薄田兼相(すすきだかねすけ)をご存知ですか。
薄田兼相と言えば、何と言っても、大坂冬の陣において豊臣家家臣として大坂城の西に築かれた博労淵砦の守将として華々しく戦うはずだったのですが、性欲を押さえきれず肝心の決戦の日に遊郭で遊んでいて決戦に参加することすらできなかったという失態で有名です。
この失態によって橙武者と言う不名誉な称号を得てしまった人物ですが、江戸時代の講談や歌舞伎のモチーフとなり、絶大な人気を博することにもなった人物でもあります。
本稿では、そんな愛すべきポンコツ・薄田兼相について見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
薄田兼相の出自
出自
薄田兼相の前半生はほとんど不明で、出生日・出生地などもわかっていません。
もっとも、薄田兼相の前身が岩見重太郎(いわみ じゅうたろう)であるという説が有力です。
薄田兼相=岩見重太郎説によるならば、薄田兼相は、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生し、同僚の広瀬軍蔵によって殺害された父の敵討ちのために各地を旅したと考えられます。
なお、妹には堀田一継室が存在しています(寛政重修諸家譜)。
狒々退治伝説
薄田兼相は、兼相流柔術や無手流剣術の流祖として剛勇の武将として知られ、父の敵討ちの道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立てています。
狒々退治伝説は以下のとおりです。
現在の大阪市西淀川区野里周辺は、毎年のように風水害に見舞われ、その結果、流行する悪疫に苦しめられる場所でした。
相次ぐ災害に悩まされた村民が古老に対策を求め、占いによって出た、毎年娘を辛櫃に入れて住吉神社神社に捧げなさいという言葉に従い、これを6年間続けました。
7年目のこの準備をしていると際に薄田兼相がここを通りがかり、神は人を救うもので犠牲にするものではないと言って、娘の代わりに自ら辛櫃に入ります。
翌朝、村人が恐る恐る辛櫃の状況を確認すると、そこから血痕が点々と隣村まで続いており、その先に人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたといいます。
薄田七左衛門の養子となる
このような様々な伝説を残しながら全国を旅した薄田兼相は、ついに父の仇であ?広瀬軍蔵を見つけ出し、天正18年(1590年)に、天橋立にてついにこれをを討ち果たしたそうです。
仇討の直前に試し斬りをした石や、仇討の碑文が天橋立に建てられているのですが、実際のところはどうなんでしょう。
敵討ちを果たした薄田兼相は、その後に叔父の薄田七左衛門の養子となり、薄田兼相を名乗り始めます。
豊臣家家臣となる
その後、時期は不明ですが、薄田兼相は豊臣家に登用されます。
なお、慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っていますので、遅くともこの頃までには豊臣氏に仕官し、馬廻衆として3000石を領したとされています(後に5000石に加増。)。
大坂冬の陣での失態
大坂冬の陣での豊臣方籠城策
その後、薄田兼相の名が見えるのは、慶長19年(1614年)に発生した大坂冬の陣においてです。
このとき、徳川軍が迫るの報を聞いた大坂方では、豊臣家宿老の大野治長らを中心とする籠城派と、浪人衆の真田信繁らを中心とする野戦派とで意見が対立します。
もっとも、浪人の意見が宿老の意見を覆せるはずもなく、最終的には大坂城籠城策に決定します。
博労淵の守将に任命される
籠城を決めた大坂方は、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ堅固な大坂城に籠城することとし、大坂城外に以下の砦等を設置しすることとなりました。
①北西に、福島砦
②西に、博労淵砦(現在の大阪市西区立売堀付近、守将:薄田兼相・700人)
③南西に、木津川口砦(守将:明石全登・800人)
④北東に、今福砦(守将:矢野正倫・300人、飯田家貞・300人)・鴫野砦(守将:井上頼次・2000人)を設置します。
⑤南に、真田丸(守将:真田信繁)
大坂冬の陣開戦
①木津川口の戦い(1614年11月19日)
大坂城の外周に砦を築いた豊臣方は、それぞれに兵を入れて徳川軍を待ち受けます。
そして、慶長20年(1614年)11月19日、徳川方の蜂須賀至鎮が木津川口砦を攻撃したことにより大坂冬の陣がはじまります(木津川口の戦い)。
もっとも、このとき木津川口の守将であった明石全登が、軍議のために大坂城に伺候して不在だったため、木津川口の守備兵は統制が取れず、すぐに砦が陥落します。
② 鴫野の戦い・今福の戦い(1614年11月26日)
また、同年11月26日、鴫野を守っていた井上頼次が上杉景勝軍に、今福を守っていた矢野正倫及び飯田家貞が佐竹義宣にそれぞれ敗れ、大坂城の北東の守備が崩壊します。
