【白村江の戦い】百済・大和朝廷軍連合軍が大敗し百済が滅亡した戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい/はくすきのえのたたかい)は、天智天皇2年(663年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で起った百済遺臣・倭国軍(大和朝廷軍)と唐・新羅連合軍との間の戦いです。

朝鮮半島について見ると、復興百済王朝が完全滅亡し、新羅による朝鮮半島統一に繋がる一戦です。

他方、人口300万人程度と推定される当時に未熟な造船・航海技術で5000人もの兵を送るという国を挙げての戦いに挑み大敗したヤマト政権軍にとっては、国内政治と国防のシステムの改変を強いられることとなった重要な一戦でもあります。

以下、白村江の戦いについて、戦いに至る経緯から見ていきましょう。

白村江の戦いに至る経緯

当時の朝鮮半島の情勢

日本では古墳時代と言われる300年代以降、朝鮮半島は、小勢力が覇を争う戦いの時代となり、その勢力も高句麗・百済・新羅の三国に集約されていきます。なお、倭国(ヤマト政権)、朝鮮半島南部にあった任那を通じて朝鮮半島に影響力を持っていたようですが、その任那は562年以前に新羅に滅ぼされています(日本書記)。

3ヵ国に分かれて争っていた朝鮮半島では、500年代ころから新羅が弱体化し始め、次第に新羅が高句麗・百済に押されていくようになります。

勢いにのる百済は、642年ころから新羅侵攻を繰り返します。

困った新羅は、唐に助けを求めたのですが、このときに高句麗・百済が唐と敵対したこともあり、唐が新羅を属国として支援する情勢となりました。

唐に下った新羅では、善徳女王(在位:632年〜647年)・金春秋(後の太宗武烈王)の下で積極的な唐化政策が行われ、国力も改善していくこととなります。

他方、百済では、654年に朝鮮半島で発生した干ばつによる飢饉が起きた際に百済・義慈王が飢饉対策をとららなかったこと、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなどしたこと、656年3月には義慈王の酒色を諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死したことなどから政治が乱れ、一気に国力が低下していきました。

百済滅亡(660年7月18日)

百済の退廃を見た唐・新羅は、660年3月、百済を滅ぼすための兵を挙げ、唐軍13万人(神丘道行軍大総管・蘇定方、将軍・劉伯英)が水上から、新羅軍5万人が陸上からという水陸二方面作戦によって百済に向かって進軍していきます。

これに対し、荒廃しきっていた百済首脳部の対応が遅れ、その作戦が定まらない間に東軍の侵入を許し、簡単に炭峴・白江を超えられてしまいます。

首脳部が機能していないのを見て、現場の百済の将軍たちは独自の行動を展開し、階伯将軍率いる決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせて迎撃するなど奮戦しますが、同年7月9日、圧倒的な唐軍に敗れ、階伯将軍も戦死します(黄山の戦い)。

そして、同年7月12日、唐軍は百済王都を包囲します。

このとき、百済王族には投降希望者が多数でたですが唐側がこれを拒否したため、同年7月13日、百済太子隆が降伏し、百済義慈王は熊津城に逃亡します。

そして、同年7月18日、百済の義慈王が降伏したことにより百済は滅亡します。

百済遺臣の援軍要請

百済を滅ぼした唐軍主力は、その後、さらに高句麗に向かったのですが、660年8月2日ころから敵が手薄となったと見た百済遺民の鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が始まります。

唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できなかったのですが、新羅軍が百済残党の掃討を行ったため、百済の遺臣たちは苦境に立たされます。

困った百済遺臣達の中で鬼室福信・黒歯常之らが中心となって、人質として倭国にとどめ置かれていた百済太子であった豊璋を擁立しての百済復興を目指す動きが見られ、ヤマト政権(倭国)に救援を要請してきます。

