【源行家】以仁王の令旨を伝え歩いた源頼朝の叔父

源行家(みなもとのゆきいえ)は、河内源氏第五代源為義の十男であり、源義朝の弟にあたり、源頼朝・木曾義仲の叔父でもあります。

以仁王の令旨を全国の源氏勢力に伝えて回り、平家打倒のきっかけを作った重要人物なのですが、源氏の棟梁達に疎まれて勢力を築けず、また自身も戦下手で数々の戦いに負け続けて悲しい最期を遂げた人物です。

本稿では、自身が交渉人・工作者として有能であったものの武将としては無能であったことを理解できなかったある意味ポンコツ武将と言える源行家の人生について見ていきましょう。

源行家の出自

出生

源行家は、永治元年(1141年)から康治2年(1143年)頃 までの間に、清和源氏為義流(河内源氏)・源為義の十男として生まれます。母は鈴木重忠の娘とも言われていますが、詳細は不明です。

源行家は、幼少期のしばらくの間、熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称していました。なお、和歌山県新宮市には、源行家が居住していたとされる新宮十郎行家屋敷跡の比定地がありますが、ただし遺構などは特に残されていません。

その後、源行家は、元服し、一旦は源「義盛」と名乗ります(もっとも、便宜上本稿では、源「行家」で統一します。)。

平治の乱に敗れ熊野に隠れる(1159年)

平治元年(1159年)、京で平清盛と源義朝との間で平治の乱が起こり、源行家も兄・源義朝に味方して参戦します(初陣?)。

この戦いは平清盛の勝利に終わり、源義朝は敗走中に討ち取られ、源頼朝は捕えられて伊豆国に配流となります。

もっとも、源行家は、戦場からの脱出に成功した後、熊野に逃れ、20年間にも及ぶ潜伏生活を始めています。

源行家挙兵

以仁王・源頼政に協力する

熊野に潜んでいた源行家ですが、京で以仁王が対平家のために立ち上がろうとしていると聞き、これに協力するべく熊野を出て京に向かいます。

そして、源行家は、京で同族である以仁王に協力する源頼政と会って、共に対平家打倒のための行動をとることとなりました。

このとき、源頼政はそのまま以仁王のと共に行動することとなり、他方源行家は全国を周って賛同する勢力を募ることとなったのです。

以仁王の令旨を全国へ(1180年4月~)

そこで、源行家は、以仁王の令旨を受け取り、治承4年(1180年)同年4月10日、源義盛から源行家と名を変えた上で山伏の姿に変装し、諸国に点在する源氏に呼びかけて回るため、密かに京を脱出します。

そして、京を出た源行家は、近江国(山本義経)・美濃国(源光信)・尾張国と順に回って源氏諸勢力に令旨を知らせて回ります。

また、同年4月27日には、伊豆国の源頼朝に令旨を届けています。

さらに、その後、甲斐国の武田信義・安田義定・信濃国の木曾義仲らに令旨を届けます。

また、その他にも、多田行綱(多田源氏)、陸奥の源義経などにも届けるなど、全国各地各地に点在する源氏に伝達し挙兵を促してまわります。

このように、対平家の蜂起をを促してまわり各地の源氏勢力の旗揚げを導いた源行家でしたが、この源行家の行動が熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になり(覚一本平家物語)、以仁王は源頼政と共に討ち死にしてしまいます。

三河国・尾張国にて挙兵

源行家は、全国各地各地に点在する源氏に伝達し挙兵を促してまわったものの、自身がいずれかの源氏勢力に与することはなく、独立勢力として行動を始めます。

そして、源行家は、治承4年(1180年)10月の富士川の戦いで源頼朝・甲斐源氏連合軍に敗れて勢いを失った平氏勢力に代わって三河国、尾張国に勢力を及ぼして行きます。

