【鳥羽城】九鬼水軍の本拠である志摩国の海城

鳥羽城(とばじょう)は、戦国時代末期に志摩国答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市鳥羽三丁目)に築かれた九鬼水軍の本拠地となった海城です。

水軍の本拠地だけあって四方を水に囲まれ、大手門も海に向かう水門だったという極めて珍しい構造でした。

その構造か、「鳥羽の浮城」と呼ばれたり、城の海側が黒色、山側が白色に塗られていたため、「二色城」や「錦城」と呼ばれたりもします。

現在は、宅地造成のために周囲が埋め立てられてしまったため、往時の姿を見ることはできませんが、過去に思いを巡らしながら観光するととても興味深い城です。

鳥羽城築城

鳥羽城の立地

鳥羽城は、当時伊勢国と志摩国との国境付近に位置し、当時良湊として名高かった泊浦を望む志摩地方の海上交通を牛耳る絶好の場所にありました。

九鬼嘉隆による鳥羽城築城(1594年)

鳥羽城は、豊臣秀吉の家臣であった九鬼嘉隆が、当時伊勢国と志摩国との国境であった妙慶川の河口南岸に突き出た標高約40mの小山(樋の山)に築城を開始したのが始まりです。

九鬼義隆は、リアス式海岸の中に佇む小山(樋の山)という水軍基地として申し分ない立地を最大限活用するため、鳥羽湾を航行する船を引き込むことができる形に造成し、文禄3年(1594)年に城として完成したと言われてています。

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、九鬼家では、どちらが勝利しても九鬼家が残るよう、当主・九鬼嘉隆が西軍に、子・九鬼守隆が東軍に与して戦います。

そして、東軍勝利の結果、九鬼嘉隆は自害したのですが、九鬼守隆は戦後に2万石を加増されます。

その後、九鬼守隆は、大坂の陣でも戦功によりさらに1000石を加増されて5万6000石の大名となりました。

もっとも、寛永9年(1632年)に九鬼守隆が死去すると、九鬼家の家督争いが起こり、幕府の介入の結果、家督は九鬼守隆の五男の九鬼久隆が継いで摂津三田藩へ移封、三男の九鬼隆季が丹後綾部藩に2万石で移封となり、九鬼氏は分裂させられた上、水軍と共に鳥羽城を失います。

内藤忠重による大改築

翌寛永10年(1633年)、代わって常陸国内に2万石を領する内藤忠重が3万5000石で鳥羽移封となり、鳥羽城に入ります。

鳥羽城に入った内藤忠重は、鳥羽城を近世城郭として整備し、二の丸、三の丸を増設するなどの大改築を行います(当時の縄張り図を、現在の地図と整合させると概ね上図のとおりとなります。)。

そして、寛永10年(1663年)ころに完成をしたと言われています。

もっとも、この鳥羽城の大改築や舟の整備により、鳥羽藩は深刻な財政難に苦しむこととなります。

鳥羽城の縄張り

前記のとおり、鳥羽城は、九鬼水軍の本拠地として四方を海に囲む形で築かれた平山城(海城)であり、九鬼嘉隆の築城(戦国期)を基礎とし、その後の内藤忠重による大改築(明治期)により完成をみました。

南方山頂部に天守を有する本丸を配置し、自然地形を利用してひな壇状に曲輪を配置し、外曲輪を含めた総面積は、3万2280坪(約10万6500㎡)を誇ります。

また、北側を妙慶川で、東側・南側を海で守り、西側は堀を巡らして海水を引き入れることによって、この小島を島状にして陸地(城下)から切り離し、四方を有無で囲まれた海城として機能させています。

そして、大手門(大手波戸水門)を水門にして、城下側ではなく海側(東側)に開くという極めて珍しい構造となっています(大手水門の他にも南西部と南東部にも2つの水門が設けられました。)。

他方、陸地とつながる北西部(相橋口門)、南西部(横町口門)、南部(藤口門)にも3箇所の虎口が設けられ、これらはいずれも出枡形門となっていました。

外堀

鳥羽城には、1466間もの外曲輪総堀が設けられていましたが、東側は海であり、南側と西側の外堀は埋め立てられてその名残がほとんど残っていません。

① 妙慶川(北側外堀)

鳥羽城の北側は、伊勢国と志摩国との国境であった妙慶川を外堀として利用していました。

そして、北側城下から妙慶川を越えるために相橋(あいはし)が架けられ、陸路の玄関口として使用されました。

② 蓮池跡(西側外堀)

鳥羽城の西側は、蓮池を堀としていたのですが、現在は埋め立てられて道路(錦町通り)となっています。

外曲輪

鳥羽城は、東西南北に4つの虎口を設けており、大手口(大手門)は東側の海側であり、その他北側には相橋楼門が、西側には横町口門が、南側には藤口門がそれぞれ設けられていました。

