【問注所】鎌倉幕府の裁判所と裁判制度について

問注所(もんちゅうじょ)は、鎌倉を拠点として東国武士団を取りまとめて鎌倉幕府を開いた源頼朝が設置した訴訟事務所管機関です。

歴史の教科書に出てきますので名前を聞いたことはあるかと思うのですが詳しい説明がなされることはなかったのではないでしょうか。

元々東国武士団の集合体でしかなかった鎌倉幕府の前身を統治するために造られた小さな建物がその始まりだったたのですが、自らの土地の権利を維持するために命をかける集団である東国武士の集合体である鎌倉幕府ではこの土地紛争の解決がその要となったことから、それを裁く問注所は極めて重要な機関として発展していきます。

本稿では、ほぼ名前しか知られていないと思われる問注所について、その歴史的沿革から見ていきたいと思います。

問注所の設置

源頼朝による鎌倉開発

源頼朝は、富士川の戦いに勝利した後に鎌倉に戻り、そこから平家打倒を目指すための拠点として鎌倉を本拠に選んで開発を進めます。

鎌倉は、北・東・西を小さな丘陵に囲まれ、かつ南を海で守られた天然の要害で、かつては父・源義朝も館を構えた源氏ゆかりの地でもあったからです。

源頼朝は、まず源氏の氏神である八幡宮を鎌倉の中央部の六浦道沿いに移し鶴岡八幡宮として信仰の対象とし、この鶴岡八幡宮から六浦道沿東側の大倉郷に政治と生活の本拠である大倉御所を構えます。

こうして鎌倉に腰を据えた源頼朝は、味方となる御家人を集めていったのですが、次第にその数が増えていったため、物理的に源頼朝とその側近たちだけでは対応しきれなくなります。

そこで、源頼朝は、増えていく御家人達を管理する必要に迫られ、御家人を管理して後の鎌倉幕府による東国統治を進めていくために新しい機関を作っていきます。

まず最初に設置したのは侍所です。今でいう、人事部です。

侍所の設置により、それまで源頼朝と行っていた御家人に関する手続きが、侍所を通じて行われるようになり、その管理が一気に合理化されます。この侍所は、人事部であるとともに、警察・防衛をも担当することとなります。

また、御家人が増加により鎌倉幕府が認める土地が増えていくため、そこの管理・徴税に加え、その調整や統合した鎌倉幕府自体の政務をする必要が出てきます。

今風にわかりやすく言えば、個人事業主が法人成りするようなイメージでしょうか。

これらの幕府行政を一手に引き受ける新しい機関として公文所(後の政所)が設置されます。今でいう総務部です。

訴訟専門機関設置の必要性

さらに、源頼朝の下に多くの御家人が集まってくると、当然それぞれ紛争を持ち込んで来るようになります。

そして、その多くが土地紛争でした。

と言うより、むしろ東国武士の最大の関心事は、土地所有についてのものであり、自らの土地所有の正当性を認めてもらうために源頼朝を担いでいたというのが本音でした。

それまでの東国武士は、土地を巡る紛争に際して自分の意見が通らなければ、すぐに武力で解決しようとしたため、非公式に発足した源頼朝の軍事政権(後の鎌倉幕府)としては、この東国武士の土地紛争を解決することが重視されました。

実際、源頼朝挙兵後も東国武士相互間の土地紛争は続発し、これらの訴訟を迅速・円滑に処理していくことが、確固たる政権として認められる条件の一つとなったのです。

鎌倉幕府のキーワードとなる「御恩と奉公」のうちの御恩の1つが土地使用権の安堵(本領安堵・荘園の場合などでは法的には所有権は持っていませんので、あえて使用権と表記します。)だからです。

この土地使用権の安堵があるから、御家人は鎌倉幕府に奉公するのです。

とは言っても、御家人の土地使用権の安堵はとても難しい問題です。

土地使用権を御家人同士で争っている場合などでは、双方の土地所有権を安堵することができませんので、これを適切に判断し、かつそれを当事者(特に敗訴方御家人)に納得させなければならないからです。

また、御家人と公家・寺社との争いの場合には、鎌倉幕府による朝廷や寺社との調整までが必要となるからです。

当初は、公文所においてこの土地紛争を処理していたのですが、あまりに土地紛争の数が多くてとても公文所では処理しきれなくなります。

そこで、訴訟専門の機関の設置が求められるようになりました。

問注所設置(1184年10月20日)

こうして設置されることとなったのが問注所です。

問注所は、元暦元年(1184年)10月20日、大倉御所の東西にある小さな建物をその設置場所として発足します(当初から独立の機関として設置されたのか、当初は公文所の一部として作られた後に独立したのかについては争いがあります。)。

そして、その長である執事には、親類に源頼朝の乳母がいた縁をたどり、京から代々算道を家業としていた三善康信を招き初代問注所執事に任命しています。

なお、長をわざわざ京から招いた理由は、物事を論理的に審理・判決する能力がある者が坂東武者の中にいなかったからです。

そして、以降、問注所執事は以下のとおり三善一門が世襲していくこととなりました。

①三善康信(1184年10月10日~1221年8月6日)

②三善康俊(1221年8月6日~1238年6月10日)

③三善康持(1238年6月10日~1246年6月7日)

④太田康連(1246年8月1日~1256年9月30日)

