【明石城(日本100名城58番)】姫路城より巨大な山陽道の城

明石城については、JR明石駅からそびえたつ石垣や櫓が目の前に飛び込んできますので目にしたことがある方が多いのではないでしょうか。建物自体の多くは現存していませんが,明治以降の旧藩士の働きかけや天皇の御料地候補となったことがあったため、多くの曲輪が残されていることも見どころとなっています。

もっとも、明石城は、天守が存在しなかったこと、近くに有名な姫路城があること、合戦経験がないために脚光を浴びることがなかったことなどの理由により知名度はいまいちです。

明石城は、江戸幕府による山陽道上の城郭整備の一環を担う姫路城に並ぶ超重要拠点であり、本来は注目を浴びてしかるべき城でありこの知名度の低さは本意ではありませんので、本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。

明石城築城の経緯

一連の山陽道上の城郭整備

大坂の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家ですが、まだまだ西国には外様の大大名が残っており、これらの対応が必要とされていました。

そこで、2代将軍・徳川秀忠は、山陽道上の城郭整備に着手します。

まずは、元和3年(1617年)、姫路の国について、池田光政が幼少であったために山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に池田家を因幡国・鳥取に転封し、伊勢国・桑名から安祥譜代の本多忠政を入封させて姫路城を整備させます。

さらに、同年、江戸幕府は、東西に山陽道が通り、北は丹波国・但馬国へ、南は淡路国・四国へとつながる交通の要衝であった明石についても、駿河譜代の小笠原忠真を信濃松本藩から国替えして明石に移し、明石藩を誕生させます。

小笠原忠真は、入封当初は現在の明石城の西側の明石川河口西岸にあった船上城に入城しますが、2代将軍・徳川秀忠の指示で、九州・中国・四国の外様大名の備えとして相応の城郭を建築するよう命じられます。

古参の譜代大名を据えて大城郭を守らせるという戦略をとっていることからも、江戸幕府がいかに西国大名を警戒していたかがわかります。

明石城の築城場所選定

小笠原忠真は、明石に入封した後、西国大名の抑えとして適切となるべき新城の場所の選定にあたります。

そして、塩屋町(現在の神戸市垂水区塩屋町周辺)、かにが坂(現在の明石市和坂周辺)と人丸山(現在の明石城の場所)の三カ所を検討したのですが、最終的には北側に大きな池を持ち天然の堀として使える人丸山に決まります。

前記のとおり、明石城は西国の大大名に対する備えの城とされ、明石城が攻められるのは西側の姫路城・赤穂城等が落ちていることが前提となっていますので、明石城の城郭は、これらの城郭(姫路城・約20ha、赤穂城・約10ha)を大きく超える約25haもの城郭面積と高石垣が積まれた堅城とすべく整備されることとなりました。

明石城築城

以上の計画の下、元和5年(1619年)1月、天下普請により明石城の築城工事が始まります。

明石城の主郭部分である本丸・二の丸・東の丸の石垣・土塁・堀などの作事は江戸幕府が担当し、三の丸と町屋は小笠原家と江戸幕府の共同事業として進められました。なお、天下普請により様々な大名が担当して造られていますので、石垣の積み方や石の質が場所によって異なっているのも注目です(現在でも、所々に担当した大名家の刻印も確認できます。)。

明石城の建築には、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられています。なお、細川忠興の書状には、細川忠興から小笠原忠真へ中津城天守を贈ったと記載されておりこの部材も転用もされたと思われます。

そして、元和6年(1620年)1月、小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月ころに一応の完成を見ます。

なお、天守については天守台の台石は積まれましたが天守の建築はなされませんでした。

明石城の縄張り等

明石城は、現在のJR明石北側にある人丸山の頂上付近に築城されているため平山城という括りになります。

北側は鴻の池(剛の池)と自然林・谷筋で守り、西側を明石川を外堀とし、南側は運河を掘って港を兼ねた外堀(現在の明石港)として利用して、惣構のような囲いを造っています。

そして、城と瀬戸内海とに挟まれた平地部分に城下町が設けられ、この城下町内を旧山陽道が通過することとなります。

明石城の主要曲輪としては、本丸を中心として、その東側に二の丸・さらにその東に東の丸を、西側に西曲輪・さらにその西に山里曲輪を、南側に居屋敷と三の丸を配した梯格式平山城となっています。

