【第38代・天智天皇(中大兄皇子)】政敵を次々に粛清した謀略家

飛鳥時代を代表する天皇といって真っ先に名が挙がるのは天智天皇(中大兄皇子)だと思います。

皇子時代に天皇の面前で蘇我入鹿を暗殺するという大胆なクーデターを成功させたり、対抗勢力を闇に葬っていったりするなど、権謀術数を駆使して権力の頂点を維持し続けた人物です。

天皇在位中には、唐・新羅連合軍に敗退して国家存亡の危機にまで陥りながら、巧みにこれを回避するなど、その経歴を挙げだすと大河ドラマが完成するほどのボリュームがあります。

本稿では、そんな天智天皇(中大兄皇子)の人生について、できる限り簡単に紹介していきたいと思います。

中大兄皇子の出自

出生(626年)

天智天皇は、父・田村皇子(後の舒明天皇)の第二皇子として誕生します。

母は、寶皇女(後の皇極天皇・重祚後は斉明天皇)であり、諱は葛城(かづらき・かつらぎ)、即位前の名は葛城皇子といいましたが、通称の中大兄皇子の名の方が圧倒的に有名です。

中大兄皇子には、異母兄弟姉妹としては古人大兄皇子がおり、同皇子が皇位を継ぐ者とされたため、葛城皇子は中大兄皇子と称されたのです(「大兄」が皇位承継資格のある長男が名乗る名で、「中大兄」はそれに次ぐ者が名乗る名でした。)。

なお、中大兄皇子には、同母兄弟姉妹として、大海人皇子や間人皇女らがいます。

中大兄皇子は、小野妹子らと共に遣隋使として隋に留学した南淵請安に師事し、最先端の政治・経済・軍事制度を学びながら成長していきます。また、偶然ですが、後の寵臣・中臣鎌足も同じく南淵請安に師事する学友でした。

第34代・舒明天皇即位(629年1月4日)

推古天皇36年(628年)3月7日、推古天皇が死去し、山背大兄王(厩戸皇子の子)と田村皇子(中大兄皇子の父・蘇我蝦夷の姉妹の夫)とが次期天皇の座を巡って争ったのですが、この争いに、蘇我蝦夷が介入し、田村皇子に加担します。

なお、蘇我蝦夷が田村皇子に加担した理由は、権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説や、他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がありますが、正確なところはわかりません。

蘇我氏の力により皇位継承者争いに田村皇子が勝利すると、その立役者となった蘇我蝦夷の権勢がさらに高まります。

こうなると蘇我氏に対抗できる勢力はなくなります。天皇てますら蘇我氏の軍門に下ります。

舒明天皇元年(629年)1月4日、田村皇子が、第34代天皇として即位し舒明天皇となったのですが、政権の実権は蘇我蝦夷が握るようになり、大和朝廷が蘇我氏の傀儡政権となります。

第35代・皇極天皇即位(642年1月15日)

その後、舒明天皇13年(641年)10月9日、 舒明天皇が崩御したのですが、ここで蘇我入鹿が、蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、皇極天皇元年(642年)1月15日、その中継ぎとして舒明天皇の妻である寶皇女を皇極天皇(第35代天皇)として即位させます。

そして、蘇我入鹿はさらに暴走し、皇極天皇2年(643年)11月1日、次期天皇候補である古人大兄皇子擁立の邪魔になると判断し、巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる暴挙に出ます。

山背大兄王は、斑鳩宮を脱出して斑鳩寺に入ったのですが、同年11月11日、逃げきれないと悟り、妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家が途絶えます。

こうして皇族まで手をかけていく蘇我氏の横暴は極まっていきます。

反蘇我氏勢力の暗躍

政権内での蘇我氏の横暴を見かねた豪族達は、次第に蘇我氏に対する悪感情を高めていきます。

この反蘇我氏勢力の1人が中臣鎌足でした。

中臣鎌足は、密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、神輿として擁立すべき皇子を探します。

このとき中臣鎌足が目をつけたのが中大兄皇子であり、軽皇子(後の孝徳天皇)を通じて中大兄皇子に接近します(この中臣鎌足と中大兄皇子とが結びついたときの話としては、飛鳥寺で蹴鞠をしていた中大兄皇子の靴が脱げ、それを中臣鎌足が届けたことがきっかけであるという逸話が有名です。)。

