)、飢饉がひと段落し兵站の目処がたったのをきっかけとして、3大源氏勢力の討伐軍を編成します。

このうち、特に重要視されたのが、兵糧の一大供給地である北陸道の回復でした。

そこで、平家方は、一気に木曾義仲を滅ぼすべく、寿永2年(1183年)4月17日から同年23日にかけて、平維盛を総大将とする10万人とも言われる大軍を北陸道へ向かわせます。

平家が越前国を奪還

寿永2年(1183年) 4月26日に越前国に入った平家軍は、翌同年4月27日、木曾義仲方に下った越前国・燧城(ひうちじょう)を取り囲んだ後、陥落させます。

敗れた木曾義仲方は、やむなく三条野(現在の金津町御簾尾で熊坂峠の入口あたり)で平家軍を迎え討ちますがまたも敗れ、ついに平家に越前国を奪還されます。

平家が加賀国を奪還

連戦連勝の平家軍は、次々に周辺勢力を取り込んでいきますので、その勢力はどんどん拡大していきます。

勢いに乗る平家軍は、そのまま東進して加賀国に入り、木曾勢の築いた城を立て続けに攻略して加賀国も奪還してしまいます。

当然ですが、越前国と加賀国を失った木曾義仲は苦しくなります。

倶利伽羅峠の戦い

平家が越中国に侵攻

平家軍は、さらに越中国に侵攻するべく、加賀国からさらに東に進み、の兵を与えて先遣隊とし越中・般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地に陣を敷きます。

般若野の戦い(1183年5月9日)

獲得した領土をどんどん奪われていく木曾義仲でしたが、総数で見ると圧倒的な兵力差があるため、正攻法での打開策は打てません。

そこで、木曾義仲は、奇襲による起死回生の一手を打つこととします。

寿永2年(1183年)5月9日明け方、般若野に陣を敷いていた平家軍先遣隊である平盛俊の軍に対し、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平が奇襲をかけてこれを打ち払ったのです(般若野の戦い)。

平家軍・先遣隊は、突然の奇襲によって大混乱に陥り、本隊が陣を敷く倶利伽羅峠の西まで撤退します。

このとき平家軍は、倶利伽羅峠の西側において2手に分かれ、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛・平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛・平行盛・平忠度らの7万余騎とする形で布陣していました。

平家先遣隊を追い払った木曾義仲軍は、そのままの勢いで、平家本隊が布陣する倶利伽羅峠へ向かって進軍していきます。

そして、寿永2年(1183年)5月11日、陽動のために源行家・楯親忠の兵が志雄山へ向けて進軍して平家別働隊を牽制した上で、木曾義仲本軍が平家本隊のいる砺波山へ向かいます。

ここで、木曾義仲本軍が、砺波山に布陣する平家本隊を奇襲することで起こったのが、倶利伽羅峠の戦いです。

倶利伽羅峠の戦い(1183年5月11日)

砺波山へ取り付いた木曾義仲軍は、義仲四天王・樋口兼光隊を平家本隊の背後(西側)に回らせて夜を待ちます。

そして、同日深夜、木曾義仲本隊・余田次郎隊・今井兼平隊・根井行親隊・などが東側からわざと大きな音を立てながら平家軍本隊に一斉に奇襲を仕掛けます。なお、源平盛衰記によると、木曾義仲軍は、このとき数百頭の牛の角に燃える松明を括り付けて平家軍に突撃させたとされていますが(火牛の計)、他の文献に同様の記載は存在しないため、中国の歴史書である「史記」をモチーフに作り上げられた創作の可能性が高いと言われています。

正面(東側)からの攻撃を防ぎ切れないと判断した平家軍は、後方(西側)へと退却をしようと試みますが、後方は義仲四天王・樋口兼光隊に押さえられているため後方からの退却もできません。

平家軍は、暗闇の中で唯一木曾義仲軍が殺到してこない方向に一目散に逃げていきますが、そこは倶利伽羅峠の断崖であったため、平家方の将兵が次々に谷底に転落し、7万人とも言われた平家本隊主力軍のうちの半数近くを失います。

倶利伽羅峠の戦い後

篠原の戦い(1183年6月1日)

倶利伽羅峠の戦いに敗れた平維盛は、残る兵を引き連れて西へ西へと退却していきますが、木曾義仲は退却をする平維盛を追いかけます。

そして、同年6月1日、木曾義仲は、加賀国・篠原で逃げる平家軍に追いつき、これを後方から攻撃します(篠原の戦い)。

逃走中に後方から攻撃を受けた平家軍は、4万人もの兵を擁しながらほとんど抗戦することなく一方的に蹂躙されて壊滅します。

その結果、平維盛は僅かな兵に伴われてからがら京へ逃げ帰るという有様となりました。

木曾義仲軍が京に迫る

倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家方の大軍を蹴散らした木曾義仲は、沿道の武士たちを糾合しながら勢力を拡大しつつ京を目指します。

寿永2年(1183年) 6月10日に越前国、同年6月13日に近江国へ入った木曾義仲は、同年6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始めます。

平家都落ち(1183年7月25日)

多くの兵を失ったことにより平家が弱体化したと判断した源氏勢力は、一気に勢いづきます。

寿永2年(1183年)7月、伊賀方面から源行家、東海道方面から安田義定などの源氏武将も都に迫っていきます。

これらの各地の源氏勢力の動きを見た平家首脳は、一連の戦いで多くの兵を失った平家軍では都の防衛は不可能であると判断し、同年7月25日、安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子に擬された)を引き連れ、三種神器を携えた上で京を出ます(平家都落ち)。なお、このとき平家方は、後白河法皇をも伴うつもりでしたが、危機を察した後白河法皇が鞍馬寺を経由して比叡山に身を隠したため、なんとかこれをやり過ごしています。

このとき都を出た平家一門は、その駒、福原に立ち寄って火を放ち、さらに西に落ちていきます。

木曽義仲入京(1183年7月28日)

平家がいなくなったため、寿永2年(1183年)7月27日、まずは後白河法皇が、木曽義仲に臣従した山本義経の子である錦部冠者義高に守護されて都に戻ります。

そして、木曽義仲も、翌同年7月28日に、比叡山に逃れていた後白河法皇を伴って入京したのですが、今度は源氏同士での戦い(源頼朝との戦い)へと向かっていきます。

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