【平将門の乱】平氏台頭のきっかけとなる関東武士の反乱

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、平安時代中期に関東で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に瀬戸内海で発生した藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。

平将門の乱は、単なる一武士の反乱に止まらず、藤原純友の乱と合わせて、日本の律令国家衰退と武士を誘発し、平氏(平将門の乱の方に平貞盛が参加したため)と源氏(藤原純友の乱の鎮圧に源経基が参加したため)が台頭するきっかけともなった歴史が転換するきっかけとなった事件です。

平将門の乱に至る経緯

高望王の臣籍降下(889年5月13日)

寛平元年(889年)5月13日、葛原親王の第三王子(桓武天皇の孫またはひ孫)であった高見王の子高望王が、宇多天皇の勅命によって平朝臣を賜与されて臣籍降下し、平高望を名乗ります。

平高望となった高望王は、昌泰元年(898年)、上総国の国司である上総介に任官して長男・平国香、次男・平良兼、三男・平良将(良持とも)らを伴って任地である上総国に赴きます(なお、当時の上級国司は、地方での生活を嫌って任地に赴かない遙任が少なくなかったのですが、中央での出世が望めないと判断した平高望は望んで上総国に下っています。)。

平将門は、高望王の三男・平良将の子であり、このとき父と一緒に上総国に下っています。

平高望の関東土着と勢力拡大

上総介として上総国に下った平高望らは、その任期が過ぎても帰京せず、平国香に前常陸大掾の源護の娘を、平良将に下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなどして土着し、在地勢力との関係を深めていきます。

また、平高望らは、常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発してそこを支配し、これによって主に関東の東部に勢力を拡大させていきます。

平高望は、こうして獲得した一族の領地をを守るべく武士団を形成してこれを育て、ここから育った武士団がその後の高望王流桓武平氏の基盤となっていきます。

平将門上京

また、平高望は、一族の朝廷内での地位を高めるため、平良将の子・平将門が成長すると京に上って朝廷に出仕させ、ときの最高権力者・藤原北家の藤原忠平の従者とします。

平将門と叔父たちとの争い

(1)平国香との争い(931年)

もっとも、元皇族の祖父を持つとはいえ、臣籍降下した元国司の孫ではそれほどの出世は望めませんでした。

その後、父・平良将が死去したため、平将門は、その後を継ぐために帰郷します。

ところが、平将門が父の遺領に戻ってみると、父のかつての所領の多くを伯父である平国香、平良兼らが横領してしまっていることを目にします。

怒った平将門は、下総国豊田を本拠として勢力を整え、承平元年(931年)、上野国府に向かった軍を進め、迎えうった平国香を上野国府近くの上野国・花園村(現在の群馬県高崎市)の染谷川付近で打ち破ります(染谷川の戦い)。

その後、平将門が、平真樹と源護との間の土地争いを調停・仲裁することとなったのですが、承平5年(935年)2月、源護の子である源扶、源隆、源繁の3人が常陸国野本に布陣して調停の場に向かう平将門を待ち受けて戦いとなります(野本の戦い)。

平将門は、野本で源護の子らを打ち破った後、逃げる3人を追って源護ほ本拠地である常陸国真壁に攻め入り、周辺の村々を焼き払った上で3兄弟を討ち取ります。

また、平将門は、そのまま叔父・平国香の本拠地であった常陸国石田にも攻め入って平国香をも打ち取ります。

なお、平国香の死を聞いたその子・平貞盛(京に出仕して左馬允となっていた。)は、父の後を継ぐために帰郷することとなったのですが、当初、平貞盛は京での生活と官人としての出世を希望していたため、平将門と敵対する気はなく、平将門と和睦して京に戻ることを希望していたようです。

(2)平良正との争い

3人の子を打たれた源護は、平将門を打つべく婿の平良正(平将門の叔父)に反平将門の協力を依頼します。

平良正は、源護の依頼を受けて、自身の本拠地であった常陸国水守で兵を集め、平将門の本拠地であった下総国豊田へ向かって出陣します。

これに対し、平将門も迎撃に出て、承平5年(935年)10月21日、鬼怒川沿いの新治郷で合戦となり、この戦いは平将門の大勝に終わります。

(3)平良兼との争い

戦いに敗れた平良正は、当時上総介を務めていた兄の平良兼(平将門の叔父)に助勢を訴えます。

平良兼は、これを受けて、平貞盛(平国香の長子)を味方に引き入れ、承平6年(936年)6月、平将門を討つために出陣し、平良正、平貞盛と共に平将門の本拠地である下野国豊田に向かって進んでいきます。

