赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある変形輪郭式の海岸平城です。
元和偃武以降に築城された数少ない城であり、当時の最先端軍学に基づきながら強く合戦を意識せず築かれた城であり、江戸時代を通じて赤穂藩(加里屋藩)の藩庁として機能し明治維新を迎えています。
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赤穂城築城
立地
赤穂城は、播磨国西端(現在の兵庫県赤穂市上仮屋)に流れる熊見川(現在の千種川)によって形成された三角州の先端部に築かれた平城です。
現在は城の周囲が埋め立てられているために海岸線から離れているのですが、往時の赤穂城は、東西南を海に面して築かれた海城でもありました。
加里屋城・大鷹城築城(1452年ころ)
播磨国赤穂郡は、かつては同地周辺一帯に大勢力を誇った赤松家の支配下にあり、享徳年間(1452年~1455年)に、赤松一族であった岡豊前守光広が加里屋に「古城(加里屋城・大鷹城)」を築城し入っていたとされています(播州赤穂郡志)。
その後、赤松家の力が衰えると守護代となった浦上家や宇喜多家が間接統治を行った後、戦国時代後期に織田家の中国方面軍として進軍してきた羽柴秀吉に制圧されます。
その後、天正14年(1585年)に6万石を与えらえれた生駒親正が赤穂に入って直接統治を開始しました、文禄4年(1595年)に12万6200石を与えらて讃岐国に転封となると、赤穂は再び宇喜多秀家による間接統治に戻ります。
掻上城築城(1600年)
その後、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦において西軍に与して敗れた宇喜多秀家が改易となり、赤穂の地は大幅な加増を受けて播磨一国の国守となった池田輝政に属することとなり、赤穂の地には池田輝政の弟であった池田長政が入ります。
こうして赤穂に入った池田長政は、赤穂郡加里屋の地に赤穂城の前身となる「掻上城」を築城したのですが(絵図や発掘調査から掻上城が赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっています。)、掻上城自体は赤穂城ほどの規模はありませんでした。
その後、正保2年(1645年)に起こった池田輝興が正室を殺害するという正保赤穂事件により掻上城は水谷勝隆(備中松山藩)の一時預かりとなった後、同年に浅野長直が5万3000石を与えらえて赤穂に入封します。
赤穂城築城開始(1648年)
赤穂に入封した浅野長直は、正保3年(1646年)に甲州流兵学者であった近藤正純に赤穂城の縄張りを作成させた上で、慶安元年(1648年)6月17日に築城願を幕府へ提出して許可を得て同年に築城に着手します。
その後、承応元年(1652年)に軍学者の山鹿素行を招いた上で助言を得て二の丸周辺の縄張りを変更するなどしながら築城工事を進めていきます。
赤穂城完成(1661年)
そして、築城開始から13年後の寛文元年(1661年)、ついに10の隅櫓・門が12基・曲輪総延長2847mを擁する赤穂城が完成し、以降、赤穂藩の政庁として使用されることとなります。
この赤穂城は、立地だけを考えると、西国・九州の外様大名が大坂や京を目指して山陽道を上って来た際の最初の防衛拠点として機能する重要拠点であり、赤穂城→姫路城→明石城→尼崎城という順に西国支配の拠点である大坂城へと続く防衛網の最前線です。
そのため、櫓台状の突出部・横矢枡形を多用した強力な防衛力を有するように設計されており、5万3000石という小大名には不釣り合いな城となっています。
もっとも、元和偃武の後に築城の始まった城郭であるため、西国の大名の進軍を防ぐために大軍を入れるということまでの想定はなされていません。
そのため、関ヶ原の戦いに豊臣家に対抗するために整備された姫路城(約20ha)・明石城(約25ha)・尼崎城(約13ha)と比べると小さく、赤穂城は広さ約10ha程度のコンパクトな造りとなっています。
