【阿野全成】源頼家暗殺未遂疑いで暗殺された源頼朝の異母弟

阿野全成(あのぜんじょう/ぜんせい)は、源頼朝の異母弟・源義経の同母兄であり、対平家の兵を挙げた源頼朝の下へ一番最初に駆けつけた兄弟であることから源頼朝の信頼を得て、北条政子の妹である阿波局を妻にもらった人物です。

唯一源頼朝の後まで生きた兄弟でもあります。

ただ、北条家に近くなり過ぎたために、源頼家暗殺を企てた疑いを持たれて源頼家に誅殺されるという悲しい最期を迎えた人物です。

阿野全成の出自

阿野全成出生(1153年)

阿野全成は、仁平3年(1153年)、源義朝と常盤御前との間に生まれます。幼名は今若丸といいました。

源義朝の7男であり、源義経(源義朝の9男)の同母兄、源頼朝の異母弟にあたります。

なお、阿野全成は、今若丸→隆超→全成と名を変えていますが、便宜上本稿では阿野全成で統一します。

出家(1159年)

阿野全成が7歳になった平治元年(1159年)、平治の乱で父・源義朝が敗死したため、阿野全成は、罪人の子として数え7歳の若さで醍醐寺に入れられ、出家させられます。

阿野全成は、出家により隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名しています。

寺に入った阿野全成でしたが、その性格は破天荒であり、この性格は仏門に入っても変らなかったようで、醍醐寺ではその荒くれ者ぶりから悪禅師と呼ばれていたそうです(平治物語)。

 

源頼朝に合流(1180年10月1日)

醍醐寺で20年以上もの長きに亘って修行を続けた阿野全成でしたが、治承4年(1180年)、源頼政に奉じられた以仁王が反平家の兵を挙げ、それに呼応して、兄・源頼朝が反平家の兵を挙げたことを聞きます。

いてもたってもいられなくなった阿野全成は、密かに醍醐寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下ります(吾妻鏡・治承4年10月1日条)。

そして、阿野全成は、同年8月26日、東国へ向かう途中で石橋山の戦いに敗北して逃れてきた源頼朝の郎党である佐々木定綱兄弟らと出合って合流し、一旦相模国高座郡渋谷荘の渋谷重国の下に匿われます。

その後、阿野全成は、源頼朝が安房国から勢力を拡大しながら鎌倉へ向かってきたことを知ると渋谷重国の下を発ち、同年10月1日、下総国鷺沼の宿所で下総国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝と対面を果たします。

この阿野全成の合流は、源頼朝の兄弟の中での最初の合流であり、源頼朝は涙を流してその志を喜んだと言われています。

この後、鎌国に入った源頼朝は、合流してきた阿野全成に武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)の知行を与え重用します(吾妻鏡・治承4年11月19日条)。

 

源頼家排斥運動

阿波局との結婚

源頼朝は、最初に合流を果たした弟である阿野全成を信頼し、自身の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚させます。

阿野全成に改名

また、阿野全成は、源頼朝から駿河国駿東郡阿野荘(静岡県沼津市西部)を与えられ、これをきっかけとして所領の地名をとって、以降、阿野全成と称します。

なお、このときに阿野全成が阿野姓を名乗り始めたことから、阿野全成が河内源氏為義流阿野氏の祖とされています。

源実朝の乳母夫として勢力拡大(1192年)

その後、建久3年(1192年)、阿波局が源頼朝の次男・千幡(後の源実朝)の乳母となります。

その結果、阿野全成は、源実朝の乳母夫兼養育係として大きく力を伸ばしていきます。

将軍権力の制限

建久10年(1199年)1月13日に武家政権を樹立したカリスマ源頼朝が53歳の若さで死去すると、同年1月20日、その嫡男である源頼家が18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の座に就きます。

将軍となった源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、苦労を知らないお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。

そればかりか、源頼家は、将軍就任後3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で13人の有力御家人の合議体制により行われることとなります。

この13人の合議制は、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定し、その結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムです。

将軍権力が抑制され、御家人の権力が増大した鎌倉幕府内では、この後、御家人相互間での血で血を洗う権力闘争が始まります。

 

阿野全成の最期

北条氏と比企氏との政争

鎌倉幕府内での御家人間の争いは、梶原景時の誅殺を経て、鎌倉幕府内で源頼家の後ろ盾である比企能員と、源実朝の後ろ盾である北条時政の対立として顕在化します。

端的に言うと、源頼家を支えて権力を握りたい比企氏と、源頼家を廃し源実朝を据えて権力を握りたい北条氏との争いです。

このとき、阿野全成は、当然妻の実家である北条氏に加担しており、北条時政と共に、源頼家を廃して源実朝を擁立するための画策を行います。

阿野全成捕縛(1203年5月19日)

この北条時政・阿野全成らの動きに危険を感じた源頼家は、先手を打って北条方の力を削ぐため、建仁3年(1203年)5月19日子の刻(深夜0時頃)、武田信光に命じて阿野全成を謀反人として捕縛して御所に閉じ込めます。

その後、同年5月25日に阿野全成を常陸国に配流します。

阿野全成暗殺(1203年6月23日)

そして、阿野全成は、源頼家の命により、建仁3年(1203年)6月23日、常陸国を治める八田知家により誅殺されます。享年51歳でした。

なお、このときは危機を払った源頼家でしたが、源頼家自身に北条時政と戦う力程のはなく、北条氏によって将軍位を廃され伊豆国修善寺へ追放された後、元久元年(1204年)7月18日に暗殺されています。

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