また、中臣鎌足は、蘇我氏内部の対立に乗じ、一族で閑職に追いやられていた蘇我倉山田石川麻呂をも味方に引き入れます。

皇太子になって権力を掌握する

蘇我入鹿暗殺計画

こうして、中臣鎌足・中大兄皇子・蘇我倉山田石川麻呂らで、反蘇我氏のクーデター計画が練られていきます(軽皇子の関与の程度は不明)。具体的には、蘇我入鹿暗殺計画です。

この話し合いは、中大兄皇子と中臣鎌足が、南淵請安から学んだ帰り道に山の中で行われたとされており、そのときの山を談山(かたらいやま)といい、現在談山神社が建てられています。

そして、中大兄皇子と中臣鎌足は、皇極天皇4年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日したところ、三国の調の儀式は朝廷で行われることから大臣である蘇我入鹿も必ず出席することとなるため、その機に蘇我入鹿を暗殺することと決めます(なお、大織冠伝によると三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされているようです。)。

乙巳の変(645年6月12日)

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、三国の調の儀式が行われることとなり、皇極天皇が大極殿に出御、古人大兄皇子が側に侍し、蘇我入鹿も入朝します。

このときの計画は、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が蘇我入鹿を斬る役に任じられていたのですが、儀式が始まり蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始めても、実行役の2人は恐怖のあまりに吐き出すありさまで埒があきませんでした。

なかなか計画が実行されないことに焦りだした蘇我倉山田石川麻呂は、全身汗にまみれ・声が乱れ・手が震え、明らかに挙動不審となっていきます。

これを不審に思った蘇我入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、蘇我倉山田石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えるも、何らかの違和感が隠し切れなくなります。

もはや佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の襲撃を待てないと判断した中大兄皇子は、自ら剣を抜いて蘇我入鹿の頭と肩を斬りつけます。

蘇我入鹿は、天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言ったのですが、中大兄皇子が入鹿は皇族を滅ぼして皇位を奪おうとしましたと答えると、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いていきます。

その後、蘇我入鹿は斬り殺され、蘇我入鹿の死体は庭に投げ出されて、乙巳の変が終わります。

蘇我宗家滅亡(645年6月13日)

蘇我入鹿の死により、これを後ろ盾としていた古人大兄皇子も私宮へ逃げ帰ります。

中大兄皇子は、蘇我入鹿を討ち取った後、その死体を蘇我蝦夷の下へ送り届けさせ、自身は直ちに法興寺へ入り戦備を固めます。

このとき、諸皇子・諸豪族が中大兄皇子に従うこととなった一方で、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまいました。

こうなると、蘇我氏方には反撃する力はありません。

蘇我蝦夷が、翌日の同年6月13日、舘に火を放って自殺し、長年に亘って権力をほしいままにした蘇我本宗家が滅びます。

この蘇我宗家の滅亡により、大和朝廷内の勢力図が一気に塗り替わります。

大化の改新

(1)為政者の一新(第36代・孝徳天皇即位に伴い皇太子となる)

乙巳の変を目の前に見た皇極天皇が退位したことにより次の天皇を決める必要に迫られたのですが、その最有力候補となった中大兄皇子が皇位につくことはできません。

ここで皇位についてしまったら、天皇になりたいがために蘇我氏を滅亡させたとの非難を浴び、豪族たちの反発を生みかねないからです。

この点、皇極天皇退位が退位するのであれば本来は皇太子であった古人大兄皇子が皇位を継ぐはずだったのですが、中大兄皇子に暗殺される危険を感じた古人大兄皇子は一旦私宮に逃げ帰った後、出家して吉野へ隠退していますので、古人大兄皇子が皇位を継ぐこともできません。そこで、中大兄皇子は、孝徳天皇元年(645年)6月14日、中継ぎの天皇として皇極天皇の同母弟である軽皇子を第36代・孝徳天皇として即位させ、自らは皇太子となって次代の即位を待つこととします。

(2)新政権発足

こうして新政権が発足し、天皇が孝徳天皇、皇太子が中大兄皇子という政治体制が始まります。

ここで、それまでの大臣・大連を廃止し、新たに左大臣・右右大臣・内臣を置き、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣とする論功人事を行います。その上で、隋・唐に留学した高向玄理と旻を国博士に任命し、中大兄皇子の政治顧問とします。

