【第75代・崇徳天皇】保元の乱に敗れて流され怨霊となった悲劇の帝

崇徳天皇(すとくてんのう)は、鳥羽上皇の中宮であった藤原璋子(待賢門院)が、白河上皇との不貞行為の結果として産まれた複雑な血縁関係を持つ天皇です。

系図的には自分の子でありながら妻の不倫相手(白河上皇)の子であるということから、崇徳天皇は、系図上の父である鳥羽天皇から徹底的に嫌われて育ちます。

この環境は崇徳天皇が成長した後も変化はありませんでした。

この争いは、譲位して崇徳上皇となってからも続き、崇徳上皇と鳥羽上皇(及び後を継いだ後白河天皇)との争いは、朝廷を二分する大戦となった保元の乱を誘発しました。

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、失意のうちに讃岐国に流され、同地において苦難を受け続けて死んだ恨みから怨霊となったとも言われています。

本稿では、苦難の歴史を歩んだ崇徳天皇の人生について見ていきたいと思います。

崇徳天皇即位

出生(1119年5月28日)

崇徳天皇は、元永2年(1119年)5月28日、「系図的には」鳥羽天皇の第一皇子として、同中宮であった藤原璋子(待賢門院)との間に生まれます。

諱は顕仁(あきひと)といいましたが、標記がややこしくなるため、本稿では、譲位までは「崇徳天皇」、譲位後は「崇徳上皇」の表記で統一して記載します。

以上のとおり、「系図的には」崇徳天皇は、曾祖父が白河上皇、祖父が堀河上皇、父が鳥羽天皇という縦四代の関係性にあり、その鳥羽天皇の第一皇子ということから後に皇位を継ぐことが決まっている人物でした。

もっとも、崇徳天皇は、白河上皇と鳥羽天皇の妻・待賢門院の不倫の結果として生まれた子であったため、「真実の」父は白河上皇でした(そのため、実際は、鳥羽天皇からすると、崇徳天皇は、妻が産んだ子でありながら子ではなく叔父であったのです。)。

そのため、妻を寝取られる形となった鳥羽天皇は、崇徳天皇を「叔父子」と呼び忌み嫌っていました(もっとも、鳥羽天皇は、白河上皇を後ろ盾とする崇徳天皇を攻撃する力を持っていなかったためこの時点で何らかの行動をとることはできませんでした。)。

この複雑な関係が様々な問題を引き起こしていきます。

崇徳天皇即位(1123年2月19日)

崇徳天皇は、白河上皇の力によって、生後約1か月後の同年6月19日に親王宣下を受け、保安4年(1123年)1月28日に皇太子となって践祚します。

そして、崇徳天皇は、保安4年(1123年)2月19日に数え5歳(満3歳7か月)で鳥羽天皇から皇位を継承して即位しました。

当然ですが、数え5歳の子供に政治などできるはずがありませんので完全にお飾りの天皇であり、政治は引き続き白河上皇によって行われます(白河院政)。

その後、大治4年(1129年)1月1日に元服を終え、関白・藤原忠通の長女の藤原聖子(皇嘉門院)が入内してきます。

鳥羽院政開始(1129年7月)

大治4年(1129年)7月7日、絶対的権力者であった白河上皇が崩御すると、その権力は鳥羽上皇に引き継がれることとなり、ここから鳥羽上皇による院政が始まります。

白河上皇が存命であったときは我慢していた鳥羽上皇は、目の上のたん瘤であった白河上皇が崩御したことにより権力を引き継いだときから大嫌いな崇徳天皇に牙をむき始めます。

近衛天皇に譲位

譲位(1141年12月7日)

鳥羽上皇は、自分の子供ではない崇徳天皇を天皇の座から引きずり下ろすために策をめぐらし、まず永治元年(1141年)12月7日に、崇徳天皇の異母弟を「養子にする」ことを条件として崇徳天皇を退位させ、藤原得子(美福門院)との間の実子である体仁親王を近衛天皇として即位させます。

このとき、崇徳天皇は、近衛天皇を養子にして皇位を引き継がせると、崇徳天皇が近衛天皇の父となりますので、鳥羽上皇の次の治天の君として院政を行う権利を得ることとなるため、喜んで譲位に同意して鳥羽田中殿に移ります。

