【尼崎城】徳川大坂城支城群の西側最終防衛拠点

尼崎城の存在をご存じですか。

現存していないこと、豊臣家が滅亡した後に築かれたために戦場となったことがないことなどから知名度がイマイチの感がありますが、徳川大坂城の支城としてその西側の最後の防衛拠点であり、尼崎藩の石高にそぐわない防御力を誇る城郭として君臨していた巨城です。

近年外観復興天守が再建され、これが阪神尼崎駅から見えるようになりましたので興味を惹かれた方もおられるのではないでしょうか(もっとも、この外観復興天守は、元々の天守跡地ではなく西三の丸跡地に建てられています。)。

尼崎城は、江戸幕府による大坂城の西側の最終防衛拠点という超重要な城であり本来は注目を浴びてしかるべき城であり、この知名度の低さは本意ではありませんので本稿で簡単にその位置づけから説明したいと思います。

尼崎城築城の経緯

尼崎城築城の必要性とその立地

徳川家は、大坂の陣により豊臣家を滅ぼしたのですが、この時点ではまだまだ西国に豊臣恩顧の外様大名たちが多数存在している状況でした。

そのため、徳川家としては、西国から攻めあがってくる外様大名から江戸幕府を守るため、大坂を直轄地として西国支配の要とし、その周囲に支城群を整備していきます。

具体的には、既に存在した姫路城・岸和田城高槻城・淀城などを修築させ、また明石城と尼崎城を新たに築くこととして、これらの城に譜代大名を入れて防衛させることとします。

そして、このときに徳川大坂城の最後の守りと決められたのが大坂のすぐ西に位置する尼崎でした。

尼崎城は、西国大名が西から攻め上ってくるのを防ぐための城として計画されましたので、大坂と西宮とを結ぶ中国街道上に配置され、中世から湊町として発展していた尼崎町を城下町に取り込む形で、当時の幹線道路であった中国街道上の大物川(現在は埋め立てられています)と庄下川との間のデルタ地帯に築かれることとなりました。

尼崎城築城

そして、徳川家は、元和元年(1615年)に譜代大名である戸田氏鉄(とだうじかね)を摂津国川辺・武庫・莵原・八部の4郡(神崎村から西須磨村まで)5万石へ入封させて尼崎藩主として尼崎城の築城を命じ、元和3年(1618年)ころから数年の歳月をかけて築造されました。

前記のとおり、尼崎城が大物川と庄下川のデルタ地帯に築かれたため、同城はこれらの川を外堀として利用し、またこれらの川の水運を利用して尼崎城に直接船が横付けできる海城のような構造となっていました。

当時の尼崎城の内曲輪の位置関係を現在の地図に合わせると、大体上のようなイメージです。

尼崎城歴代城主

尼崎城は、戸田氏・青山氏4代・(櫻井)松平氏7代と、計12人に亘って代々譜代大名が藩主を務める尼崎藩政の中心となり、約250年の間、尼崎藩の藩庁として使用されました。

そして、その使用された長い年月の間に、修復工事が行われるなど城を保つ努力が繰り返し行われていたことがわかっています。

尼崎城の縄張り等

尼崎城は、庄下川を西・南外堀、大物川を北・東外堀とする3重の堀を巡らし、その中に本丸を中心とする時計回りの渦巻き状に二の丸・三の丸を配置した渦郭式平城であり、三の丸は二の丸の東西に1つずつ配置され(東三の丸・西三の丸)、また二の丸は、本丸の南側(南浜)・東側(松の丸)・北西側に1つずつ計3つ配置されています。

このころは一国一城令により各地の城郭を破却する政策が推し進められていたのですが、その政策に反して尼崎に約300m四方(阪神甲子園球場の約3.5倍)もの広さと、3重の堀と4層の天守を擁する巨大城郭という5万石の大名の居城としては大きすぎる城をあえて造らせていることから、江戸幕府がいかに尼崎を重要視していたかがわかります。

そして、この尼崎城を取り囲む形で城下町が形成され、東本町の北側に大物村の比較的規模の大きい集落が隣接し、西本町の北側の別所村領内には寺町が形成されています。

三の丸

三の丸は、東三の丸と西三の丸に分かれて二の丸の東西に設置された曲輪で、主に、家老に次ぐ上級家臣たちの屋敷が並んでいました(なお、これらの家臣たちより下のランクの武士の屋敷は城の周辺や城下西側に設けられた東・西の武家屋敷などに配されています。)。

二の丸

(1)二の丸(南浜)

二の丸・南浜は、尼崎藩の家老衆の屋敷が立ち並んでいました。

特に、(櫻井)松平氏藩主時代には、尼崎藩の家老5名の屋敷が並んでいたことから、これらの家老屋敷が「五軒屋敷」などと呼ばれていました。

また、その他、「作事小屋」、「鍛治蔵」、「すさ蔵」、「畳蔵」などがまとめられ、城内の建物や調度類の修繕を行うための道具や材料を保管する場所としても使われていました。

