【名和長年】隠岐島脱出直後の後醍醐天皇を支えた建武政権樹立の功労者

名和長年(なわながとし)という名の武将をご存じですか。

名和長年は、伯耆国名和湊付近で力を持っていた豪族で、隠岐島を脱出してきた後醍醐天皇を助けた建武政権樹立の礎となった「三木一草」の1人です。

前半生の記録はほとんど残っておらず、後醍醐天皇を助けた元弘3年(1333年)から、討死をした延元元年/建武3年(1336年)6月までのわずか3年間だけ歴史の表舞台に登場し、後世に名を残した武将です。

名和長年の出自

名和長年の生家である名和家は、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏であり、名和長年が当主を務めていた時期は、地方豪族として活躍していたようです。なお、悪党と呼ばれる武士であったともいわれますが、真偽は不明です。

名和長年の父は名和行高といわれていますが詳細は不明であり、名和長年の生年もわかっていません(名和長年の長男である名和義高が1302年生まれであることから1280年ころの生まれと推測はされます)。

また、名和長年の元服の経緯なども不明で、当初は、「名和長高」と名乗っていたこと以外名和長年の前半生の詳しい内容はほとんど何も分かっていません(名和長年は、当初「名和長高」と名乗っていたのですが、長くて高いのは危険なことであるとして後醍醐天皇から名和長年の名を贈られ改名していますが、便宜上、本稿では名和長年の標記で統一します。)

後醍醐天皇の重臣となる

後醍醐天皇の隠岐島脱出(1333年2月)

名和長年が歴史上に表れるのは元弘3年(1333年)の後醍醐天皇隠岐島脱出からです。

正中元年(1324年)の正中の変・元弘元年(1331年)の元弘の変と2度に亘って鎌倉幕府倒幕計画が発覚したことにより隠岐島に配流されていた後醍醐天皇が、鎌倉幕府の千早城攻めの失態と播磨国の赤松則村(赤松円心)が鎌倉幕府打倒のために挙兵したことを好機と見て、元弘3年(1333年)千草忠顕の引率により隠岐島を脱出します。

元弘3年(1333年)閏2月24日に船で隠岐島を出た後、風に乗って南下した後醍醐天皇は、同年2月28日に現在の鳥取県にあった名和湊に到着します。なお、後醍醐天皇の御着船地点は東西2つの説があり、いずれが真実かは今となってはわかりません(西側の地点には、後醍醐天皇が着船時に腰を掛けて休んだとされる御腰掛の岩が残っていますので、どちらかというと西側の説が有名です。)。

後醍醐天皇を迎え入れる

名和湊に上陸した後醍醐天皇は、力を持つ周囲の武士を探し、名和近辺で海運業を営み力を持っていた名和長年に声をかけます。

後醍醐天皇から協力を要請された名和長年は悩みます。

名和湊周辺で大きな力を持つものの家柄が良いわけでもない身分でもない名和長年としては、後醍醐天皇に協力すれば一族の立場を高めるきっかけとなるものの、反面、後醍醐天皇に協力することは鎌倉幕府を敵に回すことも意味するからです。

悩みぬいた名和長年は、最終的には後醍醐天皇の倒幕運動に協力するという決断をします。

そして、名和長年は、船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に後醍醐天皇の御所として行宮(あんぐう)を築いた上で、急ピッチで兵糧の運び込みなどを行うなどの戦の準備を整えて、後醍醐天皇を迎え入れます。

そして、後醍醐天皇は、この船上山行宮において鎌倉幕府討伐の綸旨を発し、討幕準備を始めると共に倒幕の挙兵をします。

もちろん、後醍醐天皇の挙兵といっても、その兵は名和長年の私兵と領民です。

船上山の戦い(1333年4月24日)

後醍醐天皇が船上山で倒幕のための挙兵したと聞いた鎌倉幕府は、放っておくことはできません。

鎌倉幕府は、直ちに佐々木清高ら3000騎らを船上山に派遣します。

対する名和長年軍は150騎程度といわれており、戦力差は歴然です。

元弘3年(1333年)4月24日、数に勝る鎌倉幕府軍が東側と西側の2方向から船上山に登っていくことで戦いが始まります(船上山の戦い、なお上の図はイメージですので、この場所での戦いだったのかは不明です。参考程度にとどめてください。)。