これに対し、平将門も迎撃に出て、下野国と下総国の国境付近で戦いとなり、平将門軍が勝利します。

敗れた平良兼・平良正・平貞盛は、下野国国府に逃げ込み、平将門はこれを包囲します。もっとも、平将門としても、さすがに朝廷の役所である国府に攻め込むわけにはいかず、国衙側に自身の行為の正当性を認めさせた上で、本拠地である下総国豊田へ引き揚げます。

力で平将門を打ち破ることが困難と判断した反平将門勢力は、朝廷に訴え出ることにより、平将門と平真樹を失脚させようと考えます。

そして、同年9月、源護が訴え出たため、朝廷から源護、平将門、平真樹へ召喚命令が届きます。

平将門はただちに上京して検非違使庁で尋問を受けますが、朝廷は平将門の行為を微罪とし、翌承平7年(937年)4月に朱雀天皇元服を理由とする恩赦が出され、平将門は東国へ帰ります(国府を囲んだ行為は元々反平将門の攻撃がきっかけとなっており、また平将門は国府を攻撃していません。また、平将門には従者として働いていたときの藤原北家の藤原忠平とのパイプがありますので朝廷交渉は不利になりません。)。

本拠に戻った平将門に対し、承平7年(937年)8月、平良兼がまたも軍を起こして、下総国と常陸国の国境にある子飼(小貝・蚕養(こかい))の渡しに押し寄せました。

このとき、平良兼は、高望王と将門の父である平良将の像を陣頭におし立てて攻め寄せたため、平将門軍は反撃するのを躊躇し、平将門軍が敗退します。

そして、勝ちに乗じた平良兼軍は、平将門の本拠地である下野国豊田に侵入して火を放った上、略奪狼藉の限りをつくします。

また、同年9月、再度平良兼が下野国豊田に進行してきたのですが、今度は平将門がこれを迎撃し、平良兼は筑波山に逃亡します。

複数回にわたる平良兼の攻撃に業を煮やした平将門は、平良兼の行状をかつて仕えた藤原忠平に訴え出たため、同年12月、朝廷から平良兼らの追捕の官符が発せられます。

なお、このころに平将門が本拠地を下野国豊田から下総国石井へ移したため、その後、平良兼は、石井の館に夜襲をしかけたりするなど散発的な攻撃を行うも成功せず、天慶2年(939年)6月に無念のうちに病没しています。

(4)平貞盛との戦い

また承平6年(936年)6月の戦いに敗れた平貞盛は、承平8年(938年)2月、東山道をへて京へ上ろうと出立したのですが、朝廷に告訴されることを恐れた平将門が100騎を率いてこれを追撃して信濃国千曲川で追いつき戦いとなります。

この戦いは、平将門の勝利となり、平貞盛側の兵の多くが討たれたのですが、平貞盛自身は難を逃れ、何とか今日までたどり着きます。

京にたどり着いた平貞盛は、平将門の暴状を朝廷に訴えたため平将門への召喚状が出され、同年6月、平貞盛がこの召喚状を持って東国へ戻り、常陸介藤原維幾に召喚状を渡します。

この召喚状は、藤原維幾から平将門に届けられたのですが、平将門はこれに応じませんでした。

そればかりか、自らの讒言を朝廷に告げた平貞盛を討つべく、平将門は東国中を探し回ります。

平貞盛は、追っ手を逃れるために陸奥国へ逃走しようとしたのですがれようとするが成功せず、以後、東国を流浪し続けることとなりました。

以上の経過を経て、平将門は、東国における対抗勢力を駆逐し、関東では敵なしの状態にまで勢力を伸ばしていきます。

平将門の乱

武蔵国内の争いに介入

その後、天慶2年(939年)2月、朝廷から、武蔵国へ新たに武蔵権守(武蔵国ナンバー2)となった興世王が赴任してきます。

ところが、この興世王の赴任後に、武蔵国内で、中央任命組の源経基(武蔵介、武蔵国トップ、清和源氏の祖)と、在宅豪族から任命された武蔵国足立郡の郡司・武蔵武芝とがの紛争に陥ります。