中大兄皇子は、この政治体制で、唐の律令制度を模した天皇中心の中央集権家国家を目指します。

(3)元号の制定(645年6月19日)

また、中国の制度をまねて元号制度を採用し、大化元年(645年)6月19日、「大化」を大和朝廷初の元号と定めます。

中大兄皇子の政治改革が、「大化」元年に始まったことから、後年に中大兄皇子の政治改革を「大化の改新」と呼ぶようになっています。

(4)古人大兄皇子を処刑(645年9月12日)

乙巳の変で後ろ盾を失った古人大兄皇子は、出家して吉野へ隠退していたのですが、中大兄皇子としては、後に皇位継承を主張してくる可能性を排除するため、大化元年(645年)9月12日に殺害します。

(5)難波長柄豊碕宮へ遷都(645年12月)

中大兄皇子は、蘇我氏の権力基盤の飛鳥を離れるため、大化元年(645年)12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)へ遷都します。なお、難波長柄豊碕宮自体の完成は652年となっています。

(6)改新の詔(646年)

その上で、大化2年(646年)春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布されます。

改新の詔は、大きく分けると、①公地公民制、②中央集権体制、③班田制、④税制の改革という4か条からなっていました。

簡単に言うと、土地と人民を天皇のものとし、各地方は中央から送り込んだ役人で管理し、戸籍と計帳を作成して人口把握を行い、余すことなく徴税するという内容です。

敵対者を次々に粛清する

蘇我倉山田石川麻呂を自害に追い込む(649年3月25日)

乙巳の変により右大臣に就任した蘇我倉山田石川麻呂は、娘の遠智娘を中大兄皇子に嫁がせ、その権力を高めていきました。

ところが、大化5年(649年)、異母弟の蘇我日向(そがのひむか)が、中大兄皇子に蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告したため、孝徳天皇により派遣された穂積咋が兵を率いて和泉国にあった蘇我倉山田石川麻呂の邸宅をを包囲します。

危機を感じた蘇我倉山田石川麻呂は、邸宅から逃亡し、大和国にあった山田寺に向かいますが、そこにも大和朝廷軍が迫ります。

逃げきれないと悟った蘇我倉山田石川麻呂は、大化5年(649年)3月25日、長男の興志ら妻子8人と共に山田寺で自害しました。

なお、真偽は不明ですが、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされています。

孝徳天皇を難波長柄豊碕宮に放置(652年12月)

前記のとおり、乙巳の変の後、孝徳天皇が即位し中大兄皇子が皇太子となりましたが、政治の実権は中大兄皇子が握っていました。

孝徳天皇は、即位後に都を難波長柄豊碕に遷してそこで政務を行っていたのですが、孝徳天皇が次第に中大兄皇子の意に反する行動をし始めます。

そればかりか、孝徳天皇は、次期天皇として斉明天皇の子である中大兄皇子ではなく、自分の子である有間皇子を即位させようと考え始めます。中大兄皇子は、自分の意に沿わなくなり始めた孝徳天皇を排除するため、白雉3年(652年) 12月、政治機構・皇極上皇・群臣らを引き連れて、勝手に飛鳥板蓋宮に戻ってしまいます。

その結果、孝徳天皇は、一人難波長柄豊碕宮に残されます。

こうして権力を失った孝徳天皇は、白雉5年(654年)10月10日、失意のうちに崩御します。

中大兄皇子は、ここでも何らかの理由により即位せず(大王位には就かず)、母である皇極上皇を再度斉明天皇として即位(重祚)させ、引き続き皇太子を務めます。

有間皇子処刑(658年11月11日)

前記のとおり、乙巳の変の後に中大兄皇子が皇太子となっていたのですが、皇位継承の可能性がある人物として孝徳天皇の子である有間皇子(舒明天皇12年・640年生)が存在していました。

