【千葉常胤】源頼朝に父と言われた鎌倉幕府創立の立役者

千葉常胤(ちばつねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて、下総国の有力在庁官人として、下総国・千葉荘を本拠地として勢力を誇った武将です。官途名は千葉介(ちばのすけ)です。

千葉家の家督相続後に、相馬御厨・橘庄を失い、一時は千葉荘のみを有するに至るまで落ちながら、源頼朝の挙兵を援け、鎌倉幕府有力御家人となって20か所以上の所領を有するまでに勢力を拡大させた千葉家中興の祖でもあります。

本稿では、安房国に逃れた源頼朝をいち早く援け、源頼朝から師父とまで評された千葉常胤の生涯について見ていきたいと思います。

千葉常胤の出自

千葉常胤は、元永元年(1118年)5月24日、大稚城(現在の千葉市緑区)を本拠地として下総国・中東部を支配する桓武平氏良文流千葉氏(坂東八平氏の1つ)の一族であった下総権介・千葉常重の子として生まれます。母は、石毛政幹娘とも海道三郎大夫忠平女とも言われていますが、正確なところは不明です。なお、上総国を治める上総広常とは又従兄弟の関係となります。

その後、大治元年(1126年)、父・千葉常重が、東京湾の海上交通を利用する目的で、千葉家の本拠地を大稚から下総台地の丘陵地である千葉郷(後の千葉荘)・亥鼻山に移したため、千葉常胤はもそれに従って千葉荘に移り住みます。

そして、千葉常胤は、保延元年(1135年)、千葉家の家督を受け継ぎます。

相馬郷・立花郷を巡る攻防

藤原親通・源義朝との攻防(1136年)

千葉家が実質的に治める所領の中に相馬郷(現在の千葉県柏市・流山市・我孫子市、茨城県取手市・守谷市あたり)と立花郷(橘庄)がありました。

大治5年(1130年)6月11日、千葉常胤の父・千葉常重が、相馬郷を伊勢神宮に寄進して相馬御厨(御厨とは有力神社所有地・皇室所有地をいいます。)とし、その下司職に任命されます。

ところが、保延2年(1136年)7月15日、伊勢神宮の荘園となったはずの相馬御厨に、下総守・藤原親通が立ち入り、相馬御厨及び立花郷(橘庄)の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由をつけて千葉常重を逮捕・監禁し、千葉常重に相馬御厨・立花郷を官物に代わって藤原親通に進呈するという内容の新券(証文)を書かせて両郷を押領するという事件が起こります。

この事件に源義朝までが介入し、康治2年(1143年)、源義朝までもが、相馬御厨の乗っ取りをしようとして千葉常重から相馬御厨の証文を責め取ってしまいます。

困った千葉常胤は、久安2年(1146年)4月に藤原親通に官物の支払いを行って相馬郡司職を回復して相馬御厨の返却を受け、天養2年(1145年)8月10日に改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進しています。

また、源義朝に対してはその臣下に下ることにより相馬御厨の下司権を確保します。

佐竹義宗に奪われる(1161年)

源義朝の臣下に下った千葉常胤は、保元元年(1156年)7月の保元の乱、平治元年12月(1160年1月)の平治の乱に出陣し源義朝指揮下で戦います。

もっとも、平治の乱に敗れた源義朝が敗死したため、永暦2年(1161年)、その臣下となっていた千葉常胤の有する相馬御厨について、常陸国の豪族であった佐竹義宗に奪われてしまいます。

具体的には、常陸国の佐竹義宗が前下総守・藤原親通から千葉常重の証文を手に入れ、藤原親盛(藤原親通の子・平重盛側室の養父)と結んで伊勢神宮に相馬郷を再寄進し、これが伊勢神宮に認められたことにより佐竹義宗が相馬御厨・立花郷の支配権を得たのです。

そして、これは、千葉常胤が、相馬御厨・立花郷を失ったことも意味しました。

この結果、千葉常胤と佐竹義宗とが激しく争うこととなっていきます。

挙兵直後の源頼朝に加勢する

源頼朝が安房国へ(1180年8月29日)

