【天智天皇山科陵(御廟野古墳)】なぜか山科に存する天智天皇陵

天智天皇山科陵(御廟野古墳)は、京都市山科区に存在する天智天皇(在位668〜671年)を祀った古墳です。

山科盆地北辺の南向きの傾斜面に位置した八角墳であり、宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇陵に治定されています。

数多く存在する京都市内の天皇陵の中で最も古い陵としても有名です。

もっとも、実は天智天皇は、生前に山科の地には縁もゆかりもなく、なぜ山科の地に陵があるのかについて様々な説があります。

御廟野古墳=天智天皇陵

天智天皇山科陵は、考古学的には御廟野古墳という名の古墳です。

かつては、陵について○○天皇陵という呼称であるのが一般的だったのですが、近年○○古墳と名を変えられる傾向が見られます。

これは、かつては伝承により○○天皇陵とされてきたものであっても学術的に見ると被葬者が断定できない場合が多いことから、誤りを避けるためであるとされます(この例としては、かつて仁徳天皇陵と言われるのが一般的であった前方後円墳が、現在では大仙陵古墳と呼ばれることが多いことがわかりやすいと思います。)。

もっとも、この御廟野古墳は、天智天皇陵ということでほぼ間違いありません。

なぜなら、延喜諸陵式に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」と記されているところ、近隣にこれに該当する規模の墳墓がないため、御廟野古墳=天智天皇陵とすることにほぼ異論がないからです。

被葬者に異論がない古墳は珍しく、天智天皇陵の他には天武・持統合葬陵の野口王墓くらいしかありません(天武・持統陵に異論がない理由は、文暦2年/1235年に盗賊によって荒らされた際に定真という僧によって内部が記録されているからです(阿木幾乃山陵記))。

構造

御廟野古墳=天智天皇陵は、7世紀末から8世紀ころに築造された八角墳です。

なお、6世紀末以降の天皇陵は、前方後円墳→大型円墳→大型方墳→上八角下方墳→八角墳と変化し、また、7世紀の中葉ころからは八角墳は大王墓のみに用いられるようになっています。

また、御廟野古墳=天智天皇陵を上円下方墳とすると、その大きさは、上円対辺長約46m・下方辺長約70m・高さ8mとされます。

御廟野古墳=天智天皇陵は、延喜式の諸陵式では10の近陵の一つに列せられ、明治天皇の即位の礼の際にも清水谷中納言が勅使として参向し奉幣が捧げられています。

なお、明治天皇陵(伏見桃山陵)以降の天皇陵は、御廟野古墳=天智天皇陵を手本として上円下方墳の形式で築造されています。

天智天皇陵が山科に存在する謎

天智天皇略歴

御廟野古墳=天智天皇陵に祀られた天智天皇は、626年、豊浦宮(奈良県明日香村)において、田村皇子(後の舒明天皇)の第二皇子としてにおいて誕生しています。

その後、遷都に伴って皇極天皇元年(642年)に小墾田宮(奈良県明日香村)、皇極天皇2年(643年)に飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村)に移った後、皇極天皇4年(645年)6月12日に同宮大極殿において、当時の事実上の最高権力者であった蘇我入鹿を殺害し(乙巳の変)、続けて蘇我宗家を滅亡させると共に、政敵であった古人大兄皇子を処刑しています。

この結果、天皇を孝徳天皇、皇太子を中大兄皇子とする新しい政治体制が始まり、同年、蘇我氏の権力基盤であった飛鳥を離れて難波宮を都とする政治が始まります。

その後、白雉5年(655年)の飛鳥河原宮(奈良県明日香村)、斉明天皇2年(656年)の後飛鳥岡本宮(奈良県明日香村)を経て、天智天皇6年(667年)近江宮(滋賀県大津市)に遷都します。

なお、近江宮遷都は、白村江の戦いに大敗したことにより、その後に唐・新羅連合軍から攻撃されるリスクを考えたこと、自身に対する飛鳥の反発勢力と距離をもつことを考慮したこと、飛鳥から淀川水系を利用して瀬戸内海へ、また琵琶湖水運を使って日本海へと移動ができることなどを総合考慮して決められました。

その後、唐との関係を改善させて国防上の危機が去ったと判断した天智天皇は、天智天皇7年(668年)1月3日、第38代天皇として即位します。

そして、天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、近江大津宮で崩御されます。宝算46歳でした。

山科陵の謎

以上のとおり、天智天皇は、主に飛鳥・難波・大津で活躍しており、山科とは縁もゆかりもないように見えます(一見すると近江宮から近いように感じられますが、山で隔てられています。)。

記録に現れていないだけで何らかの関わりがあったのかもしれませんが、山科は、今でこそ京に近い場所であるものの、まだ平安京も存在しない当時は何もない農村であり、ここに天智天皇の縁があったとは考え難いと思われます。

少なくとも、山科が天智天皇の陵を設けるほどの関係を持つ場所であったとは到底考えられません。

陵の場所として大きな謎となります。

この謎について、400年後の平安時代末期に皇円という僧によって書かれた扶桑略記では、天智天皇が馬で山科まで遠乗りに出かけて山の中に入りそのまま帰って来なかった、どこで死んだかわからない、やむなく現場に残されていた沓があった場所を天智天皇の陵としたと記載されています。

この記載や、国家的事業として当時の最高峰の頭脳を集めて天武天皇の功績を礼賛するために編纂された日本書紀に天智天皇陵の所在が明らかとされていないこと、万葉集に天智天皇の魂が木幡(現在は宇治にあるとされるのですが当時は山科に属していました)に漂っているとの歌が記されていることなどから、天智天皇暗殺説も存在しています。なお、天智天皇が暗殺されたと仮定すると、その犯人は、壬申の乱に勝利した天武天皇であると考えるが通常です。

私は歴史学者ではありませんので、天智天皇陵所在の謎については、その紹介だけにとどめます。

現地訪問の際の参考まで

天智天皇陵があるため、京都市山科区には御陵(みささぎ)付された地名が多数存在しており、また天智天皇陵の最寄駅名も京都市営地下鉄及び京阪電気鉄道の御陵となっています。

なお、天智天皇山科陵(御廟野古墳)の参道入口には、石造りの垂直型日時計が設置されています。

これは、天智天皇が、日本で始めて漏刻(ろうこく)という水時計を設置して、時刻に合わせ鐘や太鼓をならしたという故事にちなんで昭和13年(1938年)6月10日に京都時計商組合により寄贈されたものです。

また、天智天皇が漏刻を設置した日は6月10日といわれており、同日は現在、時の記念日として制定されています。

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