【壬申の乱】大海人皇子と大友皇子が皇位を巡って争った古代日本最大の内乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天智天皇の死後、その弟である大海人皇子と、息子である大友皇子とが皇位継承を巡って争った古代日本最大の内乱です。

戦いがあった天武天皇元年(672年)が、干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることから壬申の乱と呼ばれます。

天智天皇の後を継いだ皇太子・大友皇子に対して、皇弟・大海人皇子が兵を挙げるという形で勃発し、反乱者である大海人皇子が勝利し天皇として即位するという、極めて珍しい結果に終わった戦いでもあります。

壬申の乱に至る経緯

天智天皇が病に倒れる(671年9月)

乙巳の変でクーデターを成功させ、大化改新を進めた中大兄皇子は、20年を越える皇太子期間の後、天智天皇7年 (668年)2月20日、天智天皇として即位します。

そして、天智天皇は、即位後すぐの天智天皇7年(668年)4月10日、同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟とします(日本書記)。なお、このときに大友皇子が皇太子とならなかった理由は、当時の皇位継承においては母親の血統や后妃の位も重視されていたため長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の優先性が低かったことにあります。

皇太子時代から絶対的な権力を持っていた天智天皇でしたが、即位して間もなくの天智天皇10年(671年)9月、当時の都であった近江国・大津宮で病に倒れます。

死期が迫っていることを知った天智天皇は、自然な親の感情として、弟の大海人皇子ではなく、子の大友皇子に皇位を継承させたいと考えるようになります。

大友皇子が皇太子となる

そして、とうとう病に伏していた天智天皇は、671年(天智天皇10年)10月17日、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめます。

そして、天智天皇は、大海人皇子の野心を試すため、病の床に大海人皇子を呼んで天皇の地位を譲りたいと申し出ます(これは、天智天皇の本心ではなく、大海人皇子が同意すれば、野心ありとして大海人皇子を殺すつもりでした。)。

天智天皇の本心を察知し身の危険を感じた大海人皇子は、天智天皇の申し出を断って皇太子として大友皇子を推挙し、自らは出家して妻の鸕野讃良(うののさらら、後の持統天皇)と共に吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下ります。

これにより、皇太子が大海人皇子から大友皇子に変更されることとなります。

天智天皇崩御(671年12月3日)

671年(天智天皇10年) 12月3日(672年1月7日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御します。

その結果、24歳の大友皇子が弘文天皇(第39代天皇)として即位します(なお、明治3年・1870年に明治政府によって歴代天皇に列せられてはいますが、実際に大王に即位したかどうかが必ずしも定かではありませんので、本稿では大友皇子と表記することとします。)。

こうして父の後を継いだ大友皇子ですが、その後すぐ、飛鳥から大津への遷都や白村江の戦いなどの多大な負担を強いた天智天皇の独裁政治に不満を持っていた豪族らが反乱を繰り返すようになります。

壬申の乱直前の大海人皇子の動き

舎人を美濃国に派遣する

大津宮で政務を行う大友皇子の混乱ぶりを見た大海人皇子は、妻・鸕野讃良の説得もあって、自身の有する領地である美濃国へ行き大友皇子と戦うことを決めます。

そこで、大海人皇子は、まず村国男依を先遣隊として美濃国に派遣し、先行して兵を集めさせます。

大海人皇子吉野脱出(672年6月24日)

そして、大海人皇子は、天武天皇元年(672年)6月24日、吉野を出立し美濃国へ向かいます。

吉野を出立した大海人皇子は、積殖山口・鈴鹿郡家・桑名郡家を経由し、道中の豪族を取り込みながら美濃に向かって進んでいき、途中、積殖山口(現在の伊賀市柘植)で大津宮を脱出した長男・高市皇子と、鈴鹿郡家で第3皇子・大津皇子とそれぞれ合流します。

不破関封鎖

その後、大海人皇子は、美濃国にたどり着いたのですが、到着時点で既に大海人皇子の指示を受けて兵が結集しており、すぐに行動できる状態となります。

そこで、大海人皇子は、集まった兵で東西交通の要衝であった不破関を封鎖し、大津宮にいる大友皇子と東国との連携を遮断します(実際、大友皇子は、東国に兵力動員を命じる使者を派遣したのですが、大海人皇子に阻まれて失敗しています。)。

その結果、大友皇子が東国(東海道・東山道)の兵を失い、これを大海人皇子が取り込んでしまいます。

東国を失った大友皇子は、畿内、西国、吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したのですが西国・九州の動きは鈍く、畿内周辺の兵力のみで戦う必要に迫られます。

壬申の乱

大海人皇子軍出陣(672年7月2日)