なお、この頃に源行家が築いたとされる五井城址(愛知県蒲郡市)がありますが、遺構は残っていません。

平家が源行家討伐軍を準備する

富士川の戦いで平家軍が敗れたこともあり、美濃国・近江国・伊予国・豊後国など全国各地で反平家勢力の蜂起が相次ぎます。

これに対し、平家方も手をこまねいてたわけではなく、平家本拠地の福原に遷都した上で、総官の制度構築などの対策を重ね、まずは畿内の反乱や反平氏の動きを取った南都寺社勢力や美濃の反乱を制圧していきます。

そして、平家は、次に尾張国に勢力を及ぼしている源行家討伐のため動きだします。

ところが、平家が源行家討伐軍を出陣させようとした治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去したため、源行家討伐軍の出発が一時中断されます。

墨俣川の戦い(1181年3月10日)

その後、平清盛の葬儀を終えた治承5年(1181年)閏2月15日、平家は、平重衡を将とする源行家討伐軍3万人を出陣させ、尾張国へ向かわせます。

これに対して、源行家も6000人の軍勢を整え、墨俣川東岸に陣を敷いて待ち構えます。なお、このとき、源頼朝の命により、甥の源義円が源行家の援軍として参加しています。

そして、同年3月10日、源行家・平重盛の両軍が墨俣川を挟んで対峙します。

3万人対6000人ではまともに戦って勝てるはずがないと考えた源行家は、同日夜、平家を奇襲するために兵に墨俣川を渡らせます。

ところが、平家方の陣に入った源行家軍が濡れていることに気づかれたために敵軍が陣の中に入っているとして奇襲であることがすぐに露見し、たちまち源行家軍は総攻撃を受けます。

このとき、源氏軍が寡兵であったこと、源行家と源義円で先陣を争ったために指揮系統の乱れたこと、源行家らが低湿地を背後にして戦ったため機敏な退却ができなかったことなどから、源行家軍はすぐに壊滅して大敗します。

そして、ここで源行家の軍に加わっていた源義円(頼朝の異母弟、源義経の同母兄)・源重光(泉重光、山田重満とも。尾張源氏)・源頼元・源頼康(共に大和源氏)などの源氏一門衆が次々と戦死し、源行家の次男である源行頼も敵軍の捕虜となっています。

他方、源行家は敗走し、その後熱田に篭ったがそこも攻められたため、三河の矢作川を越えてそのまま逃亡しています。

他方、平家方も、飢饉により兵糧が不足していたこと、東国に勢力基盤を築いていた源頼朝に対する警戒、後白河法皇との軋轢などから、源行家追撃のためにさらに東国に兵を進めることについての慎重論が出たため、平家方はそれ以上東国へ進出せずに京に撤退しています。

木曾義仲の下で入京する

木曾義仲の下へ

墨俣川の戦いに敗れて東に向かった源行家は、源頼朝に接近を図り、相模国松田に住み着き、源頼朝に血縁を理由として所領を求めたのですが拒否されたために対立します。

そこで、源行家は、次善の策として、北陸経由で京を目指していたもう1人の甥である木曽義仲の下に赴きます。

その後、源行家は、木曽義仲の幕下として能登国の志保山の戦いに参加、上洛に当たっては伊賀方面から進攻し平家継との戦いに至ったりしています(吉記)。

源行家入京(1183年7月28日)

倶利伽羅峠の戦いの勝利とその後の勢いで平家を京から追放した木曽義仲は、その勢いのまま寿永2年(1183年)7月27日、まずは比叡山に逃れていた後白河法皇を京に戻し、翌同年7月28日に、木曽義仲・源行家も入京します。

この後、同年7月30日に開かれた公卿議定において、後白河院の前で木曾義仲と源行家とが序列を争い、相並んで前後せずに拝謁するという醜態を見せ、勲功の第1が源頼朝、第2が木曽義仲、第3が源行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになります(この後、源行家には、平家没官領のうち90か所余りを与えられ、従五位下・備後守に叙任されたのですが、木曽義仲と差があるとして不満を述べてすぐに備前守に遷任されています。)。

入京後は、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり法皇の双六の相手などをして取り入った源行家と、山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族らの不興を買う木曾義仲とが不仲となっていきます。

