【源義平】悪源太と呼ばれた源頼朝の長兄

源義平(みなもとのよしひら)は、源義朝の庶長子と生まれた武将であり、源頼朝や源義経の異母兄にあたります。

大蔵合戦で源義賢を討ち取る武功を挙げ、「鎌倉悪源太」と呼ばれて恐れられるようになった人物です(「悪」=強い、「源」=源氏の、「太」=長男)。

平治の乱では、義平十七騎と呼ばれる少数騎兵で、平重盛率いる大軍を蹴散らしたことでも有名です。

そして、最期は、捕えられて平清盛の前に引き立てられた後、数え20歳の若さで京の六条河原で斬首されています。

本稿では、そんな波乱万丈の源義平の人生について順にみていきたいと思います。

源義平の出自

出生(1141年)

源義平は、永治元年(1141年)、後の清和源氏為義流(河内源氏)の棟梁となった源義朝の庶長子として生まれます。

母は、三浦義明の娘とも京・橋本の遊女とも言われておりますが正確にはわかっていません。いずれにせよ源義朝の正室であった藤原季範娘(由良御前)の子ではなかったため長男ではあったものの嫡男とはされませんでした(源義朝の嫡男は、藤原季範娘・由良御前との間にできた最初の男子である三男・源頼朝とされています。)。

源義平出生当時は、父である源義朝が、都から東国へ下り、院近臣を後ろ盾として南関東へ勢力を伸ばしていた時期でした。

そのため、源義平もまた、父・源義朝の下、南関東で育ちます。

源義朝と源為義との争い

ところが、源義朝とその父・源為義(河内源氏の当主、源義平の祖父)とは折り合いが悪く、ここに朝廷権力が参加してきたことによりさらに関係が複雑になります。

当時の河内源氏の当主は源為義だったのですが、仁平3年(1153年)3月、院近臣によって、源義朝に父・源為義の官職を超える下野守が与えられます。

これに対し、摂関家と、それを後ろ盾とする源為義が反発します。

そして、源為義は、源義朝の勢力を削ぐため、源義朝の勢力の及んでいなかった北関東に、源義朝を廃嫡して嫡子とした次男・源義賢を下向させます。

北関東に入った源義賢は、武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町・大蔵神社辺り)に館を構え、上野国多胡荘(現・群馬県高崎市旧吉井町地区)を本拠とする武蔵国最大の武士団の棟梁であり、留守所総検校職でもあった秩父重隆の娘を娶ります。

もっとも、秩父家では家内対立があり、秩父重隆の兄である秩父重弘が源義朝方につくなどして情勢が混乱します(また、秩父重隆は、甥・畠山重能【畠山重忠の父】や、父・秩父重綱の後妻【源義平の乳母】との間で家督を巡っても対立しています。)。

その後、源義朝は、京に戻る必要が生じたために南関東の守りを長男である当時15歳であった源義平に任せて帰京すると、ここで源義朝がいなくなった隙をついて南へ勢力を伸ばそうとする源義賢・秩父重隆の勢力が勢いつきます。

鎌倉悪源太と呼ばれる

大蔵合戦(1155年8月16日)

ここで。危険を感じた源義平は、先手を打ちます。

源義平が、久寿2年(1155年)8月16日、軍勢を率いて、源義賢のいる武蔵国・大蔵館を襲撃したのです(大蔵合戦)。

源義朝不在のタイミングで15歳の源義平が襲撃してくるなど考えてもいなかった源義賢方は、突然の攻撃に対応できず、源義賢と秩父重隆が討ち死にします。なお、このとき、源義平が源義賢の子らの殺害命令を出していたのですが、畠山重能の計らいにより、源義賢の子で2歳の駒王丸(後の木曾義仲)が、斎藤実盛に連れられて駒王丸の乳母夫である信濃国の中原兼遠のもとに逃がされています。