千葉常胤の下に、治承4年(1180年)8月29日、対平家の兵を挙げたものの、その後の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国に落ちてきたとの報が届きます。

そして、このとき、源頼朝の命を受けた安達盛長が千葉常胤の下を訪れ、源頼朝に協力してほしいとの要請をしてきます(このとき、上総広常の下には和田義盛が、安西景益の下には三浦一族が訪れていました。)。

源頼朝の下につくことを決意

源頼朝からの協力要請を受けて千葉常胤は悩みます。

源頼朝がかつて自らの領地(相馬御厨)を奪った源義朝の子である上、源頼朝の勢力があまりに脆弱なため源頼朝に協力すると強大な平家に敵対したとして千葉家そのものが平家に攻め滅ぼされてしまう危険があるために源頼朝に与することがためらわれる一方で、源頼朝方につかなかったとしても、息子で園城寺の僧でもあった日胤が以仁王の挙兵に加わって討ち取られていた関係から、平家から追及を受ける可能性があったからです。

千葉常胤は、悩んだ末、勢いづいていく源頼朝を見てこれに従うことを決意します。

庇護している源頼隆(千葉常胤は、平治の乱に敗れて源義隆の子を密かに庇護していました。)を取り立ててもらう目的もあったかもしれません。

源頼朝に従って対平家の立場をとることを決めた千葉常胤は、治承4年(1180年)9月13日、源頼朝の手土産とするため、千葉胤頼の勧めに従って千葉胤頼と嫡孫・千葉成胤(千葉胤正の子)に命じて平家に近いとされた下総の目代を下総国府(現在の市川市)に襲撃してこれを討伐します。

これに対し、源頼朝討伐に向かっていた判官代・藤原親政(藤原親通の孫であり、匝瑳郡に根拠を置き平氏政権によって下総守となっていました。)が、この知らせを聞いて引き返し、急遽千葉荘を攻撃をしたのですが、同年9月14日、千葉成胤がこれを返り討ちにして藤原親政を捕縛しています(結城浜の戦い)。

源頼朝との対面(1180年9月17日)

千葉常胤が味方に付いたことを知った源頼朝は、治承4年(1180年)9月17日、千葉常胤と対面をすることとします。

このときの対面場所としては、下総国府に千葉常胤が300騎を率いて参陣(吾妻鏡)したとされていますが、上総国府(現在の市原市)、結城ノ浦(現在の千葉市中央区寒川神社付近)、千葉常胤の館という説もあり、正確な場所は不明です。

この対面の際、千葉常胤が、庇護していた源頼隆を伴って源頼朝の前に伺候して源頼朝に源頼隆を用いるよう申し入れたところ、源頼朝が、源氏の孤児を育ててきたことを深く謝し、「司馬(千葉常胤)を以て父となす」と述べたといわれています。

源頼朝の下での活躍

源頼朝が鎌倉へ

そして、治承4年(1180年)9月19日、上総広常が2万騎(吾妻鏡では2万騎・延慶本平家物語では1万騎・源平闘諍録では1000騎とされています。)もの大軍を率いて源頼朝の下に参陣したため、関東に源頼朝を押さえることができる勢力はいなくなります。

そして、源頼朝率いる大軍は、同年10月2日、千葉常胤と上総広常が準備した船に乗って太日河・墨田川を越えて武蔵国に入り、豊島清元・葛西清重父子に迎えられます(葛西清元と千葉常胤は、治承元年・1177年の香取神宮造営を通じて関係を持ち、誼を通じていました。)。

こうして率いる軍が膨れ上がった源頼朝に、以降関東の平家方の豪族たちは手出しが出来なくなったため、源頼朝は抵抗を受けることなく進軍し、治承4年(1180年) 10月6日、鎌倉に入ります。