斉明天皇の下でも皇太子となっていた中大兄皇子でしたが、皇位継承争いの対象となる可能性のある有間皇子は邪魔者です。

そこで、中大兄皇子は、蘇我赤兄に命じて有間皇子を唆し、斉明天皇4年(658年)11月11日、それを理由として有間皇子を謀反の罪にて処刑します。

権力喪失の危機

百済遺臣による救援要請

660年7月18日に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡すると、その遺臣である鬼室福信・黒歯常之らが中心となって、人質として倭国にとどめ置かれていた百済太子であった豊璋を擁立しての百済復興を目指す動きを起こし、大和朝廷(倭国)に救援を要請してきます。

この要請を受けた大和朝廷では、喧々諤々の議論が繰り広げられ、660年12月、中大兄皇子が、百済遺臣を支援して唐・新羅と敵対するという決断を下します。

斉明天皇崩御(661年7月24日)

唐・新羅連合軍と戦う決意をした大和朝廷では、直ちに国内から兵を募り、難波に遷って武器と船舶を作らせた上で、斉明天皇自ら当時の都であった飛鳥板蓋宮を出陣し、朝鮮半島へ渡るために難波津から船に乗ってまずは九州に向かいます。

九州に到着した斉明天皇は、娜大津・磐瀬行宮を経て、斉明天皇7年(661年)5月9日に筑紫国・朝倉橘広庭宮(現在の福岡県朝倉市にあったとされますが具体的な場所は不明です。)に入り戦の準備を進めます(日本書紀)。

もっとも、斉明天皇は、朝鮮遠征前の同年7月24日に68歳で崩御します(死因は不明であり、暗殺説もささやかれています。)。

斉明天皇崩御により、中大兄皇子が朝鮮遠征軍の指揮を引き継ぐこととなります(この時点では即位することなく称制にて総指揮を執ることとします。)。

大和朝廷軍の朝鮮上陸

総指揮を執る中大兄皇子は、天智元年(662年)5月、まずは、安曇比羅夫・狭井檳榔・朴市秦造田来津らを指揮官とする船舶170余隻・兵1万余人からなる先遣隊を派遣して百済皇子である豊璋を百済に送り届けます。

勢いにのる大和朝廷軍・百済軍は、滅亡時に失った百済の領土を次々と取り戻していき、朝鮮半島南西部(旧百済領土のほぼ中央)にある白江(現錦江)河口部に本拠となる周留城(するじょう)を建築して豊璋を即位させ百済復興を宣言します。

ところが、この後、百済王朝内で、国王豊璋と、復興の英雄・鬼室福信とが対立した結果、鬼室福信が処刑され、百済は大混乱に陥り、復興百済王朝は統制が全く取れない状態に陥り一気に弱体化します。

この鬼室福信が失われたことをチャンスと見た唐・新羅は、天智2年(663年)7月、劉仁軌・杜爽・元百済太子の扶余隆(元百済太子)らを指揮官とする170余隻の船と7000人の兵で復興した百済軍の王都・周留城を包囲します。

白村江の戦いで敗北(663年7月20日)

これに対し、大和朝廷軍は、援軍の陸軍1万人で新羅を攻撃して唐・新羅連合軍の後続部隊を封じ、その間に先行隊1万人と援軍の1万7000人の水軍で周留城を開放するという作戦をとります。

そして、天智天皇2年(663年)8月28日、白村江河口付近に布陣する唐・新羅水軍に大和朝廷水軍が突撃することにより白村江の戦いが始まりますが、唐・新羅水軍の潮の満ち引きを踏まえた巧みな操船術と火矢を用いた的確な攻撃により、大和朝廷水軍はなすすべなく次々と撃沈されて行き、白村江の戦いは唐・新羅水軍の一方的な勝利に終わります。

このとき、百済軍では百済王・豊璋が城兵らを見捨てて周留城から脱出して同年8月13日に大和朝廷軍に合流したのですが、敗色が濃くなるとそこからも脱出して数人の従者と共に高句麗に亡命したため、復興百済王朝はまたも滅亡します。

この白村江の戦いは、総人口300万人程度であったいわれる時代に、合計4万人を超える大兵力(総人口の約1.5%)を繰り出した一大決戦であり、この戦いの大敗北の結果を導いた総指揮官である中大兄皇子の求心力が一気に低下します。

白村江の戦い敗戦後の国政改革

白村江の戦いに敗北し、唐・新羅連合軍の脅威にさらされるとともに、国内での反発を招くこととなった中大兄皇子は、自身の安全と国の安全を図るために、直ちに政治・軍事の大改革を始めます。