ところが、ここで鳥羽上皇が予想外の一手を打ちます。

近衛天皇は、崇徳天皇の中宮・藤原聖子の養子であったために崇徳上皇の「皇太子」だったはずなのですが、譲位の宣命に「皇太弟」と記したのです(愚管抄)。

その結果、公的には、近衛天皇は、崇徳上皇(退位したため、この時点では上皇となっています。)の子ではなく弟とされてしまいます。

これは、崇徳上皇にとって大問題となります。なぜなら、院政は治天の君である天皇の「父」が行うもので、天皇の「兄」では院政を行うことができないからです。

これにより崇徳上皇が院政を行う可能性が閉ざされました。

とんでもない嫌がらせです。

当然ですが、父と思っていた鳥羽上皇に騙されて権力掌握の道が閉ざされたと知った崇徳上皇の失望は大きく、鳥羽上皇と崇徳上皇の関係は急激に悪化します。

また、鳥羽法皇(康治元年/1142年に東大寺戒壇院で受戒し法皇となっています。)の寵愛を受けた近衛天皇と崇徳上皇との関係も劣悪となります。

権力を奪われ和歌に没頭する

院政の道を閉ざされ権力の座から引きずり降ろされた崇徳上皇は、その絶望からか、「久安百首」を作成し「詞花和歌集」を撰集するなど和歌の世界に没頭するようになります。

崇徳上皇は和歌の才能に秀でており、歌会を頻繁に催すなどして、「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」という百人一首にも選ばれた余りにも有名な歌を詠んだりもしています。

崇徳上皇が政治への興味を失ったように見てとった鳥羽法皇は、安心をしたのか表向きは崇徳上皇に対して鷹揚な態度で接するようになり、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えいれるまでに至ります(この結果、近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承及び崇徳上皇の院政の可能性もでてきました。)。

近衛天皇崩御(1155年7月23日)

そんな中、仁平3年(1153年)に近衛天皇が重病に冒され、久寿2年(1155年)7月23日に17歳の若さで崩御します。

近衛天皇には子がありませんでしたので、近親者から次期天皇を擁立必要が生じたのですが、最有力候補としては重仁親王(崇徳上皇の子)、その次の候補として守仁親王(鳥羽法皇の孫・崇徳上皇の甥)などの名があがります。

このとき、一旦はあきらめた治天の君への道が再びつながったと知った崇徳上皇は失われていた政治的野心を持ち始めます。

ところが、崇徳上皇を天皇の父にして院政を始めさせたくない鳥羽法皇は、重仁親王の即位を全力で阻止するため、守仁親王を推します。

他方、守仁親王が年少者であったため、父親である雅仁親王を飛び越えて即位させるのは妥当ではないとの意見も出ていました。

そこで、王者議定の結果、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父である雅仁親王を後白河天皇として即位させることになりました。

この結果、またも子を天皇にすることが出来ず完全に院政への道が断たれた崇徳上皇は、鳥羽法皇方に対する怒りが収まらなくなってしまいます。

朝廷を二分する争いに発展

朝廷内の待賢門院派と美福門院派の争い

この崇徳上皇の怒りに、摂関家での勢力争いに敗れつつあった藤原頼長が同調します。

こうして、鳥羽法皇派(美福門院派=鳥羽法皇・後白河天皇・藤原忠通など)に対する反対勢力として、崇徳上皇派(待賢門院派=崇徳上皇・藤原頼長など)の勢力が確立していきます。

この関係悪化に、朝廷内の貴族達の権力争いが加わり、朝廷では待賢門院派(崇徳上皇派)と美福門院派(鳥羽法皇派)とに二分され、熾烈な権力争いが繰り広げられるようになります。

そして、この両派の対立は朝廷内人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣が、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してからは左大臣も空席となったため、大臣ポストが一つのみ(内大臣・藤原頼長)という状況になったため、ここでも少ないポストと事実上の権力を巡る摂関家内の争いも誘発します。

その後、鳥羽法皇・近衛天皇方は、閑院流三条家や中御門流、村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、勢力を拡大していきます。

他方、翌永治元年(1141年)に得子呪詛の嫌疑で崇徳上皇の母・待賢門院が出家に追い込まれたため、崇徳上皇の外戚である閑院流徳大寺家の勢力は後退します。

摂関家の内紛

この朝廷内の争いは摂関家にも波及していきます。

ときの関白は藤原忠通であったのですが、後継者に恵まれなかったため異母弟の藤原頼長を養子に迎えていました。

ところが、康治2年(1143年)に藤原忠通に待望の実子・藤原基実が生まれると、自身の摂関の地位を養子・藤原頼長ではなく、実子・藤原基実に継承させようと望むようになり、次第に、兄(養親)・藤原忠実と、弟(養子)・藤原頼長とが対立することになっていきます。この藤原忠通と藤原頼長の争いは、それぞれが娘(藤原忠通の娘=藤原聖子、藤原頼長の娘=藤原多子)を近衛天皇に嫁がせることにより、天皇家をも巻き込んだ争いに発展していったのです。