そして、鎌倉に到着した源頼朝は、共に蜂起した甲斐国の武田信義と連絡を取り合い、駿河国で合流して平家を打倒するとの同盟を結び、同年10月16日、遂に平家軍を迎え撃つべく鎌倉を出発します。

そして、治承4年(1180年)10月20日夜、富士川で源頼朝・武田信義連合軍をもって平家軍を打ち破ります(富士川の戦い)。

富士川の戦いに勝利して気を良くした源頼朝は、そのまま撤退する平家軍を追撃して京に雪崩れ込もうと考えます。

ところが、ここで千葉常胤は、上総広常三浦義澄らと共に、この源頼朝の意見に異を唱え、東国を固める(まず、常陸国に勢力を有する平家方の佐竹氏を討つ)よう主張します。

千葉常胤としては、源頼朝が京に上って平家を討つよりも、自らの領地である上総国から平家勢力を追い払うことの方が大事だったので、自らの子飼いの兵を京への遠征軍として消費するわけにはいかなかったためです。

その結果、いまだ自身では大きな力を持たない源頼朝は、千葉常胤ら東国武士たち(主に房総平氏)の意志に逆らうことができず、結局は鎌倉に戻るという選択をします。

金砂城の戦い

そして、源頼朝は、治承4年(1180年)10月27日、源頼朝は、軍勢を引き連れ佐竹家の治める常陸国に向かって出発し、同年11月4日、常陸国府に入ります。

そして、同年11月5日、金砂城に立てこもった佐竹秀義を討つため、金砂城に対する総攻撃が始まり、金砂城には入城していなかった佐竹秀義の叔父・佐竹義季を調略して、その案内で金砂城を攻略します(金砂城の戦い)。

この結果、佐竹義季が御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が源頼朝の家人たちに与えられることとなります。

このとき、千葉常胤には、旧領・相馬御厨が与えられ、悲願であった旧領回復を果たします。

房総平氏の総領となる

その後、鎌倉に入った源頼朝は、鶴岡八幡宮を移設した上で大倉幕府を設け、鎌倉の都市整備をし、また政治機構を整えていきます。

もっとも、次第に、源頼朝を中心とする朝廷との協調路線派と、上総広常を中心とする東国独立論を主張する有力関東武士層との間で対立が生じていきます。

これは、台頭しつつある源頼朝の身内的御家人(北条時政・比企能員など)と、大きな力を持っていた上総常胤・千葉常胤ら房総平氏との対立でもありました。

結果としては、源頼朝が、自らを支える者として房総平氏から身内御家人にシフトさせる過程の中で、寿永2年12月30日(1184年2月3日)、房総平氏の筆頭・上総広常に謀反の疑いありとして梶原景時に暗殺させ、房総平氏の力を削ぐこととなります。

この結果、房総平氏総領の地位が、上総広常から千葉常胤に移ることとなったのですが、房総平氏自体の力が大きく減殺されたために千葉常胤もまた、政権中枢から一御家人の立場に転落するに至っています。

数々の武功を挙げる

もっとも、その後も、千葉常胤は、源頼朝の下で武功を挙げていきます。

寿永3年(1184年)2月7日の一ノ谷の戦いでは源範頼軍に属して生田口の戦いに参加し、またその後の源範頼の山陽道・九州遠征にも同行して陸上軍として平家滅亡までの戦いに参加して武功を挙げています。

また、文治5年(1190年)の奥州合戦では、八田知家と共に東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得ています。

なお、千葉常胤は、建久4年(1193年)に香取社造営雑掌を務め、後に千葉家が香取社地頭として社内への検断権を行使する権利を獲得するきっかけを作っています。

千葉常胤の最期

千葉常胤は、建仁元年(1201年)3月24日に死去します。享年は84歳でした。

なお、千葉常胤は、地方の一豪族から鎌倉幕府の有力御家人に登らしめた千葉家中興の祖として家中での尊敬を集め、千葉常胤以降の一族の諱に「胤」の一字が受け継がれることが多くなっています。

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