③ 野田・福島の戦い(1614年11月28日夜半)
さらに、北西の福島砦においても断続的な小競り合いの後、同年11月28日夜半に守備兵が天満方面へ逃げてしまいます。
博労淵砦陥落(1614年11月29日)
そんな中、徳川方において、薄田兼相が守る博労淵砦への攻撃作戦が実行されます。
徳川家康は、堅守が想定される博労淵砦を大砲で砲撃するため、水野勝成・永井直勝に命じて狗子島(木津川の中州、現在の江之子島)に仕寄(塹壕)を築かせます。
そして、この塹壕が完成した翌日である慶長20年(1614年)11月29日、石川忠総が西側にある狗子島から博労淵砦を銃撃して守備兵をけん制し、南側から蜂須賀至鎮が博労淵砦に攻撃を仕掛けます。
ところが、このとき守将の薄田兼相が、前日夜から現在の兵庫県尼崎市にあった神﨑新地(このころの神﨑は交通の要衝として多くの人の出入りがあったため、一大歓楽街となっており、多くの遊郭が立ち並んでいたと言われています。)にあった遊廓に通って遊女屋に泊まり込んで不在だったため、守備兵の指揮系統が乱れて全軍を巻き込んだ大混乱に陥ります。
そして、統制を失った守備兵が我先にと博労淵砦から逃亡し、わずか1度の夜襲で博労淵砦が陥落します。
なお、このとき、留守将の平子正貞は葦原に逃げ潜んでいたところを池田忠雄の家臣に見つかり討ち取られています。
博労淵砦陥落の報を聞いた薄田兼相は、大坂城に事の顛末を報告に上がります。
当然、防衛戦の指揮すらできなかったこのときの薄田兼相に対する諸将の評価は冷ややかなもので、野田・福島の戦いで大敗した大野治胤と並んで、「橙武者」(橙は酸味が強くて食用に適さず正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)との屈辱のあだ名をつけられ辱められるという屈辱を味わいます。
和議(1614年12月20日)
その後、大坂城の周囲に配置した砦を失った豊臣方は、同年11月30日に残りの砦を破棄して大坂城に撤収し、20万人もの徳川方に包囲され、籠城戦を戦うこととなります。
もっとも、徳川方も、難攻不落の大坂城を攻略できず、同年12月20日和議が成立して大坂冬の陣が終わります。
薄田兼相の最期
大坂夏の陣開戦
その後、慶長21年(1184年)5月、徳川家康は、再び15万5000人の兵を動員して大坂城攻撃を決めます。
このとき、徳川家康は、徳川軍を2つの軍にわけ、道路整備と要衝の警備を行いつつ、河内路及び大和路からそれぞれ大坂に向かうことを命じます。
なお、この2軍の他、大坂城の南側にある紀伊藩の浅野長晟に南から大坂に向かうよう命じていますので、合計3軍が行軍することとなりました。
薄田兼相討死(1615年5月6日)
徳川軍迫るの報を聞いた豊臣方は、慶長20年(1615年)5月6日、まずは大和路から大坂城に向かう徳川軍3万5000人を迎撃するため、先行隊を派遣して迎撃させることに決め、後藤基次率いる迎撃軍先行隊が出撃していきます。
そして、その後、後藤基次の後詰として、薄田兼相を先頭として真田信繁・毛利勝永らが次々と大坂城を出発します。
ところが、この後詰部隊は、濃霧のためその行軍が遅れに遅れ、先行する後藤基次に追いつけません。
その結果、後詰部隊が到着する前に、先行した後藤基次が敵兵に囲まれ、討ち死にしてしまいます(道明寺の戦い)。
その後、予定時刻から8時間も遅れてようやく大坂方の後詰部隊が到着します。なお、この後詰部隊の先行隊を指揮していたのが薄田兼相でした。
薄田兼相は、現場で後藤基次の死を聞かされます。
遅刻を悔いた薄田兼相でしたが時間は戻りません。
やむなくは薄田兼相は、陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒していきます。
もっとも、多勢に無勢のため、薄田兼相遂には力尽き討死を遂げたといわれています。
なお、薄田兼相を討ち取ったのは、水野勝成の家臣・河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢など諸説があり、本当のところはわかりません。
薄田兼相の後世の評価
この後、大坂城が落城し、豊臣家が滅亡したのは周知の事実です。
もっとも、江戸時代に入ると、大坂の陣を戦った豊臣方の武将は、お上である徳川家に対して抵抗して戦ったという理由で人気を博し、講談や歌舞伎で取り上げられ、様々な伝説が付されていきます(真田幸村伝説もこの過程で作り上げられていきます。)。
薄田兼相も、真田信繁や後藤基次などに並ぶ人気を有し、前身が岩見重太郎であったとか、狒々退治をしたとかいう真偽の疑わしい話が次々に出来上がっていき庶民の人気を得ていくようになりました。
大事なところで人間的な欲求によって大失態したところも庶民の心を掴んだ一因だったのかもしれません。
なお、薄田兼相の墓は大阪府羽曳野市誉田7丁目に建立され、大阪府羽曳野市の指定有形文化財となっています。