【村木砦の戦い】今川義元から緒川城を防衛するための戦い

尾張国では、織田信秀の代から織田弾正忠家の尾張国内での勢力拡大と今川義元との間での熾烈な尾張・三河領土争奪戦が繰り広げられていました。

これらの戦いは、織田信秀が死亡して織田弾正忠家の家督を織田信長が引き継いだ後も、織田信長の尾張国統一戦として約7年間も繰り広げられます。

織田・今川の一進一退の攻防は、鳴海城・大高城・沓掛城を獲得した今川義元が優位に進め、今川義元がさらに知多半島に勢力を及ぼすべく緒川城の攻略を目指して前線基地である村木砦を建築します。

このとき、この脅威を取り除くため、緒川城主・水野信元が、21歳の若き織田信長に対して村木砦の攻略を依頼して起きたのが村木砦の戦い(むらきとりでのたたかい)です。

村木砦の戦いに至る経緯

織田信秀死去

尾張国で勢力を伸ばす織田信秀と、駿河国・遠江国・三河国を支配下に置き、尾張国にまで勢力を広げようとする今川義元との間で、激しい戦いが繰り広げられていました。

3ヶ国を治める大大名である今川義元も、津島湊・熱田湊を押さえることにより強大な経済力を持つ織田弾正忠家を制圧することは容易でなく、織田・今川の戦いは、尾張国と遠江国の国境付近で繰り返し行われ、戦局は一進一退でした。

この戦局の停滞は、天文20年(1551年)に織田信秀が死去後も続きます。

織田弾正忠家の家督を継いだ織田信長の力量を不安視した鳴海城主・山口教継が今川義元の傘下に下りますが、織田信長も調略により、三河国加茂郡を治める大給松平氏、緒川城(小河城)主・水野信元らと同盟を結んだりしていました。

今川義元の尾張国進出

もっとも、織田信秀死去により織田弾正忠家を継いだ織田信長は、今川義元のみならず、主家である清洲織田家とも戦いが続いており、対今川では、織田方が戦局的にはやや不利でした。