赤穂城の縄張り
赤穂城は、本丸を中心としてその周囲を二の丸が取り囲む「輪郭式」構造となっています。
曲輪の総延長は2847m、面積は6万3711㎡であり、主要曲輪である本丸・二の丸部を東側・西側・南側を瀬戸内海で防衛し、陸続きとなっているために防御力の劣る北側には三の丸が配置するという「梯郭式」構造となっています(現在は海岸線から離れていますが築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいました)。
以上の造りから、赤穂城は、変形輪郭式の海岸平城に分類されます。
また、本丸・二の丸・三の丸という各曲輪には、稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられ、十字砲火を可能とするために高度な軍学的設計が用いられています。
そして、陸続きとなっている北側に城下が開かれています。
なお、現在の内曲輪の縄張図は以下のとおりです(上の模型や図面とは南北が逆になっていますので注意してください。)
外堀
外堀は、海や川での防衛がなされていない赤穂城のウィークポイントとなっている北側を防衛するため、三の丸の外側(北側)に沿って張り巡らされた堀です。
三の丸
① 太鼓橋
前記のとおり、東西南を海で守られた赤穂城に対して大軍をもって攻撃を加えるためには、北側から攻撃する必要があります。
このとき、北側から攻撃する軍の最初の関門となるのが三の丸への進入です。
そして、三の丸を進入するためには、三の丸大手門を突破しなければならず、そのためには大手門に繋がる外堀(昭和10年/1935年復元)に架かる橋を渡らなければなりません。
この三の丸大手門に入るために渡るべき橋が太鼓橋です。
三の丸は、この太鼓橋、その先の大手門・内桝形を突破する敵兵を、周囲の土塀や大手隅櫓から攻撃することにより防衛する構造となっています。
なお、現在の太鼓橋は、昭和10年(1935年)に建築されたものです。
② 大手門(高麗門)
三の丸に入るための最初の関門となるのが高麗門構造となっている三の丸大手門です。
往時の大手門は明治初期に取り壊されており、現在の大手門は、昭和30年(1955年)に大手隅櫓とともに建築されたものです。
③ 内桝形
大手門を突破して三の丸に入ると、すぐに右に折れ曲がる構造となっており、内枡形を構成しています。
この枡形は、十字砲火を受ける場所であるため攻撃側の損害が激しい場所となります。
④ 番所
三の丸大手門は、平時は城域への出入口となりますので、出入者の確認兼門番足軽3名・下番2名の詰所となる番所が設けられていました。なお、現在は番所跡に案内所となる模擬番所が建てられています。
⑤ 三の丸大手隅櫓
大手(高麗門)隅櫓は、大手門が破られる前は大手門に取り付いた敵を、大手門が突破された後は桝形内にいる敵を攻撃するための櫓です。
現在の隅櫓は、昭和30年(1955年)に三の丸大手門近くにあった隅櫓を模して建築されたものですが、明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる構造となっています。
⑥ 北横矢
⑦ 塩屋門
塩屋門は、赤穂城三の丸の西側に設けられた高麗門1門からなる間口4m・建築面積約16.5㎡の搦手門であり、内桝形構造となっていました。なお、門正面には高さ約4.5mの桝形石垣が、左手には雁木が配されていました。
桝形内には番所と太鼓櫓が設置されていました。
⑧ 三の丸西隅櫓台
三の丸西隅櫓は、塩屋門を守る基底部東西約6.9m・南北約8.8mの大きさの二重の隅櫓であり、1層目には唐破風出窓を備えていました(なお、三の丸西隅櫓台は、上の塩屋門の写真の右奥にある建物です。)。
⑨ 清水門(川口門)
清水門は、三の丸東に設けられた幅2間2歩・奥行7尺7寸・建坪4坪の門です。
門の南側土塁と二の丸東北隅櫓との間の二の丸堀には6間1尺5寸の柵が設けられていました。
なお、大石内蔵助が、浅野家改易により元禄14年(1701年)4月19日に赤穂城を江戸幕府に明け渡し赤穂城を退去する際に通った門であることでも知られています。
