【源頼家】13人の合議制により権力を制限された後に北条氏に暗殺された第2代鎌倉殿

源頼家(みなもとのよりいえ)は、鎌倉幕府を開幕したカリスマ源頼朝の急死により18歳の若さで第2代鎌倉殿の地位を継いだ人物です。

その後、鎌倉幕府第2代征夷大将軍ともなっていますが、有力御家人13人からなる合議制によって将軍権力を制限され、死の寸前に至る大病を患い、御家人間の権力争いに巻き込まれて追放され、挙げ句の果てには祖父に暗殺されるという悲しい人生を送った人物でもあります。

本稿では、そんな悲劇の将軍・源頼家の人生について見ていきたいと思います。

源頼家の出自

出生(1182年8月12日)

源頼朝が富士川の戦いに勝利した後に鎌倉に腰を据え本格的に鎌倉の整備と東国統治に乗り出した頃、源頼朝の妻・北条政子の懐妊が判明します。

この頃は本格的な対平家戦が始まろうとしていた時期でもあり、待望の後継者誕生の期待もあって、源頼朝は、北条政子の安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行ったり、自ら監督をして有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作らせたりしています。

そして、源頼家は、寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男(第3子で次男)として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれます。幼名は万寿と名付けられました。母は北条政子です(北条政子の子としては第2子で長男)。

苦労人の源頼朝とは違い、源頼家は、生まれながらの鎌倉殿として誕生し、乳母父には源頼朝の乳母であった比企尼の養子である比企能員が選ばれました。

そして、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女(河越重頼室)、その後は、梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、比企能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれています。

源頼家を巡る人間関係

母・北条政子の父が北条時政であるため、母方の後ろ盾は北条氏です。

他方、父・源頼朝の乳母は比企尼が務め、また源頼家自身にも比企氏の乳母がつきましたので、父方の後ろ盾は比企氏です。

このように、源頼家には、北条氏と比企氏という鎌倉幕府内の2つの有力御家人を後ろ盾とする複雑な人間関係ができてしまい、これが後に源頼家に悲劇をもたらします。

富士の巻狩り(1193年5月)

源頼家は、源平騒乱や奥州合戦など日本全国を巻き込んだ大掛かりな戦が多発しているのをよそに、鎌倉にて教育を受け、武芸の達人と言われるほどの若武者に成長していきます。

建久4年(1193年)5月に行われた富士の巻狩りでは、12歳の源頼家が初めて鹿を射って、これを喜んだ源頼朝が北条政子に報告の使者を送ったりしています。

源頼朝暗殺未遂事件(1193年5月28日)

ところが、この富士の巻狩りの最終日に大事件が起こります。

源頼朝が宿泊していた御旅館に、建久4年(1193年)5月28日夜、曾我祐成・曾我時致の兄弟が押し入り、父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件を起こしたのです(曾我兄弟の仇討ち)。

このとき、源頼朝の長男である千鶴丸や多くの御家人も巻き込まれて討ち取られます。

また、源頼朝も暗殺の危機に陥りましたが、幸いにも源頼朝の御旅館に討ち入った曾我兄弟の兄・曾我祐成は仁田忠常に討たれ、弟・曾我時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られたことから、源頼朝は無事でした。

この点、北条時政が曾我兄弟の弟である曾我時致の烏帽子親であることから、この事件の黒幕が北条時政であるとも考えられますが本当のところはわかりません。

ただ、伊豆の有力者だった工藤祐経の横死により、北条時政の伊豆支配が一気に進んだことは事実です。なお、この巻狩りに際して源範頼が謀反の疑いを受けて伊豆修禅寺に幽閉された後で誅殺されています。

鎌倉幕府第2代鎌倉殿・征夷大将軍就任

源頼朝死去(1199年1月13日)

建久10年(1199年)1月13日、初代鎌倉殿・源頼朝が53歳の若さで死去します。

なお、この源頼朝の死については、武家政権を樹立したカリスマの死であるにもかかわらず、死因が不明です(当時の歴史書・貴族の日記には、落馬説や糖尿病説、亡霊説、そして暗殺された説など様々な死因が書かれており確定していません。)。

鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡ですらスルーしています。

第2代鎌倉殿就任(1199年1月26日)

いずれにせよ、源頼家は、源頼朝の死により建久10年(1199年)1月20日、18歳の若さでで左中将に任じられ、同年1月26日には家督を相続すると共に朝廷から諸国守護の宣旨を受けて第2代鎌倉殿(征夷大将軍に宣下は建仁2年(1202年)7月22日です。)の座に就きます。