もっとも、いずれもが近衛天皇の子を産むことはなかったため、この争いに決着はつかず、さらに鳥羽法皇が、藤原忠通を関白に留任させながら、藤原頼長に内覧の宣旨を下したことにより、関白と内覧が並立する前代未聞の人事となり、藤原忠通と、藤原頼長との対立はもはや修復不能な段階に入っていきます。

鳥羽法皇崩御(1156年7月2日)

そして、ついに崇徳上皇派(待賢門院派=崇徳上皇・藤原忠通など)が立ち上がるきっかけとなる事件が起こります。

保元元年(1156年)5月22日、美福門院派のトップである鳥羽法皇が病に倒れたのです。

美福門院派は、鳥羽法皇の権威を盾に崇徳上皇・藤原頼長らを抑圧していたため、この鳥羽法皇の病は美福門院派にとっての重大な政治的危機となります。

危機を感じた美福門院派は、まず身の安全を図るため、病床の鳥羽法皇が源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて差し出させます。

その後、同年7月2日申の刻(午後4時頃)、絶対的権力を誇った鳥羽法皇は崩御したため、待賢門院派(崇徳上皇派)と美福門院派(鳥羽法皇派)の対立は避けられない状態となります。

なお、臨終の直前に崇徳上皇が鳥羽法皇の直前に見舞いに訪れたのですが、鳥羽法皇が側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳上皇に見せないよう言い残したためだったため対面が許されず(古事談)、これを聞いた崇徳上皇が憤慨して鳥羽田中殿に引き返したとの逸話が残されています。

美福門院派と待賢門院派の軍事衝突

鳥羽法皇が崩御すると、後白河天皇が、待賢門院派(崇徳上皇派)の排除のための行動を開始します。

具体的には、保元元年(1156年)7月5日、平清盛・平維繁・源義朝・源義康などを手配した上で、京中の武士の動きを停止する措置を取り(『兵範記』7月5日条)、京の軍事力を掌握したのです。

対応の遅れた藤原頼長は追い詰められ、崇徳上皇派(待賢門院派)は、武力蜂起以外に局面を打開する以外に道がなくなったのですが、上皇や公卿が武力など持っていようはずがありません。

そこで、待賢門院派(崇徳上皇派)もまた、後白河天皇が集めた武士の対立勢力となる源為義・源為朝・平忠正などに自分達に味方するよう招集をかけた上、鳥羽田中殿から脱出して白河に移ることにします。

白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったのですが、南には平家の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を得るには絶好の場所であると考えたからです。

そして、崇徳上皇は、保元元年(1156年)7月9日夜中、少数の側近に連れられて鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所(白河北殿)に押し入り占拠します(兵範記)。

ここに、謀反人の烙印を押されて立場の危うくなった藤原頼長や、崇徳上皇の側近である藤原教長、藤原頼長の母方の縁者である藤原盛憲・藤原経憲ら、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲らが集結してきます。

保元の乱勃発

紛争の複雑化

こうして後白河法天皇(美福門院派=後白河天皇)と崇徳上皇(待賢門院派)との権力争いに端を発した朝廷紛争は、藤原摂関家を巻き込んで巨大化していきます。

さらに、美福門院派(後白河天皇・藤原忠通)が平清盛・源義朝・源義康らを招集したこと、待賢門院派(崇徳上皇派)が源為義・源為朝・平忠正らを招集したことにより、皇位と朝廷内での地位を巡る政治紛争が、源氏・平氏のお家騒動を誘発し、武士の代理戦争へと繋がっていきます。

待賢門院派(崇徳上皇派)の無策

白河北殿に集まった待賢門院派(崇徳上皇派)は、勢い付く美福門院派に対する対応を協議するための軍議を開いたのですが、ここで源為朝がまともに戦うと勢力の劣る待賢門院派(崇徳上皇派)に勝ち目はないため、後白河天皇のいる高松殿へ夜襲をかけて勝利に繋げるべきであるとの献策をします。

ところが、戦を知らない藤原頼長は、勢力が劣っているのであれば藤原信実率いる興福寺の悪僧集団などの大和からの援軍を待つべきとして、源為朝の献策を退けてしまいます。

他方、美福門院派(後白河天皇派)でも軍議が開かれ、ここでも源義朝・藤原信西が崇徳上皇のいる堀川北殿への夜襲を献策したところ、この策が採用されます。

白河北殿夜襲(1156年7月11日)