一旦、平将門がこれを仲裁して和解解決したのですが、その後、武蔵武芝の兵が、源経基の陣営を包囲したため、源経基が逃げ出し、源経基がこれを約定違反であるとして、平将門・興世王・武蔵武芝の謀反を訴えます。

もっとも、ここでも平将門の元主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べることとして御教書を下して使者を東国へ送り、これに対して平将門が上書を認めて、同年5月、関東5カ国の国府の証明書をそえて送ったため、平将門の疑いは晴れ、逆に、源経基は誣告の罪で罰せられます(なお、その後、今度は興世王が、新たに中央から赴任してきた武蔵守・百済王貞連と不和になり、任地を放り出して平将門の下で暮らしています。)。

常陸介と争い朝廷に敵対することに

また、同じく常陸国内で狼藉を働き追捕令を出されて逃亡中の常陸国の住人・藤原玄明(ふじわらのはるあき)も、頼まれたら断らない性格の平将門を頼ってやってきます。

常陸介(常陸国司)・藤原維幾は、藤原玄明が平将門の下にいることを知って、その引渡しを要求したのですが、平将門がこれを拒否したため、同年11月、藤原維幾と平将門との戦いとなります。

この戦いは、平将門が勝利し、敗れて武蔵国府に逃れた藤原維幾を追って武蔵国府を包囲した平将門は、藤原維幾に国府の印璽差し出させるとともに、国府を焼き払い、さらにその周辺で略奪と乱暴のかぎりをつくします。

朝廷では、平将門による国府攻撃は、平将門による反乱であると判断して、平将門討伐の方向で動き始めます。

関東平野を制圧

図らずも朝廷と敵対することとなってしまった平将門でしたが、ここに平将門の下に転がり込んでいた興世王が火に油を注ぎます。

興世王は、平将門に対し、朝廷の敵となった以上、強大な朝廷権力に対抗するため関東一帯を勢力下におくべきであると進言し、平将門はこの考えを採用してしまったのです。

そして、平将門は、天慶2年(939年) 11月から12月の間に、下野国・上野国の国府を次々と占拠していきます。

また、関東で勢力を高めていく平将門を恐れて諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出したため、平将門は、権力の空白が生まれた地域をどんどん吸収し、関東に広くその勢力を広げていきます。また、平将門は、中央の搾取に苦しむ関東の農民達の支持も集めて行きます。

平将門が新皇を名乗る(939年12月)

どんどん勢力を拡大していく平将門は、天慶2年(939年) 12月、八幡大菩薩の巫女の宣託があったとして自らを「新皇」と称し、公然と朝廷・天皇と対抗する意思を示しします(なお、平将門は、朝廷を滅ぼして自らが取って代わるということを目指していたわけではなく、京の朱雀天皇を本天皇と呼ぶなど、朝廷と併存する形で関東に朝廷を設置してそのトップとなろうとしていたものと考えられています。)。

そればかりか、新皇と名乗る平将門は、朝廷とは別の独自の除目を行い、勝手に関東諸国の国司を任命していきます(このときに平将門が任命した国司は、下野守・平将頼、上野守・多治経明、常陸介・藤原玄茂、上総介・興世王、安房守・文屋好立、相模守・平将文、伊豆守・平将武、下総守・平将為でした。)。

平将門は、天慶3年(940年)1月中旬になっても、5000人の兵を動員して常陸国へ出陣し、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索し、平貞盛の妻と源扶の妻は捕らえたもですが平貞盛を捕縛できなかったため、平将門は一旦本拠地である下総国石井へ戻って兵も帰還させます。

鎮圧軍が京を出発(940年1月19日)

朝廷は、源経基から平将門軍が関東一帯の国司を追い出して自らを新しい天皇である新皇と名乗っているということを聞かされ驚愕します(なお、この報告の恩賞として、源経基は従五位下に叙されました。)。