⓾ 三の丸東隅櫓台
⑪ 干潟門
⑫ 三の丸西南隅櫓台
⑬ 赤穂大石神社
赤穂大石神社は、大正元年(1912年)に赤穂事件において討ち入りを果たした大石良雄ら赤穂浪士(赤穂義士)を祀るために創建された大石神社を前身とし、平成12年(2000年)、赤穂神社・大石神社・稲荷神社・恵比寿社などとの合祀により新たに創祀された神社です。
なお、境内の通りに面した場所に長屋門が残っており、この門は、赤穂事件の直後に江戸から事件を知らせる早駕籠が着いた門として知られています。
二の丸(北半分・侍屋敷等)
赤穂城二の丸は、本丸周囲を取り囲む総面積は1万7259坪の輪郭式の曲輪です。
二の丸石垣には複雑な折れが多用され、計5棟の櫓と数十mごとの横矢掛で防衛する構造となっています(なお、赤穂城の二の丸は、築城工事中であった承応元年(1652年)に軍学者の山鹿素行の助言を受けその縄張りを一部変更して完成しています。)。
赤穂城二の丸は、東西に仕切りを設けて南北に二分され、北半分は侍屋敷として利用されていたのですが、二の丸北西部は赤穂藩浅野家の筆頭家老であった大石家の屋敷が設けられ、また大規模な池泉を備えた庭園(二の丸庭園)が設けられていました。
また、南半分は米蔵・馬場・作事小屋などの藩の公的スペースとして利用され、特に南端には海城である赤穂城らしく船着場と水手門が設けられていました。
① 二の丸門
二の丸門は、その名のとおり二の丸の入り口に配置されていた門です。三の丸を突破してきた敵兵が対面する構造です。
二の丸門の虎口は、やや南寄りの西方に開かれた桝形構造を持つ切妻式櫓門(桁行4間半・梁行2間・口幅3間1歩・高さ2間・建坪9坪)が設けられていました。
文久2年(1862年)に、二の丸門付近で家老の森主税が藩改革を唱える藩士達に暗殺され、後の明治4年(1871年)に起こった日本最後の集団仇討ちである高野の復讐の発端となる文久事件が起こった場所でもあります。
二の丸門東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣や土塁は、明治25年(1892年)に発生した千種川の洪水の際の災害復旧と流路変更の礎石として使用されるために取り壊されて失われています。
② 西中門
西中門は、干潟門から三の丸西側に入った後、そのまま西側から二の丸に入る際に通る門です。
③ 二の丸東北隅櫓台
④ 二の丸東隅櫓台
⑤ 二の丸東櫓台
⑥ 二の丸庭園
二の丸庭園は、二の丸の約4分の1を占める、二の丸北西部にある大石頼母助屋敷南面から二之丸西仕切門まで広がる池泉を中心とした広大な回遊式大名庭園です。
現在もなお整備が続けられており、平成14年(2002年)に本丸庭園と共に「旧赤穂城庭園」として国の名勝に指定されています。
また、平成28年(2016年)から部分公開が始まっています。
⑦ 米蔵跡(赤穂市歴史博物館)
清水門の門前には、熊見川沿いに米蔵・薬煙場・番所などが設けられていました。
昭和60年(1985年)の発掘調査の後、米蔵跡には赤穂市歴史博物館が建てられています。
二の丸(南半分・藩の公的スペース)
二の丸中央部の東西に設けられた仕切門により区切られた南側のスペースは、主に赤穂藩の藩政のために利用された公的スペースとなっていました。
① 西仕切門
西仕切門は、二の丸を南北に区分するために設けられた低い石垣と土塀による城壁に築かれた小門です。
控柱付の棟門であり、合戦の際に扉の縦格子から外の様子をうかがうために門扉の一部に横板を貼らない構造であったことがわかっています。
現在の西仕切門は、平成22年(2009年)に復元されたものです。
② 東仕切門
東仕切門は、二の丸を南北にに区分するために設けられた小門です。
平成26年(2014年)の発掘調査の際にその位置が特定されました。
③ 水手門
赤穂城は、東に熊見川(現在の千種川)が流れ、南は満潮時には海水に浸かるヨシ原が広がる干潟となっていたため、この水運を利用するために築かれた門が二の丸南端に位置する水手門です。