⑤太田康宗(1256年9月30日~1262年3月)

⑥太田康有(1262年3月28日~1282年12月27日)

⑦太田時連(1283年~1285年12月27日)

⑧摂津親致(1285年12月27日~1293年10月19日)

⑨太田時連(1293年10月19日~1312年・再任)

⓾太田貞連(1312年~1313年)

⑪太田時連(1313年~1321年・再任)

⑫太田貞連(1321年~1333年・再任)

初期の問注所の業務内容

当初の問注所では、訴訟事務全般を所管したものの判決を行うわけではなく、事案の整理をした上でそれを鎌倉殿である源頼朝へ進達し、鎌倉殿が武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」や先例に従って判断するという業務形態となっていました。

御家人間の紛争に律令法・公家法を用いることができない一方で、鎌倉幕府成立時には成文法が存在していなかったため、問注所という1機関に属する文官の判断では御家人が従わないため、このような手間のかかる方法を取らざるを得なかったのです。

問注所の移転

問注所仮移転(1192年11月)

こうして設置された問注所でしたが、裁判制度ができても東国武士の血の気の多さが直ちに収まるものではなく、問注所には多くの案件が持ち込まれ、そこでは多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交わされたそうです。

また、訴訟取扱い機関として機能していた問注所ですが、しばらくすると抜刀騒ぎの事件が起こります。

問題となったのは、建久3年(1192年)に起こった熊谷直実と久下直光の土地紛争でした。

きっかけは、寿永元年(1182年)5月に久下直光が源頼朝から押領停止を命じられ、源頼朝の御家人となった熊谷直実が領することとなった熊谷郷を巡る紛争であり、この熊谷郷を巡る紛争は10年間に亘って両者の間で問題となっていたのですが、建久3年(1192年)11月11日問注所で熊谷・久下両郷の境相論を決するという訴えの審理がなされていました。

このとき、口下手の熊谷直実が自身の主張を上手く答弁することが出来なかったため、梶原景時が久下直光に加担していると主張し、憤慨して刀を抜いて自らの髻を切りそのまま出家してしまうとい事件に発展します(吾妻鏡)。

このとき誰かを傷付ける事態に発展することはなかったのですが、鎌倉殿のいる御所内で抜刀事件に発展するほどのデリケートな問題が起こったため、これを放置しておくと今後も鎌倉殿に害を及ぼす事件に発展する可能性があるとして問題となります。

そこで、この事件以降、裁判業務は、大倉御所内ではなく、名越にあった執事・三善康信の屋敷で行われることとなりました。

問注所移転(1199年)

その後、建久10年(1199年)1月13日、源頼朝が死去したのですが、後を継いで第2代鎌倉殿となった源頼家が、大倉御所の外(現在の御成小学校辺り)に新たに建物を建築し、問注所の組織をそこに移してしまいます。

なお、現在、このとき移転された場所(現在の御成小学前)に「問注所旧蹟碑」が立てられています。

また、由比ヶ浜から問注所へ向かう道筋に「裁許橋」があり、訴訟の結果由比ヶ浜で処刑された者の供養のための六地蔵が残されるなど、現在までその名残が残されています。

問注所の専門化

六波羅探題設置

承久3年(1221年)に勃発した承久の乱の後、朝廷を監視するために京に鎌倉幕府の出先機関として六波羅探題が設置されると、西国の裁判事件は六波羅探題が所管することとなります。

この結果、問注所の所管範囲は東国に限定されることとなります。

問注所業務の制限

以上のとおり、鎌倉幕府の訴訟機関として発足した問注所は、当初より東国の訴訟・裁判事務全般を所管していたのですが、訴訟事案の増加に伴って次第に事案が滞るようになり、その審理の公平迅速化が望まれるようになります。

そこで、より簡易迅速に裁判を進められるよう、ときの執権であった北条泰時を中心に、連署・北条時房、太田康連、斎藤浄円ら評定衆との協議の結果、貞永元年(1232年)8月10日、裁判基準を明文化するために源頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳を基にして武家政権のための法令である51ヶ条からなる御成敗式目(貞永式目)を制定します。なお、その後も新事態に対応するため、度々追加法が制定されていきました(式目追加)。

こうして一応の裁判基準を得た鎌倉幕府は、その後も構成迅速な裁判を目指し、建長元年(1250年)12月9日に引付衆を新設して御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を所管するようになりました。

また、刑事事件訴訟(検断沙汰)は侍所が、一般民事訴訟(雑務沙汰)は政所がそれぞれ所管するようになりました。

この結果、問注所では、東国におけるこれらを除いた訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱う機関となってそれぞれの役割分担がなさるようになり、その後もそれぞれの立場で公平迅速な裁判業務を進めていこうという努力が進められていきます。

余談・問注所氏の祖となる

なお、余談ですが、三善康信の嫡流である子の三善康俊、孫の三善康持へと問註所執事を世襲していきます(その後、太田姓を名乗る太田康連も三善康信の子)。

建久七年(1196)、三善康信が筑後国生葉郡を賜り、子の康俊は大友能直の後見としてともに鎮西に下向します。

後に鎌倉に帰ったのですが、正和二年(1313)には三善康持の孫である三善康行が筑後国生葉郡に下向して長岩城を築き問註所姓を称するようになっています。

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