美濃国で体制を整えた大海人皇子は、天武天皇元年(672年)7月2日、軍勢を二手にわけて鈴鹿関から大和方面軍(南軍)と、不破関から近江方面軍(北軍)を送り出し、大友皇子がいる大津宮を目指して進軍させます(実際には、規模は劣りますが琵琶湖の北側を反時計周りに進める部隊も出していますので、実際には3軍と言った方がいいかもしれません。)。

これに対する大友皇子は、臣下を取りまとめるのに手を焼き、迎撃態勢をとるのに手間取り後手に回ります。

近江方面軍(北軍)の戦い

① 息長横河(おきながのよこかわ)の戦い(672年7月2日)

美濃国を出発した大海人皇子・近江方面軍は、天武天皇元年(672年)7月7日、村国男依率いる部隊が息長の横河で、大友皇子軍と対陣交戦することとなり、これにより壬申の乱における本格的な戦闘が始まります。

② 鳥籠山(とこのやま)の戦い・安河(やすのかわ)の戦い

息長横河で大友皇子軍を退けた大海人皇子軍は、鳥籠山、安河で続いて大友皇子軍に勝利し、瀬田に向かって行きます。

大和方面軍(南軍)の戦い

① 飛鳥古京の戦い

大和では、大海人皇子が美濃国に出立した後、大友皇子が勢力を及ぼし倭京(飛鳥古都)に兵を集めてました。

もっとも、大海人皇子方の大伴吹負が挙兵して飛鳥を占拠し、以降、西と北から来襲する大友皇子軍と激戦を繰り広げます。

飛鳥で苦戦する大伴吹負でしたが、ここに紀阿閉麻呂率いる大海人皇子・大和方面軍が到着して戦況が一気に大海人皇子方に傾き、飛鳥は大海人皇子軍が占拠します。

② 乃楽(なら)の戦い・箸墓の戦い

飛鳥を攻略して勢いに乗る大海人皇子・大和方面軍は、飛鳥から北上を開始したのですが、乃楽(現在の奈良市)の地で迎撃に来た大友皇子軍と戦い、敗れます。

敗れた大海人皇子・大和方面軍は、箸墓まで退却して体制を整えたところで、再び追撃してきた大友皇子軍が攻撃を加えますが、箸墓では大海人皇子・大和方面軍が勝利します。

③ 当麻の戦い・難波占拠

また、大海人皇子・大和方面軍は、当麻で大友皇子軍を撃破して難波を占拠し、大和国一帯を制圧します。

瀬田の戦い(672年7月22日)

大海人皇子・近江方面軍(北軍)が、天武天皇元年(672年)7月22日、瀬田の唐橋まで到達します。

瀬田の唐橋は、大津宮のすぐ南東に位置し、後に「唐橋を制する者は天下を制する」と謳われた東海道方面と京を結ぶ交通の要衝でもあり、大友皇子からすると絶対に死守しなければならない重要拠点でした。

そこで、大友皇子は、迎撃軍を準備し、自らこれを率いて出陣し、大海人皇子軍を待ち構えます。

大友皇子軍は、橋の中ほどを落としてそこに長坂を置き、大海人皇子軍が亘ってきたらこれを外して橋を渡れないようして橋から突き落とすという戦法をとって、大海人皇子軍を退け続けます。

苦戦する大海人皇子軍でしたが、大分稚臣(おおきだのわかおみ)が無理矢理突撃して突破に成功し、瀬田の唐橋の占拠に成功します。

瀬田の唐橋を突破された大友皇子軍は大混乱に陥り、そのまま勢いにのる大海人皇子軍に蹴散らされて大敗します。

大友皇子自決(672年7月23日)

瀬田の戦いに敗れた大友皇子は、山城国・山前(やまざき、山崎)へ向かって逃亡したのですが、そこに大海人皇子・大和方面軍(南軍)が迫ります。

もはや勝ち目がないと悟った大友皇子は、翌天武天皇元年(672年)7月23日、首を吊って自決し、壬申の乱は収束し、大友皇子の死により近江朝廷も滅亡します。

大海人皇子が天武天皇として即位

遷都と即位(673年2月27日)

大友皇子を葬った大海人皇子は、大津宮を廃し、飛鳥浄御原宮(奈良県高市郡明日香村)を造営して遷都します。飛鳥に都を戻したのです。

その上で、大海人皇子は、翌天武天皇2年(673年)2月27日、天武天皇として即位します。

中央集権化を進める

戦で武を示して天皇となった天武天皇は、強い権力を持つに至ります。

天武天皇は、この強い権力を使って、天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていき、服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などを行って、奈良時代に繋がる政治を形作っていきます。

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