また、これらの他に3つの水門も設けられていたようです。

① 大手門(大手波戸水門)跡

大手水門は、鳥羽城東側の海側(現在の鳥羽水族館付近)に設けられ、まさに水軍の城にふさわしい構造となっていました。

延寶8年(1680年)の志摩城之結構では、「追手濱手門」と記され、2間半×4間の大きさで番所も兼ねていたとされています。

なお、大手水門から18間離れたところに通用門にあたる波戸口門が設けられていました。

② 相橋楼門跡

③ 横町口門跡

④ 藤口門

藤口門跡は、現在の百五銀行・鳥羽支店の辺りだと思うのですが、その名残を確認することはできませんでした。

⑤ 武家屋敷跡

外堀と内曲輪に囲まれた外曲輪部には武家屋敷が配置され、特に、三の丸西側の一段高くなった曲輪には家老屋敷が配置されました。

鳥羽城廃城後は、武家屋敷跡には市役所・城山公園・旧鳥羽幼稚園などが造られ、現在は、民家・NTT・鳥羽市民文化会館などの敷地として利用されています。

⑥ 家老屋敷跡

廃城後、家老屋敷跡地に鳥羽幼稚園が設けられたのですが現在は廃園となっており、往時の名残として野面積の家老屋敷石垣が残されています。

⑦ 大山忯神社

明治40年(1907年)に、九鬼嘉隆が鳥羽城石垣を築く際に邪魔をしたという伝説を残す三鬼神が祭られていた場所に横町・藤之郷・中之郷・錦町の村社として建てられたものです。

三の丸

三の丸は、鳥羽城の東側大手門を通って城内に入ってすぐ眼前に広がる曲輪です。

三の丸の虎口は低い位置に設けられ、そこから三の丸に入るためにはかなりの高さを登っていかなければならない構造となっています(なお、現在はこの高低差にひな壇状の小さな曲輪が設けられていますが、元々この様な構造であったのかは疑問があります。)。

そして、この高さを登り切った先に三の丸があり、現在三の丸広場として整備されています。

二の丸

鳥羽城・二の丸跡は、鳥羽水族館の敷地や近鉄電車の線路跡となっており、往時は現在の近鉄電車の線路と国道部分にまたがって二の丸御殿があったと考えられています。

本丸

本丸は、言うまでもなく城内で最も重要な曲輪であり、鳥羽城本丸には天守も配置されていました。

平成23年(2011年)に行われた発掘調査によって、九鬼時代と見られる16世紀末頃の石垣や雨落ち溝、土蔵、本丸御殿などの遺構が確認されています。

① 本丸石垣

本末の周囲には周囲の海岸部で採取されたと考えられるカンラン岩と千枚岩をによる野面積みの石垣が残存しており、排水のための水抜き杭も見られます。

石垣自体は本丸の周囲に見られますが、特に西側石垣が良好に残存しています。

関ヶ原の戦い以前に積まれたものと考えられますので、九鬼嘉隆城主時代に築かれた石垣の可能性もあります。

② 本丸御殿跡

鳥羽城の本丸御殿は、八畳敷上段、但九尺の床、六尺の付書院ありの275坪の広さの建物でした。

平成23年の発掘調査により本丸御殿の一部とみられる石列が出土しています。

③ 本丸大井戸跡

④ 旧鳥羽小学校跡(本丸南側)

本丸跡の南側には、直後の明治6年(1873年)に創立された鳥羽小学校の校庭として利用された後、昭和4年(1929年)、鉄筋コンクリート造りの旧鳥羽小学校の校舎が建設されました。

同小学校は、が平成21年(2009年)に廃校となったのですが、その後も建物が有形文化財として残されています。

天守

① 天守台

天守台は、明治期以降に削平されて本丸と同じ高さにされているため、現在では、わずかに天守石垣の面影を残すのみで、その遺構は消失しています。

なお、天守台には納戸が設けられていたようです。

また、天守台周辺からは石垣や排水溝などが出土しています。

② 天守

延宝9年(1681年)の記録によると、本丸には高さ約19.5mの3層の望楼型(ぼうろうがた)天守が建てられていたようで、天守の一重目と二重目は正面5間と奥行6間、三重目が3間半と3間1尺の広さを有し、四方には3尺の走りが取り付けられていたそうです。

また、天守の下には土蔵が設けられていました。

安政元年(1854年)に地震により城内天守以下の建物が倒壊したのですが、その修理がなされないまま明治時代のはじめに解体されています。

鳥羽城廃城(1871年)

鳥羽城は、鳥羽藩の藩庁として、九鬼家2代、内藤家3代、天領、土井家1代、大給(松平)家1代、板倉家1代、戸田(松平)1代に使用され、享保10年(1725年)に稲垣昭賢が藩主となった後は、稲垣家8代の本拠地として明治維新を迎えます。

そして、明治4年(1871年)に度会県が置県されたことにより城地が官有地となり、同年に払い下げられた後に破却されました。

また、明治9年(1876年)に蓮池が埋め立てられことにより内陸側の遺構が破却され、さらに造船所が建造されたことにより海側の遺構も失われました。

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