有力御家人らによるクーデター

13人の合議制

将軍となった源頼家は、大江広元らの補佐を受けて政務を始めるのですが、生まれながらの鎌倉殿として苦労を知らずに育ったお坊ちゃんである源頼家は、御家人たちの信頼を得ることができません。

そして、源頼家は、将軍就任後僅か3ヶ月で権力を維持できなくなり、同年4月12日に有力御家人によるクーデターによって訴訟裁断権を奪われ、鎌倉幕府の政治が源頼家ではなく、源頼家を補佐するという名目で以下の13人の有力御家人の合議体制により行われることとなります。

【将軍・源頼家の関係者】

①比企能員【源頼家の乳母父、信濃・上野守護】

北条時政【源頼朝の外祖父、伊豆・駿河・遠江守護】

北条義時【家子専一、寝所警護衆、北条時政の子】

【有力御家人】

④安達盛長【三河守護】

八田知家【常陸守護】

⑥三浦義澄【相模守護】

⑦和田義盛【侍所別当】

梶原景時【侍所所司、播磨・美作守護】

【鎌倉幕府の高級官僚】

大江広元【公文所別当→政所別当】

⑩二階堂行政【政所執事】

⑪中原親能【公文所寄人→政所公事奉行人、京都守護 】

⑫足立遠元【公文所寄人】

⑬三善康信 【問注所執事】

この13人の合議制は、名目上は、まだ若く経験の少ない源頼家を補佐するという名目で、政務に関する事項については鎌倉幕府の有力御家人13人の御家人からなる会議でこれを決定しその結果を源頼家に上申してその決済を仰ぐというシステムですが、実質上は、源頼家の権限制限政策です。

当然、将軍権力を奪われることとなった源頼家はこのクーデターに反発します。

そして、源頼家は、小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、この5人を通じてでなければ自分への目通りを許さず、またこの5人に手向かってはならないという命令を出し、御家人らの反発を受けます。

なお、北条氏により編纂された吾妻鏡には、源頼家がこの後安達景盛の留守を狙いその愛妾を召し連れて来るように命じたり、従来の習慣を無視した独裁的判断を行ったりした話が記されていますが、真偽の程はわかりません。

有力御家人間の権力争い

将軍権力を抑制して自らの地位を一気に高めた御家人らは、今度は自らが御家人らの間で抜きん出ようとして、御家人相互間で熾烈な政争を始めます。

ここで一気に巨大化したのが北条氏です。

①梶原景時の変(1200年1月20日)

始まりは、梶原景時の排斥でした。

事の発端は、北条時政の娘である阿波局、御家人である結城朝光に対し、結城朝光が謀反を企んでいると梶原景時が将軍に讒言したと讒言したことでした。なお、真偽は不明ですが、梶原景時失脚のきっかけを作ったのが阿波局であることから考えると、北条家による他氏排斥運動の始まりであると考えるのが一般的です。

身に覚えのないことから危機に陥ったと感じた結城朝光は、三浦義村に相談し、和田義盛ら梶原景時に恨みを抱く御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まり、梶原景時糾弾のための話し合いを行います。

そして、正治元年(1199年)10月28日、有力御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出されました。

もっとも、これを受け取った大江広元は、梶原景時を恐れて連判状をしばらく留めていました。

この大江広元の行為に怒った和田義盛が強く迫り、遂に連判状が源頼家の下に届けられます。

連判状を見た源頼家は、同年11月12日、梶原景時を呼び出して弁明を求めたが、何を思ったのか、梶原景時は何の抗弁もせず一族を引き連れて相模国一宮に下向してしまいました。

その後、梶原景時は、同年12月18日、源頼家から鎌倉からの追放を申し渡され、同年12月29日には、播磨国守護は小山朝政に、美作国守護は和田義盛に交代させられてしまいました。

所領を失った上で鎌倉まで追われた梶原景時は、京で再起を図るべく(または、九州で兵を募って反乱を起こすべく)、正治2年(1200年)正月、一族を率いて相模国一ノ宮より出立し上洛の途についたのですが、梶原景時ら一行は、同年正月20日、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くに達した際、偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちや相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、梶原景時は西奈の山上にて自害して、梶原一族が滅びます。

なお、慈円は『愚管抄』で、梶原景時を死なせたのは源頼家の失策であると評しています(愚管抄)。

また、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死し、僅か1年程の間に3人ものメンバーを失ったことにより13人の合議制は解体します。

②源頼家暗殺未遂事件(1203年5月)