鳴海城を得た今川義元は、この織田弾正忠家と清洲織田家の争いの隙をついて、大高城・沓掛城を獲得し、徐々に尾張国方面に進出していきます。

そして、今川義元の次の攻略目標として、水野信元が治める緒川城が狙われました。

もっとも、今川方の遠江国側から見ると、緒川城は海を越えた先にありますので、いきなり緒川城に攻め込むのは困難です。

そこで、今川義元は、まず、西三河にある水野方の重原城を攻略し、橋頭堡とします。

今川方による村木砦建築

その上で、今川義元は海を渡って東側に上陸し、緒川城の真北の場所に、緒川城攻めの前線基地とする砦を建築します。

この砦が、本稿の主役である村木砦(愛知県知多郡東浦町にある八剣神社付近)です。

織田信長による村木砦攻略作戦

本拠地の近くに砦を築かれた緒川城は混乱します。

しかも、ここで織田方だった寺本城が今川方に寝返り、織田信長の居城・那古野城と緒川城とが分断されてしまいました。

今川方による緒川城攻撃が迫っていることは明らかです。

緒川城主・水野信元は、織田信長に対し、緒川城解放のために村木砦の攻略を依頼します。

このとき、織田方が、陸路を進んで今川方の後詰めが予想される寺本城を力攻めで攻略し、その後東進して村木砦を攻略することは容易ではありません。

かと言って、緒川城主・水野信元の要請も無視できません。そんなことをすれば、尾張国内の国衆達が次々と今川に下ってしまいます。

困った織田信長は、寺本城を避けて海路で同城の南側に回り込んで知多半島に上陸した後、東進して村木砦を攻撃するという作戦を立案します。

村木砦の戦い

那古野城の守り

もっとも、この村木砦攻略作戦には、大きな問題がありました。

村木砦攻略のために織田信長が兵を率いて出陣すると、主家であるはずの清洲織田家の織田信友が那古野城を攻撃することが予想されたのです。

背後を狙われては村木砦攻略などできようはずがありません。

困った織田信長は、美濃国を治める義父の斎藤道三に使者を送り、援軍を求めました。

斎藤道三は、織田信長の求めに応じ、天文23年(1554年)1月18日、安藤守就に1000人の兵を預けて織田信長のいる那古野城に向かわせます。

同年1月20日、安藤守就率いる軍が到着し、那古野城の近くの志賀・田幡に布陣したため、織田信長が安藤守就に礼を述べに行っています。

なお、那古野城の防衛も整ったため、織田信長は、出陣の準備をしていたのですが、ここで筆頭家老だった林秀貞とその弟・林通具兄弟が、不服を言い、帰ってしまっており、織田信長方も混乱していたようです。

織田信長出陣(1554年1月21日)

織田信長は、帰ってしまった林兄弟を無視し、安藤守就に守りを任せて、天文23年(1554年)1月21日に、兵を率いて出陣します。

那古野城を発った織田信長軍は、同日は熱田に宿泊し翌同年1月22日に、船を出して村木砦に向かう予定だったのですが、このとき強風が吹いて船頭・水夫たちが船を出すことに反対します。

ここで、織田信長は、源平合戦時の屋島の戦いの直前、渡辺津から四国に向かう際に荒れている海を避けるべきと主張した梶原景時を押し切って独断で船を出し屋島を奇襲してこれを攻略した源義経の例を引き合いに出し、嫌がる船頭・水夫たちに対して船を出すよう命じます。

織田信長の圧力に屈した船頭・水夫たちによって船に乗り込むことができた織田軍は、20里ほどの道程を約1時間で進みんで知多半島に上陸し、そのまま野営をして翌日を迎えます。

織田信長布陣

翌同年1月23日、織田信長軍は、野営地を引き払って東進し、水野信元が治める緒川城に入ります。

そして、天文23年(1554年)1月24日、織田信長は、夜が明けると水野信元と共に緒川城から出陣して北進し、村木砦の南側(現在の村木神社の辺り)に陣を敷きます。

村木砦攻撃(1554年1月24日)

 

村木砦は、東西約250m・南北約200mの規模を誇り、北側・東側は衣ケ浦を巨大な外堀として守る構造であったため、ここを北側と東側から攻めるのは困難でした。

そこで、織田信長は、南に織田信長及び水野信元を、西に織田信光を配置して村木砦を攻撃することとします。

そして、織田軍は、同日辰の刻(午前8時)ころ、村木砦への総攻撃を開始します。

南側を担当した織田信長は、砦にあった3つの狭間を鉄砲隊に鉄砲を取り替えては次々と撃たせ、その間に手勢に堀を登らせました。

なお、このときの鉄砲の使用が織田信長の戦いでの初の鉄砲使用だと言われ、織田信長自らも鉄砲を発射したとも言われます。

村木砦陥落

織田方の猛攻により、村木砦側は負傷者・死者が増えて支えきれなくなり降伏の意思を示します。

これに対し、織田側にも死者が多数出ていたために、これ以上の力攻めは無用と判断した織田信長は、この降伏の申し出を受け入れたため、申の下刻(16時20分)ころに戦闘が終了します。

村木砦の戦いの後

村木砦の戦いに辛勝した織田信長は、その近くで戦勝祝いの酒盛りをし、配下の者達の死に涙したと伝えられています。

なお、この戦勝祝いの酒盛りの場は、後に飯喰場という地名が付され、現在もその名が残されています。

天文23年(1554年)1月25日、織田信長は、戦後処理を水野信元に任せた上、今川義元に下った寺本城へ手勢を派遣して城下に放火して荒らし回った後、那古野城に帰還します。

そして、同年1月26日、織田信長は、留守を務めた安藤守就に礼を述べたため、翌日に安藤守就らが美濃に帰還しています。

なお、村木砦の跡地には、元亀2年(1571年)に水野信元の家臣であった清水家重により、村木砦の戦いの死者を祀るため八剣神社が建立され現在に至ります。

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