内政改革(甲子の宣)

中大兄皇子は、失われた自身に対する信頼を取り戻すため、天智天皇3年(664年)2月、権威が失墜して中大兄皇子ではなく、豪族に人気のある弟の大海人皇子を前面に押し出して内政改革を行います。

まず、不平不満を持つ豪族・官僚たちにポストを与えて不満のガス抜きをするため、まず冠位十九階制を冠位二十六階制に改定し、官僚の階数を増加します。

また、豪族諸氏を大氏、小氏、伴造(とものみやつこ)らに区分し、それぞれの氏上(うじのかみ)に、大刀(たち)、小刀(かたな)、干楯弓矢(たてゆみや)を賜って諸氏を統率する象徴とし、さらに公地公民を緩和して民部(かきべ)、家部(やかべ)を定めて、部分的ではあるものの豪族の私有民を認めるなどして、豪族たちの人気取りに走ります。

これらの一連の内政改革は、天智天皇3年(664年・甲子の年)に行われたことから甲子の宣と呼ばれ、これによって、それまでの公地公民により冷遇されてきた豪族たちからの一定の評価を得ることが出来、なんとか中大兄皇子に対する反発を防ぐことに成功します。

国土防衛改革

何とか国内の反乱分子を抑えた中大兄皇子は、次に、百済帰化人の協力の下で来るべき唐との戦いに備えて、急ピッチで国防を整えていきます。

① 水城の建築

唐・新羅連合軍の攻撃は、博多湾からやってくることが想定されるのですが、博多湾を含めた北九州の海岸線は開放的な地形であり、海岸線で唐・新羅連合軍を防ぐことは困難です。

そのため、大和朝廷は、唐・新羅連合軍を水際でなく、その後向かうであろう大和朝廷の北九州の軍事要塞である太宰府の手前でこれを迎え撃つ作戦を立案します。

そのため、大和朝廷は、唐・新羅連合軍が大宰府にとりつくのを防ぐため、博多湾と大宰府との間に、東西に広がる山裾の間を塞ぐべく基底部の幅約80m・高さ9mの水掘り併せ持った土塁を全長約1.2kmに亘って張り巡らせます(大水城)。

また、水城の西方にも丘陵の間を塞ぐ形で小規模の土塁が築かれます(小水城)。

この水城の跡は現在まで残っており、航空写真からもはっきりと識別できます。

② 大野城・基肄城築城

さらに、水城の両端の山上に大宰府と相互ネットワークをとるための2つの朝鮮式山城が築かれます。

このとき北の山上に水城と接続する形で築かれたのが大野城(おおのき)で、南の山上に築かれたのが基肄城(きいのき)です。

③ 西日本各地に朝鮮式古代山城築城

また、朝廷式山城は、大宰府近辺だけでなく、対馬(金田城)、九州(鞠智城)、四国(屋嶋城)、難波(高安城)などにも築かれていきます。

④ 防人の配備

また、北部九州沿岸には、沿岸と大宰府の防衛のため、防人(さきもり)を配備します。

近江大津宮へ遷都(667年3月19日)

また、天智天皇は、唐・新羅連合軍から攻撃されるリスクや自身に対する飛鳥の反発勢力と距離をもつことを考慮し、飛鳥から、淀川水系を利用して瀬戸内海へ、また琵琶湖水運をつかって日本海へと南北双方に動きがとれる近江大津宮に遷都します。

第38代・天智天皇として即位

唐との関係改善

白村江の戦いで百済を滅ぼした後、唐・新羅連合軍は、高句麗への攻勢を強め、668年に高句麗を滅ぼします。

こうして、朝鮮半島は唐と新羅によって制圧され、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示したのですが、これに新羅が反発し、このころから唐と新羅との関係が急激に悪化します。

こうなってくると、唐としても遠方の大和朝廷を相手にしている場合ではありません。

まずは、目の前の新羅に対する対応が必要となります。

そこで、唐は、大和朝廷側に捕虜を帰還させたり、遣唐使を受け入れたりして、大和朝廷との関係改善を進めます。

その結果、大和朝廷としては、唐から攻撃される危機を免れることとなりました(なお、その後に唐軍が朝鮮半島から撤収したため、676年に新羅によって朝鮮半島が事実上統一されています。)。