水手門の前には、船を停泊させるための船着場の雁木や波除の突堤(波止場)などが設けられていました。
④ 潮見櫓台
潮見櫓は、二の丸東南端に設けられた二重櫓です。
水手門防衛と共に、海上監視の任を担っていました。
⑤ 南沖櫓台
⑥ 米蔵
米蔵は、水手門から荷揚げされた米などの物資を収めるために設けられていた蔵です。
本丸
赤穂城本丸は、赤穂城の最重要曲輪です。
本丸は、城域面積の約4分の1にあたる約1万5114㎡の広さがあり、内堀(昭和28年/1953年復元)と大部分を打込接の石垣・土塁で覆われており、二の丸とは本丸門(北側)・刎橋門(南側)・厩口門(東側)の3つの門で行き来する構造となっていました。
本丸の西北・東北・南西には隅櫓が、南・東に横矢桝形が、南東部には天守台が築かれました。
本丸内部に入ると、その中央には藩主屋敷である本丸御殿、その南側には大池泉を含む本丸庭園が広がっていました。
なお、廃藩置県後に本丸跡地は田畑となったのですが、昭和3年(1928年)に兵庫県立赤穂中学校(現在の赤穂高等学校)校舎が竣工し、使用されることとなりました。
その後、昭和46年(1971年)に国の史跡となったため、昭和56年(1981年)に校舎が城外に移転することとなり、翌年から本丸跡の発掘調査と整備が始まり、本丸内の旧上水道関連遺構・池泉が検出され、また絵図を基に御殿の間取り復元(平面復元)が行われ、さらにその後も本丸門・厩口門などの建造物の復元が進められています。
① 本丸門・本丸桝形
本丸門は、その名のとおり本丸の入り口に配置されていた門であり、赤穂城築城と同時に築かれた門であったと推定されています。
内側の一の門(櫓門)と外側の二の門(高麗門)を設けた多門構造であり、周囲に張り巡らした土塀と門の間の中道によって桝形を構成していました。
外側にある二の門は、木造小戸付高麗門・切妻造・本瓦葺構造であり、桁行3.89m・梁間2.49m・軒高4.62mでした。
また、内側にある一の門は、木造脇戸付櫓門・入母屋造・2階建・本瓦葺・棟高10.98mの構造であり、上階は桁行13.36m・梁間4.77m・軒高7.70m、下階は桁行8.83m・梁間4.14m・軒高4.78mでした。
本丸門は、明治10年代の後半頃に取り壊されたのですが、明治4年文化庁の地域中核史跡等特別事業として国と兵庫県の補助により復元工事が開始され、発掘調査や絵図などを参考にして平成8年(1996年)に復元されています。
② 刎橋門
③ 厩口門(台所門)
厩口門は、二の丸から本丸東側に入る門であり、木造高麗門形式・切妻造・本瓦葺構造であり、桁行3.85m・梁間2.73m・軒高4.66m・棟高6.13mでした。
浅野家時代には「厩口門」と呼ばれていたのですが、森家時代には「台所門」と呼ばれました。
廃城後に失われ、昭和56年(1981年)まで兵庫県立赤穂高等学校の通用門として使われていたのですが、明治4年文化庁の地域中核史跡等特別事業として国と兵庫県の補助により復元工事が開始され、発掘調査や絵図などを参考にして平成13年(2001年)に復元されています。
⑤ 本丸御殿跡
赤穂城本丸には、本丸内の3分の1以上を占める大きさを擁する赤穂藩の政庁兼藩主の館である本丸御殿があり、公務を行う「表」、藩主の居館であった「中奥」、藩主の家族・側室・女中らの生活場所である「奥」によって構成されていました。
また、御殿の周囲は庭園となっており、発掘調査の結果に基づき、表御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉などの景観が再現されています。
⑥ 西北隅櫓
⑦ 東北隅櫓
⑧ 天守台
赤穂城には5層天守の造営が計画され、本丸に高さ9mの天守台が築かれたのですが、理由は不明ですが(幕府への遠慮?財政難?)江戸時代を通じて最後まで天守が築かれることはありませんでした。
城下町
南側一帯を瀬戸内海で占められている赤穂城では、城下町は北側に発展していきました。