叔父を奇襲して討ち取った源義平の軍事行動は、通常考えると問題となるはずなのですが、当時の武蔵国司である藤原信頼が問題とせずに黙認したため、源義平が処罰されることはありませんでした(なお、大蔵合戦は、源為義と源義朝という源氏の内部紛争であると同時に、それぞれが後ろ楯とする都の鳥羽院【義朝方】と、摂関家【為義・義賢方】の政治的対立が反映されていたという側面があっためです。)。

以上の結果、大蔵合戦は源義平の完全勝利に終わり、これによって源義平は、武名を高め、「鎌倉悪源太」と呼ばれて恐れられるようになります。

「悪」=強い、「源」=源氏の、「太」=長男という意味です。

そして、これ以降、源義朝・源義平による関東支配が進められていくこととなります。

保元の乱(1156年7月)

大蔵合戦により源義賢を討ったことにより、源義朝と源為義との親子の対立は修復不可能なものとなります。

そして、この対立は、保元元年(1156年)7月に起こった保元の乱によってその対立が顕在化し、崇徳上皇方の主力として戦って敗北した源為義を、後白河天皇方についた源義朝の手で処刑されるという悲劇的な形でその決着が付けられる事になります。

もっとも、この保元の乱は京で起こったものですので、関東にいた源義平が関与したかは不明です。

平治の乱に敗れる

信西の台頭

保元の乱の後、勝利者側である後白河天皇方が朝廷内で力を持つようになったのですが,その後白河天皇の寵愛を受けた信西が台頭して、源為義らの源氏勢力を処断していきます(他方,院の警備を担っていた平家を優遇していきます。)。

また、信西は、天皇親政を進めると共に、荘園整理などによる摂関家の弱体化政策を進め、自らの息子たちを要職に就けるなどして権力を高めていきます。

ところが、これらの強引な政治により、信西は旧来の院近臣や貴族の反感を買っていきます。

さらに、保元3年(1158年)8月の二条天皇即位に際し、その側近にも息子たちを送り込んだ結果、天皇の反感までも招きます。

こうして、後白河上皇の近臣や二条天皇側近などに反信西の動きが高まっていきます。

このとき、反信西派の中心人物となったのが藤原信頼です(後白河上皇の男色の相手とも言われますが正確なところは不明です。)。

ここで,大蔵合戦の際に、武蔵国の知行国主でもあった関係により源義平による源義賢殺害を不問にしてくれた恩があり、また平清盛を重用する反信西派の人物ですので、源義朝は,藤原信頼に協力します。

反信頼の挙兵(1159年12月9日)

そんな中、平治元年12月9日(1160年1月)、平清盛が熊野参詣で京を離れることとなったため、京に軍事的空白ができたと見た藤原信頼と源義朝が、反信西を掲げて挙兵します。

このときの挙兵は、ターゲットが信西のみであったこと、当初は平清盛が敵に回るとは考えなかったことから、少数の兵で行われました。

そして、藤原信頼の命を受けた源義朝らが、信西のいる東三条殿を焼き討ちして信西を探します。

このとき、信西は、危険を察知して事前に山城国・田原に避難し、竹筒の空気穴をあけた箱に隠れて土に中に潜んでいたのですが、見つかって掘り返された際、自ら首を突いて自害しました。

結局、信西の首は京に運ばれて、晒し首にされます。

こうして目的を果たした藤原信頼と源義朝でしたが、何を思ったか、勢いに乗って内裏に押し入り、二条天皇と後白河上皇を幽閉してしまいます。

こうなると、反信西ではなく、単なるクーデターです。

内裏を占拠し、天皇と上皇を押さえた藤原信頼は、勝手な叙任を進め、源義朝を播磨守に、また初陣として参加していたその嫡男・源頼朝は右兵衛権佐に任官させます(この「佐」の字をもって、以降、源頼朝は「すけどの」と呼ばれます。)。