この結果、保元元年(1156年)7月11日未明、後白河天皇方の武士達が、高松殿から3軍に分かれて出陣し、崇徳上皇のいる白河北殿を目指します(なお、後白河天皇は神鏡剣璽とともに東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めます。)。

奇襲を受けた待賢門院派(崇徳上皇派)は大混乱に陥り、白河北殿に火が燃え移った同日辰の刻(午前8時頃)には、待賢門院派(崇徳上皇派)は総崩れとなります。

兵が逃亡していく状態となった崇徳上皇や藤原頼長(合戦で首に矢が刺さる重傷を負っています。)は、もはや勝ち目がないと悟って一旦は白河北殿を脱出して東山の如意山に逃れたのですが、その後剃髪し、同年7月13日仁和寺に出頭して投降し、戦いは美福門院派(後白河天皇派)の勝利に終わります。

崇徳上皇の最期

讃岐国配流(1156年7月)

保元の乱に敗れた崇徳上皇は、罪人として扱われ、讃岐国への配流が決まります。

そして、崇徳上皇は、保元元年(1156年)7月23日、武士数十人が囲んだ網代車に乗せられて鳥羽国に赴き、そこから船で瀬戸内海沿いに航行して、一旦、直島(香川県香川郡直島町にある島)に入ります。

天皇・上皇クラスの配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来約400年ぶりの出来事であり、崇徳上皇に同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけという寂しいものでした。

讃岐国での流人生活

その後、崇徳上皇は、直島を出て讃岐国に入り、御所ができるまでの間「在庁高遠の松山の御堂(雲井御所跡)」に入って約3年間を過ごします。

そして、讃岐国鼓岡に建築されることとなった御所の完成を待ち、崇徳上皇は木の丸殿(このまるでん)と呼ばれた御所に入ります。

もっとも、御所に入ったと言っても罪人である崇徳上皇は、役人の監視の下での軟禁生活を余儀なくされたため、心の平穏を求めるために仏教に傾倒し、「大方広仏華厳経」・「大般涅槃経」・「大方等大集経」・「大品般若経」・「妙法蓮華経」という五部大乗経の長大な経文を写経するなどし(保元物語)、反省の証として朝廷に送るなどしていました。

もっとも、京の後白河天皇は、崇徳上皇が写経した経文については、呪詛がかけられている可能性があるとして受け取りを拒否し崇徳上皇の下に送り返します(実際には、後白河天皇からの崇徳上皇を許さないとの意思表示でした。)。

崇徳上皇崩御(1164年8月26日)

その後、崇徳上皇は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所で国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけた後、配流処分から8年後の長寛2年(1164年)8月26日、絶望のまま讃岐国において46歳で崩御します。

正確な死因は不明ですが、一説には京からの刺客である三木近安に暗殺されたとも言われています。

上皇とはいえ罪人であったため、崇徳上皇の死に際して朝廷から何らかの措置が行われることはなく、国司による葬礼が行われるにとどまり、死後、崇徳上皇は白峯陵(香川県坂出市青海町)に葬られました。

朝廷からすると、讃岐国に流された時点で崇徳上皇は終わった人だったのです。

怨霊伝説

ところが、この崇徳上皇に対する評価が一変する事態が起こります。

きっかけは、安元2年(1176年)に建春門院・高松院・六条院・九条院などの後白河法皇・藤原忠通に近い人物が相次いで死去し、翌安元3年(1177年)に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こるなどして社会不穏が高まったのですが、このときこれらの原因が崇徳上皇の怨霊によるものであるとまことしやかに囁かれるようになったことでした。

そして、この崇徳上皇の怨霊の噂は徐々に朝廷内に浸透していき、当時の貴族の日記にも頻繁に登場するようになります。

相次ぐ不幸に困り果てた後白河法皇は、崇徳上皇と藤原教長を神霊として祀るため、寿永3年(1184年)4月15日、保元の乱の古戦場であった春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)を設置します。

また、後白河法皇は、怨霊鎮魂のために保元の宣命を破却し、また同年8月3日には崇徳上皇の院号をそれまでの「讃岐院」から「崇徳院」に改め、藤原頼長にも正一位太政大臣が追贈しました(百錬抄)。

なお、その後、崇徳上皇の御霊は、明治改元の直前に明治天皇の勅使により京に帰還され、その後は白峯神宮 (京都市上京区今出川通堀川東入)で祀られています。

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