天智天皇即位(668年1月3日)

唐との関係が改善し、国防上の危機が去ったと判断した天智天皇は、天智天皇7年(668年)1月3日、第38代天皇として即位します。

また、同年2月23日、同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟と定めます。

なお、このときに天智天皇の第1皇子である大友皇子が皇太子とならなかった理由は、この時点においてなお天智天皇に対する豪族の反対意見が根強く豪族に人気のある大海人皇子を把持しきれなかったこと、当時の皇位継承においては母親の血統や后妃の位も重視されていたため長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の優先性が低かったことなどが挙げられます。

中臣鎌足死去(669年10月16日)

その後、中臣鎌足が、天智天皇7年(668年)に日本最初の律令法典ともいわれる近江令(現存しておらず非存在説あり)を編纂したとされますが、真偽は不明です

そんな中臣鎌足ですが、天智天皇8年(669年)、狩りの途中で馬上から転落して重体となり、天智天皇8年(669年)10月15日に見舞いに行った天智天皇から、内大臣の任命、大織る冠と藤原姓の付与がなされます。

もっとも、そんな見舞いの甲斐なく、中臣鎌足は、翌日死去します。

この中臣鎌足の死は、乙巳の変を共に戦った盟友というだけでなく、恐怖支配ではない数少ない天智天皇の協力者が失われたことを意味し、天智天皇に大きな痛手となります。

天智天皇の晩年

大友皇子が皇太子となる(671年10月)

天智天皇9年(670年)2月に日本最古の全国的な戸籍である庚午年籍を作成し、九州・北関東まで勢力を及ぼしていった天智天皇でしたが、このころになると衰えが見え始めます。

体力の衰えを感じる天智天皇は、自然な親の感情として、弟よりも子を後継ぎにしたいと考え、天智天皇9年11月16日(671年1月2日)に第1皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣として摂政を兼任させ、事実上の皇位継承表明を行います。

絶対的な権力を持っていた天智天皇でしたが、天智天皇10年(671年)9月、近江国・大津宮で病に倒れます。

死期が迫っていることを知った天智天皇は、弟の大海人皇子ではなく、子の大友皇子に皇位を継承させたいと考えるようになります。

そして、天智天皇は、大海人皇子の野心を試すため、病の床に大海人皇子を呼んで天皇の地位を譲りたいと申し出ます(これは、天智天皇の本心ではなく、大海人皇子が同意すれば、野心ありとして大海人皇子を殺すつもりでした。)。

天智天皇の本心を察知し身の危険を感じた大海人皇子は、天智天皇10年(671年)10月17日、天智天皇の申し出を断って皇太子として大友皇子を推挙し、自らは出家して妻の鸕野讃良(うののさらら、後の持統天皇)と共に吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下ります。

これにより、皇太子が大海人皇子から大友皇子に変更されることとなります。

天智天皇崩御(671年12月3日)

そして、天智天皇は、天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、近江大津宮で崩御されます。宝算46歳でした。

もっとも、400年後の平安時代末期に皇円という僧によって書かれた扶桑略記では、天智天皇が馬で山科まで遠乗りに出かけて山の中に入りそのまま帰って来なかった、どこで死んだかわからなかったため、やむなく現場に残されていた沓があった場所を天智天皇陵としたと記載されています。

この記載や、国家的事業として当時の最高峰の頭脳を集めて天武天皇の功績を礼賛するために編纂された日本書紀に天智天皇陵の所在が明らかとされていないこと、万葉集に天智天皇の魂が木幡(現在は宇治にあるのですが当時は山科に属していました)に漂っているとの歌が記されていることなどから、天智天皇暗殺説も存在しています。

なお、天智天皇が暗殺されたと仮定すると、その犯人は、壬申の乱に勝利した天武天皇であると考えるが通常です。

壬申の乱

絶対的権力を持ち、数々の政治的ライバルを粛清してきた天智天皇でしたが、後継ぎと願った大友皇子が一旦は皇位を引き継ぐも、大海人皇子との戦いに敗れ命を失います(壬申の乱)。

そして、壬申の乱後に即位した大海人皇子が、天武天皇にとして即位し、以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続くこととなります。

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