他方、源義平は、源義朝の長男であり武功を挙げていたにもかかわらず、生母の身分からか扱いは芳しくなく、官位を得たという記録も残されていません。

源義平上京

こうして政権を掌握した藤原信頼と源義朝でしたが、率いる兵が少数であったためにその維持に手を焼きます。

困った源義朝は、東国にいる源義平に援軍を要請し、これを受けた源義平が東国武士を率いて都に上ってきます(途中、武運を祈願して久津八幡宮に鶴岡八幡宮の御神体を祀ったそうです。)。

もっとも、この時点での源義朝の配下に集ったのは、子である源義平・源朝長・源頼朝、叔父である源義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、坂東武者としては、三浦義澄上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎませんでした(保元の乱が国家による公的な動員だったのに対し、このときは反乱のための隠密裏の召集であったために源義朝が組織したのは私的武力に限られた僅少兵力だったのです。)。

源義朝の強みは、「兵力」ではなく、二条天皇と後白河上皇を取り込んでいるという「立場」に過ぎませんでした。

賊軍となる(1159年12月26日)

ところが、ここで藤原信頼・源義朝・源義平らが窮地に陥る事態が起こります。

熊野から帰京した平清盛が、平家の本拠地であった六波羅に入り、平治元年(1159年)12月25日夜、密かに内裏から二条天皇を脱出させて六波羅に迎え入れたのです。また、その後、後白河上皇は仁和寺に逃れさせたのです。

そして、同年12月26日丑刻(午前2時)に六波羅に入った二条天皇により、その知らせを聞いて集結して来る公卿・諸大夫らを待って体裁を整えさせた上で、藤原信頼と源義朝追討の宣旨を下させたのです。

この結果、平清盛が官軍、藤原信頼と平義朝が賊軍となります。

内裏の戦い(1159年12月26日)

こうなると藤原信頼や源義朝は苦しくなります。

平治元年(1159年)12月26日早朝に、二条天皇・後白河上皇の脱出を知った藤原信頼・源義朝らは動揺し、源義朝が藤原信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒するに至ったのですが、時すでに遅しでした。

官軍となった平清盛の下には、続々と兵が参集してきます。

そこで、平清盛は、平治元年(1159年)12月26日辰の刻(午前8時頃)、弟である平経盛や平頼盛、嫡子である平重盛などに命じて、藤原信頼や源義朝が守る内裏を攻撃させます。

これに対し、源義朝は、急ぎ内裏の各門に兵を配置して守りを固めます。

このとき、19歳であった源義平も、八龍の鎧を着て石切の太刀を帯び、葦毛の馬に乗り敵を待ち構えました(平治物語)。

この後、藤原信頼が守る待賢門(内裏東側の門)に平重盛の軍が攻め寄せてきたのですが、藤原信頼は戦わずに逃げ出し、平家方に待賢門を突破されてしまいます。

待賢門を突破した平重盛率いる平家軍500騎が内裏になだれ込んできたのですが、このとき、源義平率いる鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者16騎(後に、あわせて「義平十七騎」と言われます。)が、これに突撃していきます。

源義平率いる16騎は強く、平重盛率いる500騎を散々に蹴散らし、源義平は、平重盛を討ち取ろうとして内裏の左近の桜、右近の橘の間を7、8度も追い回したと言われています(もっとも、このときの内裏に造りからすると、おそらくこのエピソードは虚構のものです。)。