その後、北条時政が、北条義時・阿野全成らと結託し、源頼家排斥のための行動を取り始めます。

この動きに危険を感じた源頼家は、建仁3年(1203年)5月19日、武田信光に命じて阿野全成を謀反人として捕縛し、御所に閉じ込めます。

その後、同年5月25日に阿野全成が常陸国に配流されます。

そして、源頼家が常陸国を治める八田知家に阿野全成の処刑を命じたため、八田知家は、同年6月23日、阿野全成を誅殺しています。

③比企能員の変(1203年9月2日)

源頼家暗殺に失敗した北条時政は、次善の策として、源頼家の後ろ盾である比企氏を亡き者にしようと動きだします。

もっとも、これは簡単ではありません。

13人の合議制の解体と梶原景時の失脚により、鎌倉幕府内の権力が、北条時政と比企能員に集まって行っていたからです。

その理由は、有力者の排斥と権力基盤の確保により北条時政の地位は大いに向上した一方で、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移ったため比企能員の権限も急成長したためです。

そして、この北条氏の比企氏排斥行動は、鎌倉幕府内の2大勢力の争いとして御家人のみならず将軍・源頼家までも巻き込んだ権力闘争に発展します。

具体的な経緯は、以下のとおりです。

2代将軍・源頼家の乳母である比企尼の実家であり、また娘の若狭局が源頼家の側室となって嫡子・一幡を産んだ事から鎌倉幕府内で比企能員の権勢が強まります。

これにより、北条時政と北条政子は、源頼朝の外戚であった北条氏から、源頼家の外戚である比企氏に権力が流れていく傾向が出始めます。

そんな中、建仁3年(1203年)7月に源頼家が病に倒れたため、万一があった場合に時期将軍をどうするかの話し合いがなされます。

このとき、本来は源頼家の嫡子である一幡が将軍職を継ぐはずなのですが、同年8月27日、北条時政の主導で、家督・日本国総地頭職・東国28ヶ国の総地頭は一幡としつつも、西国38ヶ国の総地頭を源頼朝の次男・千幡(源頼家の弟・後の源実朝)に分割することとしたのです。

事実上、東国は一幡、西国を千幡が支配するという分割支配案です。

源頼家の後見人として権力を手中にできると考えていた比企氏は当然反発します。

権力の低下に繋がる案を許せるはずがない比企能員は、同年9月2日、娘の若狭局を通じて、源頼家に北条時政を追討すべきと伝え、源頼家はこれに呼応して比企能員に北条氏追討の許可を与えます。

ところが、これを事前に察知した北条時政が、比企能員を薬師如来の供養と称して自邸(名越亭)に誘い出し、仁田忠常と天野遠景に命じて暗殺してしまいます(比企能員の変)。

その上で、北条義時らが一幡の邸である小御所に攻め込み、一幡もろとも比企一族を皆殺しにし、比企氏を滅亡させます(愚管抄によると、同年11月に北条義時によって捕えられて殺されたと書かれていますので、一幡の死亡時期は必ずしも明らかではありません。)。

源頼家の将軍職剥奪

ただ、北条時政は、この程度では満足しません。

次は、後ろ盾を失った鎌倉殿・源頼家です。

北条氏では、比企氏の滅亡に際し、朝廷に源頼家が死去したという虚偽の報告をして、千幡(後の源実朝)への家督継承の許可を求め、建仁3年(1203年) 9月7日、千幡を従五位下征夷大将軍に補任し、源頼家の将軍職を奪って伊豆国・修善寺に追放します。

源頼家からの将軍職の剥奪です。メチャクチャです。

これにより、同年10月8日、千幡は、遠江国において12歳で元服して源実朝と称し、形式上鎌倉幕府の頂点に立ちます。

もっとも、なんの経験もない12歳の少年が、海千山千の御家人達を従えて政治を行うなどできるはずがありません。

実質的には北条時政の完全な操り人形の将軍が誕生したのです。

次々と鎌倉幕府設立の功労者達を粛清して行き、また将軍権力を操れるようになった北条時政は、鎌倉幕府内で絶大な力を持つようになり、この頃に初代執権に就いたと評価されます。

なお、北条時政は、建仁3年(1203年)10月9日、源実朝を擁することを正当性の根拠として大江広元と並んで政所別当に就任するなどしています。

源頼家の最期(1204年7月18日)

北条時政は、新たな手駒として第3代将軍・源実朝を得たため、もはや源頼家は用なしになったと考えます。

そこで、北条時政は、元久元年(1204年)7月18日、北条義時を伊豆・修善寺に差し向け、入浴中の源頼家を襲撃し暗殺します(源頼家は、首に紐を巻き付けられた上で急所を押さえて刺し殺されたそうです。愚管抄・増鏡)。享年23歳(満21歳)でした。

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