【源義円】源平墨俣川の戦いで討死した源義経の同母兄

源義円(みなもとのぎえん)は、 源義朝の八男であり、源頼朝の異母弟、源義経の同母兄にあたります。

源義朝が平治の乱に敗れたため、近江国の園城寺に入れられて僧になったのですが、源氏勢力が対平家に立ち上がったのに同調し、これに加わった人物です。

もっとも、参陣した先が、加わった戦にことごとく負け続ける源行家であったため、参陣先で奇襲に失敗して返り討ちにあい、討ち死にするという悲しい最期を遂げています。

源義円の出自

出生(1155年)

源義円は、久寿年(1155年)、源義朝と常盤御前との間に生まれます。幼名は乙若丸といいました。

源義朝の8男であり、阿野全成(今若丸・源義朝の7男)・源義経(牛若丸・源義朝の9男)の同母兄弟、源頼朝の異母弟にあたります。

なお、源義円は、乙若丸→円成→義円と名を変えていますが、便宜上本稿では源義円で統一します。

出家(1159年)

平治元年(1159年)に発生した平治の乱で父・源義朝が敗死したため、源義円は、僧にすることを条件として命を助けられ、近江国の園城寺に入って出家します(なお、今若丸は醍醐寺に、牛若丸は後に鞍馬寺に送られています。)。

そして、卿公円成(きょうのきみえんじょう)と名乗り、後白河天皇皇子である円恵法親王の坊官を務めることとなります(なお、「卿公」は母である常盤御前が再婚した養父の一条大蔵卿にちなむ名と考えられますので、養父の縁故によって円恵に仕えたと見られています。)。

還俗

その後、時期は不明ですが、還俗し、父である源義朝から一字もらって義円と改名します。

源行家の下に参陣

源行家挙兵(1181年閏2月)

以仁王の令旨を配り歩いて全国の源氏勢力の決起を促した源行家が、三河国、尾張国に入り、勢力が低下した平氏勢力に代わって同地にて独立勢力として勢力を高めて行きます。

これに対し、平家は、治承5年(1181年)閏2月15日、源行家討伐軍を編成し、平重衡を将として3万人を率いて尾張国に向かって進軍して行きます(平家物語)。

源行家の下に参陣

ここで、源義円は、源行家の下に参陣し、その軍に加わります。

なお、吾妻鏡には源義円が源頼朝の下に赴いた記述がないため源義円が直接源行家の下に参陣したとも、源頼朝から、援軍として送られたとも言われており、参陣に至る経緯は不明です。

ここで、源行家は、墨俣川東岸(尾張国側)の墨俣の渡し周辺の寺院を焼いて地均をし、現在の一乗寺の庫裏と本堂付近を中心に、かき集めた6000人の兵を配置する形で陣を敷きます。

他方、平家軍は、墨俣川西岸(現在の大垣市墨俣町下宿付近)に布陣したため、治承5年(1181年) 3月10日、源行家軍と平重衡軍が墨俣川(現在の長良川)を挟んで対峙します(なお、上地図内の義円公園のある場所付近が平家布陣地であり、その対岸が源氏布陣地です。)。

源義円の最期

源義円の奇襲失敗

墨俣川を挟んで布陣した両軍でしたが、3万人対6000人という戦力差があり、源行家方の劣勢は明らかでした。

まともに戦って勝てるはずがないと考えた源行家は、奇襲作戦を考えます。

そして、治承5年(1181年)3月10日夜、平家を混乱に陥らせようとして、源義円を墨俣川の上流に向かわせて墨俣川を渡河させて平家の陣に侵入させます(戦果にはやった源義円が独断で奇襲を仕掛けたとの説もあります。)。

源義円討死(1181年3月10日夜)

ところが、平家方に、陣に入った源義円の兵がもれなく濡れていることに気づかれたために奇襲がすぐに露見します。

そして、猛反撃を受けた源義円隊はすぐに壊滅し、奇襲部隊の指揮官であった源義円は、交戦の末に平家の家人・高橋盛綱に討ち取られました。享年は27歳でした。

なお、源義円隊を殲滅した平家軍は、その勢いのまま墨俣川を渡り、対岸に陣を敷いていた源行家軍を強襲してこれを蹴散らし(源平墨俣川の戦い)、尾張国・三河国一帯の失地を回復します。

なお、義円の墓は、岐阜県大垣市墨俣町上宿の田畑の中にあり、すぐ近くには義円公園(中には墨俣川合戦の碑・義円地蔵・源義円供養塔などがあります。)もありますので、興味がある方は是非。

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