もっとも、本丸から連なるような曲輪配置となっている点から連格式の要素も持っていますので、連郭梯郭混合式と言えるかもしれません。

では、具体的に明石城の曲輪配置を見ていきましょう。

三の丸・居屋敷

JR明石駅を降りて北上するとすぐに辿りつくのが明石城南側の幅30mほどの大きな堀です。

この堀に架かる橋を渡ると、明石公園正門入り口があり、ここから明石城・三の丸に入ることとなります。

なお、現在の明石公園正門入り口は、当時の大手門ではありません。

現在の明石公園正面入り口は、当時は手前に高麗門(定ノ門)、奥に櫓門(能ノ門)と呼ばれる2つの城門からなる枡形があった場所です。

当時の大手門は、明石公園正門入り口から約300m南にある国道2号線の辺りに存在してたそうです。

三の丸は、庭園や遊技場があった場所で、大名庭園や剣豪・宮本武蔵が小笠原忠政に頼まれて造園したと伝わる武蔵の庭園(上の写真の庭園)と呼ばれる庭園が残っていますが、その他の場所は現在は開けた場所として市民憩いの場となっています。

明石公園正門入り口から三の丸内を真っすぐ北上すると、目の前に本丸・南東角にある巽櫓が見えてきます。この巽櫓は、そのまま高石垣と土塀を従えて約100m西まで連なり本丸南西角にある坤櫓まで続いています。圧巻です。

三の丸を北上し終わると、巽櫓横に階段が見えますので、その階段を上っていきます。

現在は舗装され昇りやすくなっていますが、当時の足場で、櫓等から攻撃を受けながらこの高さを登るのは相当な損害を覚悟する必要があると思われます。

二の丸

階段を登り切って西に行くと二の丸です。

ここか、下を向くと二の丸がいかに高い位置に建っているかがわかります。

東の丸

先ほどの階段を登り切って東に行くと東曲輪です。

東の曲輪は、明石城築城当初は二の丸の一部だったのですが、後に二の丸を分割して、独立の曲輪となったものです。

本丸

二の丸の西はいよいよ本丸です。

本丸には、四隅に巽櫓(たつみやぐら、南東側)、坤櫓(ひつじさるやぐら、南西側)、乾櫓(いぬいやぐら、北西側)、艮櫓(うしとらやぐら、北東側)という三重櫓4基が建てられました。

北側の2棟(北西側の乾櫓と北東側の艮櫓)は残念ながら現在までに失われていますが、南側の2棟(南東側の巽櫓と南西側の坤櫓)は現存し、国の重要文化財に指定されています。なお、明石城には、櫓20基・門27棟あったとされていますが、現存しているのはこの2棟の櫓のみです。

①坤櫓(南西側)

桁行6間、梁間5間、高さ7間2尺9寸の船上城から移築された三重櫓で、入母屋根造で妻部は南北に向いています。

明石城には天守が存在しないため、坤櫓が天守の代用となっています。

②巽櫓(南東側)

桁行5間、梁間4間、高さ7間1寸の三重櫓で、入母屋造で妻部は東西に向いています。

③天守台

天守台の広さは約152坪もの広さがあり、当然ですがその上部は明石城で一番高い位置となります。

天守台のサイズから、明石城には5重規模相当の天守が築かれる予定だったと推測されるのですが、天守は建設されませんでした。

④鴻の池(剛の池)

本丸の北側には、鴻の池と呼ばれる大きな池があり、北側の守りを担っています。

⑤人丸塚

本丸付近には柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、嘉吉の乱で激戦地となった場所でもあります。

西曲輪

現在の西曲輪はうっそうとした森が茂っており、往時の姿をしのぶことはできませんでした。

山里曲輪

寛永6年(1629年)、町割を担当していたとされる剣豪・宮本武蔵が改修したと伝えられる曲輪で、城主の遊興所でもありました。

現在は、陸上競技場として使われています。

城下町の整備と明石城のその後

城下町の整備

築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されています。

廃城までの歴代城主

寛永9年(1632年)、小笠原氏が豊前国へ転封され、その後、松平家(1633年)・大久保家(1639年)・松平家(1649年)・本多家(1679年)と引き継がれた後、天和2年(1682年)から松平家が明石藩と共に明石城を引き継ぎます。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く元文4年(1739年)第2代藩主松平直常により大修築が行われています。

1682年以後明治維新までで10代・189年間親藩として松平家の居城となり、明治7年(1874年)に最後の明石城主・松平直致のときに廃城令により廃城とされます。

明治維新後の明石城

明治31年(1898年)、皇室の御料地編入により宮内省管轄地となります。

大正7年(1918年)4月15日、兵庫県が御料地を借り受け県立明石公園として開園し、現在に至ります。

平成7年(1995年)1月17日、阪神・淡路大震災により石垣が崩れるなどの大きな被害を受け、以降、5年に及ぶ修復工事(2棟の櫓を曳家で移動させ土台や石垣を修復後に櫓を元の位置に戻し、その後に軸組の補正や壁・屋根の修復)を行いました。また、同時に巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀も復元されました。

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