そして、赤穂城の東側を流れる現在よりも川幅が広かった熊見川(現在の千種川)を挟み、その東西に町屋が連なっていきました。
このことから、赤穂城下町が熊見川河口を起点とする河川海上交通の拠点だったことがわかります。
また、熊見川沿いには赤穂藩の船入が置かれていました(元禄期頃の絵図「播州赤穂城下図」には東西100m南北60mの「御船入」が描かれています。)。
もっとも、池田家において整備され浅野家において大拡張された5万石規模だった赤穂城下町でしたが、宝永3年(1706年)に2万石の森家が入ると、石高は家臣団が減少したこともあって侍屋敷の一部が放棄され、また船入の一部が埋め立てられられて田畑になるなどして規模の縮小が見られています。
上水道
赤穂城は海岸に近く標高が約1mと低いため堀の水や井戸水には海水が混じり、井戸や河川の水を飲用にするには適しませんでした。
そこで、赤穂の地では、慶長19年(1614年)に熊見川を利用した上水道の敷設が計画・着工され、元和2年(1616年)に熊見川(現・千種川)の上流に井関を設け、取水トンネル(切山隧道)と水路による上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水が開始されます。
これらの水路は「旧赤穂上水道」として日本三大上水道の1つに数えられ、その遺構は整備保存されて観光スポットとして公開されています。
赤穂城廃城
浅野家改易(1701年)
赤穂藩主として赤穂城を治めていた浅野家でしたが、元禄14年(1701年)に江戸城内で浅野長矩が吉良義央に斬りつけるという刃傷事件を起こしてと浅野家が改易するとなります。
そこで、同年4月19日、家老である大石内蔵助らによって江戸幕府に対する赤穂城の明け渡しが行われたのですが、明け渡しに際して幕府になされた報告によると赤穂城内には長槍50本、火縄銃50丁・銃弾2000発、弓500張・矢2000本、足軽用具足100領、門番用具足200領があったと記録されています。
なお、この浅野家改易と吉良義央に対するお咎めなしという処分を不服とした浅野家家臣により、翌元禄15年(1702年)、吉良邸討ち入りが起こっています(元禄赤穂事件)。
浅野家改易の後、播磨龍野藩主・脇坂安照が赤穂城を預かることとなったのですが、同年6月24日、脇坂家でも脇坂安照の在番中に家老・脇坂民部の目代が死傷者を出す刃傷事件を起こします(脇坂赤穂事件)。
そこで、翌元禄15年(1702年)、永井直敬が3万3000石で入封しましたが、宝永3年(1706年)に信濃国飯山藩へ転封となりました。
森家入封(1706年)
そこで、宝永3年(1706年)、森長直が備中国西江原藩より2万石で赤穂藩入封となります。
その後、安政4年(1857年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、文久2年(1862年)に、二の丸門付近で家老の森主税が藩改革を唱える藩士達に暗殺されるなどの事件もありましたが、この森家が廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として在封し明治維新を迎えます。
赤穂城廃城(1873年)
明治維新後の明治4年(1871年)、廃藩置県により赤穂藩が赤穂県となり、また廃城令発布(1873年)を受けて赤穂城も廃城となります。
そして、明治9年(1876年)に飾磨県権県令によって城売却の入札が行われ、民間への払い下げがなされて城内の建物が次々に取り壊されて田畑となっていきました。
また、明治25年(1892年)に千種川の洪水がに発生すると、災害復旧と川のつけかえ(流路変更)のため、二之丸門から清水門までの石垣の石を転用して護岸を築くなどの工事が行われたため、城郭の石垣は破壊も進みました。
その後、三の丸内に大石神社が創建され、また本丸跡などに旧制県立中学校をはじめとする公共施設が建築されていきました。
もっとも、その後は赤穂城の歴史的価値が再認識され、現在は発掘調査が繰り返され、それによって得られた調査結果と絵図などの記録を基に復元作業が続けられています。