京で人心を失った木曾義仲軍は瓦解を始め、源行家は公然と木曾義仲と別行動を取るようになります。

室山の戦い(1183年11月29日)

そして、源行家は、寿永2年(1183年)11月8日、独断で朝廷から西国の平氏追討の任を受け、木曾義仲の協力を得ることなくわずか270騎を率いて京から出陣していきます(玉葉)。

源行家は、同年11月29日、播磨国室山(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)に五段構えに布陣した平知盛・平重衡軍を攻撃したのですが、わずか270騎で平家軍を攻略できるはずもなく、陣を開いて導かれた結果、包囲されて郎従百余名を討たれる大惨敗を喫します。

敗れた源行家は、命からがら逃げだして高砂まで退いた後、海路で本拠地の和泉国に到着し、そこから河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市、金剛寺領長野荘、烏帽子形城か?)へ籠ります。

その後、木曾義仲が、源行家を討伐するために樋口兼光を派遣して攻撃したところ、源行家はここでも敗れて紀伊国・名草へ逃亡しています。

源行家の最期

源行家帰京(1184年2月)

木曾義仲に敗れて逃亡生活を送っていた源行家でしたが、木曾義仲が源頼朝により派遣されてきた源範頼・源義経兄弟(いずれも、源行家の甥にあたります。)に討たれると、元暦元年(1184年)2月、後白河法皇の召しによって帰京することができます。

もっとも、その後、源範頼・源義経が一の谷の戦い山陽道九州遠征屋島の戦い壇ノ浦の戦いと対平家の戦いを続けたにもかかわらず、源行家はこれに参加せず、半ば独立した立場をとって和泉国・河内国(河内源氏の本拠地)を支配するにとどまっていました。

源頼朝と対立し源義経に接近する

壇ノ浦の戦いにより平家が滅亡すると、源頼朝は、自らの地位保全のため、一族の粛清を始めます。

そして、元暦2年(1185年)8月、源頼朝が源行家討伐を計ったため、源行家は、壇ノ浦の戦い後に源頼朝と不和となった源義経と結びます。

これに対し、源頼朝は、同年9月、京の六条堀川の屋敷にいる源義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・梶原景季を遣わすとともに、源義経に対して源行家追討を要請したのですが、源義経は、源行家が同じ源氏であることを理由に断ります。

その後、源行家は、文治元年(1185年)10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から源頼朝追討の院宣を受け「四国地頭」に補任されます(なお、このとき、源義経は「九国地頭」に補任されています。)。

この結果、源頼朝は、源行家と源義経が結んでいると判断し、家人・土佐坊昌俊を京へ送って同年10月17日、源義経暗殺を試みたのですが失敗します。

他方、暗殺未遂に遭った源義経は、捕らえた土佐坊昌俊からこの襲撃が源頼朝の命であることを聞き出すとこれを梟首し、後白河法皇に奏上し、同年10月18日に源頼朝追討の院宣を得て源行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げます。

もっとも、源頼朝と対立する源行家・源義経に賛同する武士は少なく、源頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、後白河法皇が源頼朝の圧力に屈し逆に源義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥ります。

西国渡航に失敗する(1185年11月)

その後、文治元年(1185年)10月29日、源頼朝が軍を率いて源義経追討に向かうと、源義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図ります。

そして、同年11月3日、源義経らは西国九州の緒方氏を頼るため、300騎を率いて京を落ちます。

途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受けたのですがこれを撃退し(河尻の戦い)、同年11月6日、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとします。

もっとも、海へ出た源義経・源行家らの船団は、途中、代物沖で暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されます。

結局、西国渡航に失敗した源義経・源行家は次第に追い込まれ、源行家は、逃亡の末に和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏します。

源行家斬首(1186年5月12日)

和泉国内で潜伏生活をしていた源行家は、文治2年(1186年)5月、地元民の密告により北条時定の手兵によって捕らえられます。

そして、同年5月12日、山城国・赤井河原にて長男・源光家、次男・源行頼と共に斬首されその人生を終えます。

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