ところが、船上山を登ってくる鎌倉幕府軍に対し、まずは西側方面の名和長年軍が山上から下り坂を利用して勢いよく突撃を仕掛けます。

圧倒的兵力差に驕っていた鎌倉幕府軍は、予想外の攻撃を受けたことに動揺し、兵が我先にと逃げ出してしまいます。

この鎌倉幕府の西側軍の壊滅が東側軍にも伝播し、鎌倉幕府軍の士気が一気に低下します。

また、このときの東側での戦いの際には、攻撃には弓の名手であった名和長年が、五人張りの強弓を引いて一矢で二人の敵兵を射抜くなどの活躍を見せたこともあって鎌倉幕府東側軍も退却を始めます。なお、このときの船上山での名和長年の奮戦を見た後醍醐天皇は、長年の為に「忘れめや 寄るべもなみの荒磯を 御船の上にとめし心は」という歌を詠んだと言われています(新葉和歌集)。

こうして、船上山で戦いは、名和長年軍の活躍により兵数に劣る後醍醐天皇方が勝利するとの結果に終わります。なお、敗走した佐々木清高率いる幕府軍700余名は、小波城まで撤退していますが、そこも名和長年軍の追撃により陥落し、佐々木清高は城を捨てて隠岐島にまで逃げています。

船上山の戦いの勝利は,たちまち全国に知れ渡ります。

その結果、諸国の御家人たちが鎌倉幕府軍にもはや力がないとしてこれに見切りをつけ、新たな神輿として後醍醐天皇を担ぐために次々と後醍醐天皇の下へはせ参じることとなります。

鎌倉幕府滅亡

西国における討幕運動の高まりに焦った鎌倉幕府は、足利尊氏を派遣して後醍醐天皇軍の鎮圧を試みます。

ところが、当の足利尊氏が、元弘3年(1333年)4月29日、源氏の氏神である八幡大菩薩を祀る篠村八幡宮において反鎌倉幕府の立場を表明して後醍醐天皇方に寝返り(足利尊氏旗揚げ)、東進してきた赤松則村ら周囲の反鎌倉幕府勢力をも取り込んだ上で、同年5月7日、京の鎌倉幕府勢力の拠点である六波羅探題に攻め込んでこれを陥落させます。

また、その後、反鎌倉幕府の流れは鎌倉にも波及し、同年5月22日、新田義貞によって鎌倉が陥落し、北条高時をはじめとする北条氏一門が東勝寺で自刃して鎌倉幕府は滅亡します。

建武政権の幹部となる

六波羅探題が陥落し、鎌倉幕府が滅亡したと聞いた後醍醐天皇は、元弘3年/正慶2年(1333年)6月5日、名和長年らに伴われて京に帰り着きます。

京に戻った後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡に伴って自身の下に戻ってきた政治の実権を駆使し、天皇親政を行うため大改革をはじめます。天皇親政の復活です(建武の新政)。

また、建武政権樹立の論功行賞も行われます。

このとき、名和長年は、旗揚げ直後からの腹心となる「三木一草」の1人として大抜擢がなされ、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。また、名和長年は、同人を通じて後醍醐天皇が京都の商業・工業を直接掌握するため、それまで代々中原氏が世襲をしてきた京都の左京の市司である東市正に任じられました。さらに、後醍醐天皇から伯耆国・因幡国守護に任じられます。

なお、「三木一草」とは、建武政権樹立の功労者である4人、結城親光・名和長年・楠木正成・千種忠顕の総称で、「ユウキ」、「ホウキ(名和が伯耆守であったため)」、「クスノキ」、「チクサ」と4人の姓や官職の読みにちなみます。

地方の一豪族からすると考えられない大出世です。

ところが、後醍醐天皇により進められた建武の新政は、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、発足当初から数々の問題が露呈します。

