【六勝寺】院政の舞台・白河に創建された6つの御願寺

六勝寺(ろくしょうじ、りくしょうじ)とは、当時の政治の中心地であった鴨東白河の地に白河天皇以降5代の天皇が建立した5つの天皇御願寺と、1つの女院御願寺をあわせた6つの寺の総称です。

6つの寺の法号にいずれも「勝」の字を持つことから、まとめて六勝寺と呼ばれています。

院政の舞台となった京の白河の地にある院政期を象徴する寺院でしたが、室町期以降その維持管理が停滞し、応仁の乱以降にほぼ廃絶しています。

現在では、石碑や町名などに面影を残すのみであり、寺域や伽藍配置などにおいて不明な点は多いため、発掘による考古学的調査および復元作業が進められています。

本稿では、六勝寺についてその建立時の政治情勢を踏まえつつ現在までの明らかとなっている点を基に説明したいと思います。

六勝寺建立に至る経緯

六勝寺のあった白河の地は、平安京と鴨川を挟んで向かい合う東海道上の交通の要衝でした。

元々、この地には人臣最初の摂政となった藤原良房が別業を営み、以降、9世紀から11世紀頃まで代々の藤原北家当主により使用されました。

その後、治暦4年(1068年)に藤原摂関家を外戚に持たない後三条天皇が即位したことにより藤原氏の摂関政治がほころびた後、延久4年(1072年)に後三条天皇が皇位を当時わずか20歳であった息子の白河天皇に譲位したことにより義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握って摂関政治への回帰が見られ、政治的に微妙な時期が続きます(摂関政治期から院政期への過渡期です。)。

そんな中、藤原師実が、承保2年(1075年)にときの天皇であった白河天皇に白河の地を寄進したため、白河の地が天皇家のものとなります。

白河院政期の六勝寺

法勝寺(ほっしょうじ、1077年)

① 法勝寺創建

白河の地の寄進を受けた白河天皇は、「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との考えを披瀝し、仏教を保護して統治する伝説上の金輪聖王(転輪聖王)にならって白河の地内(現在の京都市動物園及びその北側付近)に法勝寺を建立することを決意します。

そして、承保2年(1075年)、法勝寺が第72代白河天皇の御願寺として造営が開始され、承暦元年(1077年)に藤原師実の実兄・覚円を入れ、毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が行われました。なお、その後も長期にわたって多数の建物が造られました。

永保3年(1083年)には高さ約82mとされる八角九重塔と愛染堂が完成し、東海道方面から京に出入りする人を圧倒したといわれています。

法勝寺の伽藍配置は、南大門から見て、北方向に金堂(本尊:毘盧遮那仏)、講堂(本尊:釈迦如来)、薬師堂(本尊:薬師如来)が一直線上に並び、西側に阿弥陀堂(本尊:阿弥陀如来)、その向こうに五大堂(本尊:不動明王)、北に法華堂が配置され、金堂からは翼廊をめぐらし、経蔵と鐘楼につながり、前は南庭(だんてい)となっていたようです。

法勝寺は、後に六勝寺と呼ばれる寺のうち最初に創建され、六勝寺の筆頭寺院として最大の規模を誇り、後に慈円が「国王の氏寺」と称しています(愚管抄)。

② 白河天皇譲位により上皇となる

白河天皇は、応徳3年(1086年)、わずか8歳であった息子の堀河天皇に皇位を譲位して上皇となり、内裏を離れて白河の地・泉殿(嘉保2年・1095年に白河南殿が建築されています。)に入り、そこで幼い息子を補佐して政治を行います。

これにより、藤原摂関家は、またしても外戚の地位喪失により権力を失います。

さらに、後三条天皇時代に断行され延久の荘園整理令によって有力貴族の荘園を公領に組み戻す作業を行った結果として荘園という経済基盤をも失ったことにより、藤原摂関家を含む有力貴族の力が衰えていきます。

これを好機と見た白河上皇は、公領に戻す土地として貴族を含めた一般人の領地(荘園)を挙げていたのですが、上皇の土地を含めていないという延久の荘園整理令の不備を利用して、それまで有力貴族に寄進されていた土地を上皇に集めるという方法で経済力を手にして行きます。

③ 白河院政開始(1099年)

その後、承徳3年(1099年)に藤原師通が急死すると、後を継いだ若い藤原忠実では経験が足りなかったため、政治を行うために白河上皇の経験や人脈が必要となり、白河上皇の政治への関与が強まっていき、さらに白河上皇に権力が集中します。

これにより、白河上皇が、第73代堀河天皇(在位1087年~1107年)、第74代鳥羽天皇(在位1107年~1123年)の治世に治天の君として院政を行なっていくこことなるのです。

この白河上皇の絶大な権力を表すものとして、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が残されています(平家物語)。

これは、白河上皇が、賀茂川の洪水・すごろくのサイコロ・比叡山延暦寺の僧兵の3つは思い通りにいかないと嘆いたというものですが、逆に言うとこの3つ以外は思い通りに進めることができるという強権を有していたことを示す例ととられることが多いです。

尊勝寺(そんしょうじ、1102年)