自らを新しい天皇というなど、朝廷から見ると反逆者でしかありません。

メンツをつぶされた朝廷としてはこれを捨て置くことなどできようはずがありません。

同時期に瀬戸内で藤原純友の乱も発生ししたためにその対応に苦慮しつつも、朝廷は、天慶3年(940年)1月19日、参議・藤原忠文を征東大将軍に任じ、平将門鎮圧のための軍を編成し、京を出立させます。

平将門本拠地焼失(940年2月13日)

ところが、京からの藤原忠文軍が到着するのを待たずして、下野国・押領使(いわゆる地方警察)の藤原秀郷が平将門鎮圧に立ち上がり、平将門討伐のために埋伏していた平貞盛と協力して4000人の兵を集め、平将門の本拠地である下総国石井に向かって進軍していきます。

これに対し、平将門は、直前に兵を帰還させてしまっていたため、このとき本拠地には1000人程度の兵しか残っていませんでした。

もっとも、平将門は、ここで兵を再度集めるために藤原秀郷と平貞盛を放置しておけば、彼らに京から向かってくる藤原忠文が加わりさらに状況が悪くなると考えます。

そこで、平将門は、天慶3年(940年)2月1日、手持ちの兵1000人を率いて迎撃に向かいます。

ところが、数に勝る平貞盛と藤原秀郷が率いる平将門鎮圧軍が、まずは藤原玄茂率いる平将門先遣隊を撃破し、そのまま下総国川口へ向かって進みそこでも平将門軍を破ります。

勢いにのる藤原秀郷と平貞盛は、同年2月13日、そのまま平将門の本拠地である下総国石井に攻め寄せ、これを焼き払います。

平将門討死(940年2月14日)

本拠地を失った平将門は、追ってくる捜索隊から逃れつつ諸処を転々としながら反撃に向けて兵を召集しようとしたのですが、落ち延びている平将門に味方する者はほとんどいなかったため、僅か手勢400を率いて幸島郡の北山を背に陣をしき、寡兵のまま藤原秀郷・平貞盛(さらに、その後藤原為憲も加わります。)との最後の決戦の時を迎えることとなりました。

そして、天慶3年(940年)2月14日未申の刻(午後3時ころ)、平将門軍と反平将門軍との戦いが始まり、矢戦が繰り広げられます。

開戦当初は、平将門軍にとっての追い風が吹き荒れていたため、風上からの矢戦を優位に展開した平将門軍が一気に反平将門軍を追い込んでいきます。

ここで矢戦の不利を悟った平貞盛軍が平将門軍に攻撃を仕掛けるも撃退され、反平将門軍から逃亡者が続出し、反平将門軍はわずかに300人余を残すのみとなって戦線を維持することができるかのギリギリの戦いとなります。

ところが、反平将門軍を撃退した平将門が、自軍に戻ろうとして一旦引き上げている途中で、突然風向きが変わり、平将門軍にとっての逆風の状態となります。風向きが変わったことにより反平将門軍の士気も回復し、追い風状態となった反平将門軍はここぞとばかりに反撃に転じます。

一気に形勢が逆転して危機に陥った平将門は、自ら馬を駆って陣頭に立ち、必死に奮戦して戦局を維持しようと努めたのですが、反平将門軍のどこからか放たれた矢に額を貫かれて討死してしまいます。

平将門の乱の後

平将門怨霊伝説

戦いに敗れた平将門は、首級を切られ、胴体は延命院(現在の茨城県坂東市)に埋葬されたのですが、首級は平安京に運ばれ七条河原にさらされました。なお、これが記録上明らかとなっている最初のさらし首です。

なお、恨みを残して死んだ平将門の首は腐ることがなく、首と胴をつないで再度戦いたいと夜な夜な叫び、ついには怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地に落ちたという伝説が残されています。

そして、その首が落ちた場所の一つが、将門の首塚であるとして、現在も将軍塚として供養塚が建っています。

平将門死亡後の関東

平将門の死により、平将門の弟や、興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは次々と誅殺されて行き、平将門が築いた関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解します。

そして、平将門を討ち取った藤原秀郷には従四位下、平貞盛、藤原為憲には従五位下がそれぞれ叙爵されます。

武士の台頭

こうして、平将門の乱は鎮圧され、これを鎮圧した平貞盛が評価を高め、兵士台頭の礎となりました。

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