ヤマト政権(倭国)の対応

この援軍要請に、ヤマト政権内部では意見が真っ二つに分かれます。

百済遺臣に協力すれば、大国である唐に敵対することとなります。

他方、百済遺臣の申し出を拒否すれば、朝鮮半島は唐と新羅のものとなり、次に狙われるのはヤマト政権です。

喧々諤々の議論が繰り広げられた結果、660年12月、斉明天皇及び実質的統治者たる中大兄皇子は、百済遺臣を支援し、唐・新羅と敵対するという決断を下します。

斉明天皇崩御(661年7月24日)

百済遺臣を支援し、唐・新羅との戦いを決意したヤマト政権では、斉明天皇自らが兵を率いて戦う決断をします。

斉明天皇は、直ちに国内から兵を募り、難波に遷って武器と船舶を作らせた上で、自らは当時の都であった飛鳥板蓋宮を出陣し、朝鮮半島へ渡るために難波津から船に乗ってまずは九州に向かいます。

九州に到着した斉明天皇は、娜大津・磐瀬行宮を経て、斉明天皇7年(661年)5月9日に筑紫国・朝倉橘広庭宮(現在の福岡県朝倉市にあったとされますが具体的な場所は不明です。)に入り戦の準備を進めます(日本書紀)。

もっとも、斉明天皇は、朝鮮遠征前の同年7月24日に68歳で崩御します(死因は不明であり、暗殺説もささやかれています。)。

斉明天皇崩御により、中大兄皇子が朝鮮遠征軍の指揮を引き継ぐこととなります(この時点では即位することなく称制にて総指揮を執ることとします。)。

先遣隊が朝鮮半島上陸(662年5月〜)

総指揮を執る中大兄皇子は、天智元年(662年)5月、まずは、安曇比羅夫・狭井檳榔・朴市秦造田来津らを指揮官とする船舶170余隻・兵1万余人からなる先遣隊を派遣して豊璋を百済に送り届けます。

百済の復興

まず、662年5月にヤマト政権第1軍が朝鮮半島に到着すると、それまで百済の遺臣たちだけで唐・新羅と戦っていたところに一気に1万人もの援軍が来たため、百済軍は一気に勢力を盛り返します。

また、このとき唐・新羅軍が高句麗とも交戦中であったため、唐・新羅連合軍は百済・ヤマト政権軍への対応が遅れて戦局が一変します。

勢いにのるヤマト政権軍・百済軍は、滅亡時に失った百済の領土を次々と取り戻していきます。

勢力を回復しつつある百済軍は、朝鮮半島南西部(旧百済領土のほぼ中央)にある白江(現錦江)河口部に本拠となる城を建築します。

これが周留城(するじょう)であり、この城がたてられた場所が「白村」です。

本拠地を得た百済軍は、ついに周留城にて豊璋を即位させ百済復興を宣言します。

百済の内紛により鬼室福信処刑

ところが、本拠地を得て国王が即位し、いよいよこれからとなった百済に激震が走ります。

国王となった豊璋に政治能力・統率力がないと見た鬼室福信・黒歯常之ら諸将が独自行動を開始し、これを苦々しく思った豊璋が鬼室福信を処刑してしまったのです(真偽は不明ですが、鬼室福信が余豊璋を殺害しようとしていることを察知して処刑したともいわれます。)。

国王によって英雄・鬼室福信が処刑された百済は大混乱に陥り、復興百済王朝は統制が全く取れない状態に陥ってしまいます。

また、鬼室福信の死により、百済の地形を熟知しかつ周囲に多くの人脈を持つ現場の最高指揮官を失うこととなった百済軍は一気に弱体化します。

唐・新羅による周留城包囲(663年7月)

これを見逃す唐・新羅ではありません。

鬼室福信が失われたことをチャンスと見た唐・新羅は、天智2年(663年)7月、劉仁軌・杜爽・元百済太子の扶余隆(元百済太子)らを指揮官とする170余隻の船と7000人の兵で復興した百済軍の王都・周留城を包囲します。

