【第76代・近衛天皇】鳥羽上皇と崇徳天皇の政争の駒となった悲しき天皇

近衛天皇(近衞天皇・このえてんのう)は、院政を敷いて絶大な権力を手にしていた鳥羽上皇の第9皇子として生まれました。

鳥羽上皇の傀儡として物心つく前に天皇に即位させられ、即位後も実父である鳥羽上皇と、養父兼系図上の兄である崇徳上皇の権力闘争の駒として使われた悲しき天皇です。

幼い頃から政争の真っ只中でストレスに晒され続けまた元々体も弱かったこともあって宝算17歳の若さで崩御されました。

本稿では、そんな悲しい人生を歩んだ近衛天皇の生涯について振り返ってみたいと思います。

近衛天皇即位

出生(1139年5月18日)

近衛天皇は、保延5年(1139年)5月18日、治天の君であった鳥羽上皇の第9皇子として、寵妃であった藤原得子(美福門院)との間に生まれます。

諱は躰仁(なりひと)といいました。なお、「躰」は「體」の俗字であり、今日では「體」のもう一つの俗字である「体」を新字体として常用漢字に用いていることから、躰仁親王のことを体仁親王と記すこともあります。

近衛天皇は、父である鳥羽上皇の意向により、生後僅か1か月後の同年6月27日、「系図上の」異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子となることが決まります。

そして、同年7月16日に親王宣下がなされ、同年8月17日に立太子がなされます。

近衛天皇即位

そして、近衛天皇は、永治元年(1141年)12月7日、鳥羽上皇の意向により、数え3歳で天皇として即位することとなりました。

この近衛天皇即位については、鳥羽上皇による崇徳天皇排除策の一環としてなされたものです。

どういうことかというと、この譲位は、鳥羽上皇が崇徳天皇に対し、養子である近衛天皇に譲位をすると崇徳天皇が上皇となると唆して行われたものだったのです。

崇徳天皇としても、天皇の父となれば院政を敷く条件を満たし、鳥羽上皇の跡を継いで治天の君になれる可能性を得られますので、鳥羽上皇の提案を受け入れ、喜んで近衛天皇に譲位をしたのでした。

ところが、これは鳥羽上皇の罠でした。

鳥羽上皇は、崇徳天皇をとても嫌っており、特に、崇徳天皇が将来院政を行って権力を握ることだけは絶対に阻止するつもりだったのです。

なお、鳥羽上皇が崇徳天皇を嫌っていた理由は、崇徳天皇は、元永2年(1119年)5月28日、「系図的には」鳥羽天皇の第一皇子として、同中宮であった藤原璋子(待賢門院)との間に生まれたため、「系図的には」崇徳天皇は、曾祖父が白河上皇、祖父が堀河上皇、父が鳥羽上皇という縦四代の関係性となっていました。

ところが、崇徳天皇は白河上皇と鳥羽上皇の妻・待賢門院の不倫の結果として生まれた子であったため、「真実は」、崇徳天皇は、父が白河上皇でした(そのため、実際は、鳥羽上皇からすると、崇徳天皇は、妻が産んだ子でありながら子ではなく叔父であったのです。)。

そのため、妻を寝取られる形となった鳥羽上皇は、崇徳上皇を「叔父子」と呼び忌み嫌っていたのです。

鳥羽上皇の奇策

近衛天皇に譲位を決めた崇徳天皇は鳥羽田中殿に移り、その手続きを行うこととなったのですが、ここで鳥羽法皇(康治元年/1142年に東大寺戒壇院で受戒して法皇となっています。)が予想外の一手を打ちます。

近衛天皇は、崇徳上皇(退位したため、この時点では上皇となっています。)の中宮・藤原聖子の養子であったために崇徳上皇の「皇太子」だったはずなのですが、譲位の宣命に「皇太弟」と記してしまったのです(愚管抄)。

その結果、公的には、近衛天皇は、崇徳上皇の「子」ではなく「弟」とされてしまいました。

これは、崇徳上皇にとって大問題となります。

なぜなら、院政は治天の君である天皇の「父」が行うもので、天皇の「兄」では院政を行うことができないからです。

とんでもない嫌がらせであり、崇徳上皇の落胆は計り知れないものとなりました。

近衛天皇治世

延勝寺建立(1149年)

前記のとおりのドロドロの戦いを経て行われた近衛天皇の即位でしたが、当の近衛天皇本人は、数え3歳の子供ですので、そのような経緯を知る由もありません。

また、当然ですが、数え3歳の子供に政治などできるはずがありませんので、政治については、引き続き院政を敷く鳥羽法皇によって行われることとなりました。

なお、鳥羽法皇の庇護の下で成長した近衛天皇は、御願寺として、六勝寺の1つに数えられる延勝寺(現在の京都市勧業館敷地西端から東大路通の西端付近まで、東西二町、南北一町の規模)を創建し、久安5年(1149年)に落慶供養を行なっています。