その後も、鎮護国家思想(仏教の持つ国家を守護・安定させる力で国家を守るという思想)に従い、代替わりするたびに天皇によって御願寺が創建されていきます。

尊勝寺は、第73代堀川天皇の御願寺として創建され、康和4年(1102年)に落慶供養が行われました。

六勝寺の中で最も発掘調査が進んでいるのが尊勝寺であり、寺域の中に、金堂・回廊・2つの塔・阿弥陀堂・観音堂・薬師堂・法華堂灌頂堂・五大堂などがあったことがわかっています。

なお、現在の京都会館第一ホール付近が尊勝寺・金堂跡であると言われています。

最勝寺(さいしょうじ、1118年)

最勝寺は、第74代鳥羽天皇の御願寺として創建され、元永元年(1118年)に落慶供養が行われました。

現在の岡崎グラウンド西側から京都会館までの間に位置していた方一町(120m四方)規模の寺院であったと考えられています。

なお、最勝寺が創建された元永元年(1118年)には、白河法皇によって泉殿の北側に新御所が造営されることによって白河殿が拡張され(この新たに造営された新御所は白河北殿と呼ばれ、従来の泉殿は白河南殿と呼ばれるようになって区別がなされます。)、この白河北殿は、大治4年(1129年)にさらなる拡張がなされています。

円勝寺(えんしょうじ、1128年)

円勝寺は、待賢門院(藤原璋子)の御願寺として創建され、大治3年(1128年)に落慶供養が行われました。

円勝寺は、他の六勝寺の5寺と異なり、唯一の女院御願寺として創建されました。

そのため、女院であること、天皇ではない待賢門院が建立したものであることなどから、当初は他の御願寺と同格扱いがなれておらず、その他5つの寺で「五勝寺」と称されていました(愚管抄)。

もっとも、円勝寺が、「五勝寺」と同じ中心伽藍として金堂を持ち、単独の寺院として存続していたことから特別な寺院であるとみなされ、また円勝寺創建以降にこの規模の御願寺を建立される事は無かったため、5代の天皇の御願寺である「五勝寺」とあわせ、待賢門院の御願寺である円勝寺を含めて六勝寺と称されるようになりました。

円勝寺の境内規模は方一町かそれ以上といわれ、現在の京都市美術館に位置していたと推定されます。

鳥羽院政期の六勝寺

大治4年(1129年)7月7日に白河上皇が崩御すると、鳥羽上皇が、その息子である第75代崇徳天皇(在位1123年~1145年)、第76代近衛天皇(在位1142年~1155年)、第77代後白河天皇(在位1155年~)の治世に治天君として権力を握ります。

そして、鳥羽院政も続けて白河殿で行われたため、白河の地にさらに天皇御願寺が建立されます。

成勝寺(じょうしょうじ、1139年)

成勝寺は、第75代崇徳天皇の御願寺として創建され、保延5年(1139年)、真言宗寺院として仁和寺四世・覚法法印により落慶供養が行われました。なお、推定所在地は、現在の京都市勧業館の敷地辺りとされ、岡崎成勝寺町という地名にその名残を残しています。

なお、成勝寺は、六勝寺の中で形を変えながらも唯一現存しています。

成勝寺の建築物は、承久元年(1219年)に消失した後に白河から伏見の地に移った後、1460年ころに、同地で本願寺八世・蓮如上人によって浄土真宗寺院に改宗します。

そして、その後江戸・日本橋浜町に移った後、明暦3年(1657年)に発生した振袖大火によって海辺御坊(現在の本願寺東京別院)と共に築地へ移り、そこで浄土真宗の中核寺院となります。

そして、関東大震災の被害を経て、昭和3年(1928年)、現所在地である東京都世田谷区に移り、現在まで「伏見山 成勝寺」として残っています。

延勝寺(えんしょうじ、1149年)

延勝寺は、第76代近衛天皇の御願寺として創建され、久安5年(1149年)に落慶供養が行われました。

現在の京都市勧業館敷地西端から東大路通の西端付近まで、東西二町、南北一町の規模であったと推定されます。

院政期終了後の六勝寺

保元の乱による白河殿消失

白河上皇と鳥羽上皇の院政の場として隆盛を極めた白河の地と六勝寺でしたが、保元元年(1156年)7月に、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派により争われた保元の乱により状況が一変します。

保元の乱の際に美福門院派(後白河天皇派)が白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放った火が白河北殿に類焼し、白河殿が消失します。

院政の場が白河殿から法住寺殿に移る

保元の乱に勝利した後白河天皇は、消失した白河殿を放棄し、平安時代中期藤原為光によって創建された法住寺の地(現在の三十三間堂近辺)に新たに法住寺殿を造営し、移り住みます。

後白河天皇は、保元3年(1158年)に二条天皇に譲位し、治天の君として実権を握り、その政治は法住寺殿で行われます。

六勝寺の衰退

政治の場が白河殿から法住寺殿に移った後も六勝寺自体は健在でしたが、鎌倉期以降の相次ぐ災害や院政の終了によりその勢力は衰退し、室町期の応仁の乱によって成勝寺以外廃絶しています(唯一東京に移った成勝寺のみが宗派を変えて現在に残っています。)。

現在、地上には六勝寺の遺構は全く残されていませんが、地中には建物・溝・築地などの遺構の他、瓦や土器などの遺物が残されていることが分かっています。

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