白村江の戦い

海上戦(663年8月28日)

王都・周留城を包囲する唐・新羅軍に対し、ヤマト政権軍先行隊だけでは対応しきれません。

そこで、ヤマト政権では、さらに上毛野君稚子・巨勢神前臣譯語・阿倍比羅夫を指揮官とする兵1万7千人の水軍と、廬原君臣を指揮官とする兵1万人の陸軍を追加で派兵します。

総人口300万人程度であったいわれる時代に、合計4万人を超える大兵力(総人口の約1.5%)を繰り出したことから見ても、この戦いがヤマト政権にとっての一大決戦であったことがわかります。

そして、ヤマト政権軍は、援軍の陸軍1万人で新羅を攻撃して唐・新羅連合軍の後続部隊を封じ、その間に先行隊1万人と援軍の1万7000人の水軍で周留城を開放するという作戦をとります。

このときの周留城方面軍の戦力を見ると、百済・大和朝廷軍は約800隻の船と兵2万7000人であり、唐・新羅連合軍は約170隻の船と兵7000人でしたので、一見すると、百済・ヤマト政権軍が圧倒しているように見えますが、実際は違いました。

唐・新羅連合軍の船は巨大船舶(楼船)であり、防御力のない倭船とはものが違います。また、指揮官の指揮に従って展開するように訓練されていました。

対する百済・ヤマト政権軍の船は小型の船舶である上、作戦も「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という各自が目の前の敵を攻撃するという杜撰なものでした(日本書紀)。

しかも、百済の地形を熟知する鬼室福信も既に失われています。

そんな中で、天智2年(663年)8月28日、白村江河口付近に布陣する唐・新羅水軍にヤマト政権水軍が突撃することにより白村江の戦いが始まります。なお、白江(現錦江)が白村を通って黄海に流れ込む海辺を白村江と呼び、ここで行われた戦いなので白村江の戦いと呼ばれます。

ヤマト政権軍は三軍編成をとって4度に亘って突撃しますが、唐・新羅水軍の潮の満ち引きを踏まえた巧みな操船術と火矢を用いた的確な攻撃により、ヤマト政権水軍はなすすべなく次々と撃沈されて行きます(400隻もの倭船が沈んだと言われています。)。

その結果、白村江の戦いは、唐・新羅水軍の一方的な勝利に終わります。

陸上戦

そして、白村江の戦いでヤマト政権水軍を下した唐・新羅水軍は、そのままヤマト政権陸軍を殲滅するために百済・ヤマト政権陸軍の攻撃に向かいます。

唐・新羅陸軍は、唐将である孫仁師・劉仁願と新羅王である金法敏(文武王)の指揮の下で百済・ヤマト政権軍と対峙していたのですが、ここに白村江の戦いに勝利した後で熊津江に沿って下り回り込んできた唐・新羅水軍到着し、百済・ヤマト政権陸軍を挟撃します。

その結果、陸上もまた唐・新羅陸軍の勝利に終わります。

再度の百済滅亡

白村江で大敗したヤマト政権水軍は唐・新羅水軍に追われる中、多くの将兵を現地に残しながらもやっとのことで帰国します。

また、百済軍でも、百済王・豊璋が城兵らを見捨てて周留城から脱出して同年8月13日にヤマト政権軍に合流したのですが、敗色が濃くなるとそこからも脱出して数人の従者と共に高句麗に亡命したため、復興百済王朝はまたも滅亡します。

白村江の戦い後のヤマト政権

白村江の戦いに敗れて百済が完全に消滅したことにより、ヤマト政権は一転して唐及び新羅からの侵攻の危機にさらされるようになります。

これに対し、当時のヤマト政権は全力で対応することとなります。

この敗戦後の国防政策については、それだけで相当の分量となりますので別稿「白村江の戦いに敗れた後のヤマト政権の国防策」に委ねたいと思います。

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