(2)二の丸(松之丸)

二の丸・松之丸には、鉄砲や弓の練習施設である「的場(まとば)」、火薬を貯蔵する「煙硝蔵」などが配されていました。

(3)二の丸

北西側の二の丸には、二の丸御殿をはじめ、米を貯蔵する「御城米蔵(ごじょうまいぐら)」、米蔵を警備する「御城米番所(ごじょうまいばんしょ)」、厩(うまや)などが配されていました。

本丸

本丸は、尼崎城の城の中心に位置する1辺約115m四方のほぼ正方形の曲輪です。

言わずと知れた、尼崎城の最重要曲輪です。

本丸虎口は、南・東・西に開かれ、北東隅に天守を、その他の3つ隅にそれぞれ三重櫓を配置し、大手方面(南側)はそれらを多聞櫓で繋いでいました。

また、本丸中心部には本丸御殿が配置され、藩の政務をつかさどる場所としても利用されています。

(1)虎口

尼崎城本丸虎口は、東に虎之門、南に太鼓門、西に搦手門という、いずれも内桝形構造となっている3つが設けられていました。

(2)3つの三重隅櫓

前記のとおり天守が配置された北東隅の他、残る3隅には、三重櫓が1棟ずつ建てられ、大手方面は多聞櫓を廻らせていました。

東南隅は武具櫓、西南隅は角櫓(伏見櫓)、西北隅は塩嘈櫓と呼ばれ、いずれも3重で2重目屋根に唐破風、切妻破風、千鳥破風を付けていたようです。

(3)本丸御殿

本丸御殿は、本丸の中央部にある、藩主の住居・尼崎藩の藩庁・重要儀式の場・迎賓館としての役割を備え、戦時には指揮所となる尼崎藩の重要施設です。

本丸御殿の構造としては、大書院を中心として、台所や居間、式台、金之間など複数の建物を繋げて構成されていました。なお、北東部に身分の高い客人をもてなすための「牡丹之間(ぼたんのま)」「菊之間(きくのま)」という専用の湯殿と茶室を備えた貴賓室が設けられ、両部屋の四方には、金襖・金障子が用いられたことから「金之間(きんのま)」と呼ばれていました。

この本丸御殿は、弘化3年(1846年)1月28日午前8時ころ、本丸女中部屋付近で発生した出火により同日全焼したのですが、領民の協力などもあって、同年7月には再築工事に着工し、翌年の弘化4年(1847年)1月28日の上棟式を経て同年6月28日に再築建物が完成しています(尼崎城本丸平面図)。

なお、この本丸御殿も、明治6年(1873年)の尼崎城廃城に際して解体され、わずかに本丸御殿の貴賓室であった「金之間」だけが尼崎市大物町にある深正院に移築され本堂として使われていたのですが、これも戦災にて消失し現存していません。

天守

尼崎城の天守は、本丸北東角部に築かれた4層4階の大天守に、西側と南側に付櫓として寅卯二重渡櫓と二重渡櫓が付属する複合式天守でした。

大天守は、約12mの天守台石垣の上に建てられた層塔型構造であり、白漆喰総塗籠で2重目から4重目に唐破風・千鳥破風・切妻破風などの屋根飾りをつけるなど装飾的な意匠が凝らされていました。

その規模は、東西(桁行)10間5尺4寸(約21m)、南北(梁間)8間3尺(約17m)、天守台上から棟までの高さは55尺3寸(約16.8m)でした。

城下町

尼崎城の築城工事と同時に城下町の整備も開始され、多いときには2万人近い人々が暮らす阪神間随一の城下町として大いに栄えました。

寺町は、周辺に散在していた寺院を集めてできた町であり、瓦葺の大きな建物を配置することで城下西部の守りも担っていました。

尼崎城廃城

尼崎城廃城(1873年)

明治6年(1873年)に、明治政府が陸軍省の所管であった全国の城郭のうち、軍用として残すもの以外のものを大蔵省に所管換えし、それらを処分すべきものとしました。

これにより尼崎城も大蔵省所管となり、廃城が決まると間もなく次々と建物が取り壊されていきました。

そして、明治7年(1874年)に民間に払い下げられた結果、城地は官公庁舎・学校用地などに転用され、堀は埋められ、本丸石垣は尼崎港修築のために防波堤の石材として利用されるなどしたため、現在では尼崎城の遺構はほぼ全て失われています。

外観復興天守の再建(2018年)

家電量販店・旧ミドリ電化(現エディオン傘下)創業者である安保詮が、創業の地への恩返しとして10億円以上の私財を投じて尼崎城・西三の丸跡地を尼崎城址公園として整備してそこに石垣・土塀が模擬復元され、さらに平成30年(2018年)に外観復元天守が建築されました。

なお、この外観復興天守は、大きさや外観は当時の建物を再現しているのですが、天守跡地周辺には既に多くの建築物があるために同じ場所に再建することができず、やむなくかつての天守から北西約300m離れた場所(西三之丸跡地)に建てられています。

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