名和長年の最後

建武政権の崩壊

その後、足利尊氏が、護良親王の失脚と中先代の乱を契機に不平武士の不満を吸い上げて建武政権から離脱します。

このとき、名和長年は、楠木正成・新田義貞・北畠顕家らと共に後醍醐天皇方の主力として戦い、一旦は足利尊氏を九州に追い払いますが、九州で勢力を整えて再度京に戻ってくるべく進軍してくる足利尊氏が、途中、建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いで楠木正成を討ち取り、新田義貞をうち払うと、もはや建武政権側にこれに抗う力はありませんでした。

そして、ついに足利尊氏が、京に向かって逃げる新田義貞を追って後醍醐天皇がいる京に向かって進軍していきます。

京での防衛戦では勝ち目がないと判断した後醍醐天皇らは、足利尊氏が京に上って来る前に三種の神器を持ち、また名和長年ら重臣を引き連れて比叡山に逃れます。

足利尊氏入京(1336年5月25日)

京に入った足利尊氏は、東寺に入って陣所とし、京に残っていた光厳上皇と協議の上で、光厳上皇を治天の君に擁立した上で、その弟豊仁(後の光明天皇)を天皇に据えることを決めます。

もっとも、天皇の要件となる三種の神器は後醍醐天皇が持っていますので、光厳上皇・足利尊氏方に天皇を擁立する正当性の根拠がありません。

そこで、足利尊氏は、比叡山に逃れた後醍醐天皇から三種の神器を奪い取ろうとする強硬策をとります。力ずくで比叡山に籠る後醍醐天皇から三種の神器を奪い取ろうと考えたのです。

足利尊氏による比叡山攻撃

そして、足利尊氏は、比叡山の東西に軍を回して比叡山に迫ります。

これに対する後醍醐天皇は、西側に千種忠顕軍を、東側に新田義貞・名和長年・脇屋義助軍を配置して迎え撃つことによって戦いが始まります。

そして、延元元年/建武3年(1336年)6月7日、このときの西側の戦いで、千種忠顕が足利直義に敗れて山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で戦死しています。

もっとも、足利尊氏軍の損害も大きかったため、足利尊氏は一旦京に撤退します。

そのため、後醍醐天皇軍の名和長年・新田義貞らがそれを追撃し、足利尊氏がいる東寺を囲みますが、攻略することはできません(東側から迫った新田義貞が、足利尊氏に対して一騎打ちを求め、足利尊氏がこれに応じるため東側から出て行こうとした際、部下の上杉伊豆守らに止められて東側の門から出られなかったというエピソードが残されており、これが東寺の東門が不開門と呼ばれる理由です。)。

名和長年討死(1336年6月30日)

足利尊氏を討ち取ることは困難と判断した名和長年・新田義貞らは、東寺の囲みを解いて比叡山に向かって撤退していきます。

ところが、撤退していく後醍醐天皇軍に対し、今度は足利尊氏軍が追撃軍を出し、撤退途中の名和長年が、延元元年/建武3年(1336年)6月30日、追撃してくる足利軍と戦って一条院跡付近(現在の名和児童公園付近)で戦死します。なお、討死場所については、太平記では京都大宮、梅松論では三条猪熊とされており、正確なところはわかりません。

贈位

後醍醐天皇に尽くした名和長年を祀るため、承応・明暦期(1652年~1658年)に地元民により名和邸跡とされる場所に小祠が建立された後、延宝5年(1677年)に鳥取藩主であった池田光仲が、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座して山王権現を末社として「氏殿権現」と称し、名和長年を主祭神とする名和神社(建武中興十五社の1社)が創建されています。

そして、その後、天皇に準じた英雄として楠木正成と共に日本統治のプロパガンダとして利用され、明治9年(1876年)6月22日、楠木正成を祭る楠社(現在の湊川神社)が別格官幣社であるのと比較して不公平との申し出を受け、明治11年(1878年)1月10日に社号を名和神社に改定した上で菊池神社と共に別格官幣社に列しています。

また、その後、名和長年に対し、明治19年(1886年)8月6日に正三位、昭和10年(1935年)には従一位が追贈されています。

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