源義平が手強いと見た平重盛は、兵を引くこととしたのですが、これを見た源義平は、平重盛を追撃していきます。

なお、平重盛は主従3騎で逃げていたのですが、それを見つけた源義平が鎌田政清とともにこれを追い、平重盛の馬を射て平重盛を転倒させます。

そこで、鎌田政清が平重盛に組みかかろうとしたのですが、与三左衛門景安が平重盛を守って鎌田政清と組み合いになります。

これを見た源義平は、平重盛を追うか鎌田政清を助けるか迷ったのですが、まずは家人の鎌田政清を助けて与左衛門景安の首をはねます。

その後、再び平重盛を追った源義平でしたが、新藤左衛門家泰がこれを遮って源義平に組みかかったため、源義平はこれをうちとったものの平重盛を取り逃がしてしまいます。

また、このとき、平頼盛が郁芳門(内裏東側の門)を攻撃していたのですが、源義朝の守りを突破できず、平頼盛も兵を退きます。

待賢門・郁芳門のいずれにおいても平家方を打ち払った源氏方は、勢いに乗り、逃げていった平家軍を追撃していきます。

ところが、これは平家方の計略であり、追撃軍が出たことにより手薄となった内裏に平教盛の別動隊が迫り、内裏を占拠してしまったのです。

六波羅の戦い

内裏が失われたことにより退路が失われた源義朝は、一発逆転を狙い、総大将の平清盛の首を取るために、平家の本拠である六波羅への総攻撃を決めます。

こうして六波羅に向かった源義朝らでしたが、途中の六条河原付近に約300騎を率いて布陣する摂津源氏の源頼政を発見します。

これを見た源義平は、源頼政が平清盛に味方するために出陣してきたと勘違いし、源頼政の陣に攻撃を仕掛けます。

源頼政は、この時点ではいまだどちらに味方するか決めていなかったのですが、突然攻撃を受けたために防戦を強いられることとなり、この結果、必然的に平家方に味方することとなります。

その後、源頼政の陣から脱出した源義平は、六波羅に攻め寄せたのですが、寡兵であったこと(古態本「平治物語」によるとこのとき20騎程度であったとされています。)、一連の戦いによって疲弊していたこともあり、源義朝・源義平軍に勝ち目はなく、間もなく戦局が決したため退却をします。

平治の乱の決着

源氏軍が離散したことにより平治の乱は、平清盛の勝利に終わり、首謀者・藤原信頼は降伏して処刑されます。

他方、六波羅から退却した源義朝一行は、本拠地である東国を目指して東に向かって落ち延びていきます。

源義平の最期

東国へ向かう

東に向かって落ちていく源義朝一行でしたが、雪中の逃避行であったこともあり、その途中で三男である源頼朝がはぐれて行方不明になります。

その後、源義朝の妾がいた美濃国・青墓宿にたどり着いた一行は、追っ手から逃れるために、源義平は東山道へ、源朝長は信濃・甲斐へ下って兵を募ることとします。

ところが、腿を射られ重傷を負っていた源朝長は進むことができず、青墓宿に引き返してきて、捕えられるよりはと死を選び、源義朝の手により絶命しています。

他方、源義朝は、鎌田政清の舅である尾張国の住人長田忠致の館に逗留することとしたのですが、永暦元年(1160年)正月3日、長田忠致の裏切りにより、鎌田政清と共に殺害されてしまいます。

東山道を下って東国を目指した源義平でしたが、飛騨国にたどり着いたところで父・源義朝の死を知ります。

京に戻る

父の死を知って自害をしようと考えた源義平でしたが、平清盛か平重盛を道連れとしようと考え直し、京に取って返して機会をうかがいます。

ところが、永暦元年(1160年)1月18日、京に潜伏しているところを発見され、難波経遠率いる300騎に取り囲まれます。

その場は何とか逃れて近江国に逃亡した源義平でしたが、石山寺に潜んでいたところを難波経房の郎党に生け捕られます。

源義平処刑(1160年1月19日)

そして、六波羅に連行された源義平は、平清盛の尋問を受けた後、六条河原で処刑されることとなりました。

斬首の際の太刀取りには、源義平を生け捕った難波経房が選ばれます。

そして、永暦元年(1160年)1月19日(21日?、22日?、25日?)源義平は、難波経房に対し、自分ほどの武者の首を切れることは名誉なことであり、下手に斬ったら雷になってくらいついて殺してやると言い残し、斬首されます。享年は20歳でした。

なお、余談ですが、源義平斬首の8年後、平清盛の供をして摂津国布引の滝を見物に行った難波経房は、雷に打たれて死んだといわれています。真偽は不明ですが。

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