元服(1150年1月4日)

そして、近衛天皇は、久安6年(1150年)1月4日に12歳で元服し、同年3月14日に内覧・藤原頼長の養女の多子(11歳)を皇后、また同年6月22日には関白・藤原忠通の養女の呈子(20歳)を中宮とします。

その後、仁平2年(1152年)になると、中宮となった呈子が懐妊の兆候を見せて内裏を退出したのですが、これは周囲の期待に促された想像妊娠であったようで、出産予定時期を過ぎても子が生まれることはありませんでした(台記・仁平3年9月14日条)。

病に伏せる(1153年頃〜)

宮中で成長を続けていた近衛天皇でしたが、仁平3年(1153年)頃から病気がちになり、失明の危機に陥って譲位の意思を関白・藤原忠通に告げる事態にまで陥りました(台記・仁平3年9月23日条)。

ところが、当時は近衛天皇に面会することができた人物は藤原忠通らごくわずかであり、また藤原忠通が近衛天皇の健康情報を独占していたため、朝廷内に近衛天皇の健康悪化は知らされていませんでした。

近衛天皇崩御

近衛天皇崩御(1155年7月23日)

その後も近衛天皇の健康状態は悪化し続け、久寿2年(1155年)7月23日、皇子女を儲けることなく、御所としていた近衛殿において崩御されました。

宝算17歳でした。

前記のとおり、藤原忠通が情報を遮断していたことから近衛天皇が病を患っていたことは知られておらず、朝廷内では突然死のように考えられました。

そのため、近衛天皇の死は左大臣・藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れたほどでした。

追号

近衛天皇崩御後、葬礼の準備が進められ、あわせて院号定がなされました。

まず、まず右大弁・藤原朝隆が、院号は邸宅に因むという原則があったところ、近衛殿が天皇の里内裏だったことから「近衛院」とする提案がなされたのですが(兵範記・久寿2年7月27日条)、近衛とは天皇の護衛兵であり院号にふさわしくないとする異論が出ました。

次いで、花山院忠雅から、近衛大路に通じ別称でもある陽明門が良いことから「陽明門院」や、陽明門院は禎子内親王の院号として既に使用されているので後の字を付けて「後陽明門院」とするとの提案が出たのですが、重複を避けること、天皇と国母・男女の間では前後の字を付けた例はないとの異論が出ました。

結局、様々な意見調整の結果、追号については、当初の案であった「近衛院」に落ち着き決定しました。

保元の乱(1156年7月)

近衛天皇には子がありませんでしたので、近親者から次期天皇を擁立する必要が生じました。

このとき最有力候補となったのは重仁親王(崇徳上皇の子)であり、以下、守仁親王(鳥羽法皇の孫・崇徳上皇の甥)などの名が挙げられます。

このとき、崇徳上皇を天皇の父にして院政を始めさせたくない鳥羽法皇が、重仁親王の即位を阻止するため、守仁親王を擁立するよう動き出します。

もっとも、年少である守仁親王を、父親である雅仁親王を飛び越えて即位させるのは妥当ではないとの意見も出ていたため、王者議定の結果、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王を後白河天皇として即位させることに決まりました。

この結果、またも子を天皇にすることが出来なかった崇徳上皇は、鳥羽法皇方に対する怒りが収まらなくなり、その後の鳥羽法皇の崩御をきっかけとして皇位を巡って後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂して争うという保元の乱に発展します。

近衛天皇陵

近衛天皇の遺骨は、一旦知足院に納められたのですが、長寛元年(1163年)、安樂壽院南陵(現在の京都市伏見区竹田浄菩提院町)に移され、その後現在まで同所が近衛天皇陵とされています。

近衛天皇の陵が同所に治定された経緯はやや複雑で、同所は元々鳥羽法皇が離宮内に自らや家族の墓所として設定していた場所でした。

実際、鳥羽法皇は、安楽寿院の境内に建てられた三重塔(本御塔)に葬られています。

鳥羽法皇は、自らの陵に加え、久安4年(1148年)頃に皇后の藤原得子(美福門院)の墓所とするべく三重塔(新御塔)も建てていたのですが、藤原得子(美福門院)が同所に葬られることを拒否し、永暦元年(1160年)11月23日に死去した後で遺言により高野山に葬られたことから、三重塔(新御塔)が空いたままとなっていました。

そこで、この空いていた三重塔(新御塔)を再利用するため、長寛元年(1163年)に近衛天皇の遺骨を移して陵とされたため、同所が近衛天皇陵となったのです。

なお、近衛天皇陵は、当初は三重塔(新御塔)だったのですが、慶長元年(1596年)に発生した慶長伏見地震で倒壊し、その後、豊臣秀頼の命により多宝塔として再建されたことから、唯一の多宝塔の天皇陵として現在まで続いています。

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