【九鬼嘉隆】鉄甲船を駆使して毛利水軍を粉砕した志摩国の海賊大名

九鬼嘉隆(くきよしたか)は、織田信長・羽柴秀吉の水軍を支えた海賊大名として有名です。

志摩国の国衆として身を起こし、一旦は国を追われたものの織田信長の下で出世を遂げ、志摩国一国を含めた3万5000石を擁する大名となるまでに出世をしていきます。

また、第二次木津川口の戦いの際に、船を鉄板で覆って防御力を高め、積載した大砲で敵船を粉砕する鉄甲船を駆使したことにより、今日にまで名を残すほど有名大名となります。

もっとも、この後の活躍は結構微妙で、文禄の役では朝鮮水軍に敗れて叱責を受け、関ヶ原の戦いで西軍に味方した責めをとって自刃するという最期を遂げています。

本稿では、波乱万丈な人生を送った海賊大名・九鬼嘉隆の人生について見ていきたいと思います。

九鬼嘉隆の出自

九鬼嘉隆出生(1542年)

九鬼嘉隆は、天文11年(1542年)、志摩国英虞郡に本拠(波切城【現在の三重県志摩市大王町波切】・田城城【現在の志摩市阿児町甲賀】)を置く九鬼定隆の三男として生まれます。なお、九鬼定隆には嫡男の浄隆がいたため、九鬼義隆が九鬼家を継ぐ予定ではありませんでした。

九鬼家がいる志摩国は、当時の国の中で最も面積が小さい上、海と山に囲まれた耕作地のとても少ない国であり、そこに本拠を置く小豪族であった九鬼家については、文献がほとんど存在しておらず、その祖はおろか九鬼嘉隆以前の九鬼家の歴史についてはほとんどわかっていません。。

九鬼家についてわかっているのは、大小の島が点在し複雑な水路を成しているため、潮流が激しかったり何度も風向きが変わったりするなど、海の難所である志摩国に本拠を置いていたということから、帆別銭(ほべつせん)を徴収したり、難破した船から積荷を掠めたりする海賊行為を繰り返していた一族だったということだけです。

波切城の城代となる

天文20年(1551年)、九鬼定隆が死去したことより、九鬼家の家督を長兄である九鬼浄隆が継ぎ、本拠地・田城城に入ります。

そして、九鬼嘉隆は、その支城であった波切城に城代として入りました。

本拠地を失い朝熊山へ逃亡(1565年)

このころ、志摩国には、十三地頭と呼ばれた13人の国人衆がいたのですが(鳥羽衆、賀茂衆、小浜衆、千賀衆、国府衆、甲賀衆、安楽島衆、浦衆、安乗衆、的矢衆、和賀衆、越賀衆、九鬼衆)、新参者である九鬼衆の力が大きくなっていった時期でした。

そのため、永禄3年(1560年)、大きくなりつつあった九鬼衆の力を削ぐため、志摩国の他の地頭12人が、伊勢国司・北畠具教の援助を受けて、九鬼家の居城であった田城城に攻撃を仕掛けます。

このとき、防戦を強いられた九鬼家当主の九鬼浄隆が合戦中に病を得て急逝します。

その結果、九鬼家の家督を幼少の嫡男澄隆が継ぐこととなったのですが、当主を失った九鬼家は、混乱して戦意が低下し、地頭衆連合軍に敗れてしまいます。

こらえきれなくなった九鬼嘉隆も、永禄8年(1565年)、波切城を捨てて朝熊山・金剛證寺へ逃亡します。

当時、朝熊山・金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門を守る寺として力を持っていたため、12人の地頭たちは九鬼嘉隆に手出しができなくなり、24歳であった九鬼嘉隆は、朝熊山・金剛證寺に潜んで時期が来るのを待つこととなりました。

織田信長に仕える

織田信長に仕える(1566年3月)

潜伏生活をしていた九鬼嘉隆は、永禄9年(1566)3月、ツテをたどって滝川一益を頼り、朝熊山・金剛證寺を下ります。

この選択は、九鬼嘉隆に最良の結果をもたらしました。

このとき滝川一益が仕えていた織田信長は、美濃国攻略戦の終盤を迎え、次の攻略先として伊勢国・近江国を見据えていた時期だったのですが、海に面した伊勢国や琵琶湖水運が発達した近江国に侵攻するために必要となる水軍を織田家が持っていなかったからです。

織田信長としても、海賊として船を操る術を熟知し、また伊勢国や志摩国の状況を熟知する九鬼嘉隆が、ちょうどいいタイミングでやってきたことを好機ととらえ、直ちに九鬼嘉隆を採用して滝川一益の与力とします。

この人事は、九鬼嘉隆にとっても渡りに船でした。

滝川一益の下で、志摩の国衆を扇動して九鬼嘉隆を追い出した南伊勢を治める北畠具教と戦うことが出来るためです。

伊勢国攻略戦

(1)北伊勢攻略戦

永禄10年(1567)に美濃攻略を成した織田信長は、休む間もなく北伊勢獲得を目指し、その攻略を滝川一益に命じます。

当然、滝川一益の寄騎となった九鬼義隆もこれに参戦します。

このころの北伊勢は、北八郡に神戸家と長野家を中心として小豪族が割拠して争っていたため、滝川一益は両家に調略をかけるところから始め、最終的には、神戸家には織田信長の三男・三七丸(後の織田信孝)、長野家には舎弟の織田三十郎信包を養子として両家を乗っ取ることにより北伊勢を手中に収めます。

(2)南伊勢攻略戦

北伊勢獲得の次は南伊勢です。

南五郡は、九鬼義隆の旧敵でもある北畠具教の支配下にあり、永禄12年(1569年)、南伊勢攻略軍が出陣します。

攻略軍の総大将となった滝川一益は、北畠具教の実弟である木造城主・木造具政を調略した上で、北畠具教の籠る大河内城を包囲します。

その上で、大河内城に周辺住民を誘導し、また九鬼義隆が四散していた九鬼海賊衆を結集して編成した水軍の軍船を並べて海上封鎖を行った上で大鉄砲を撃ち込み、大河内城の支城として伊勢湾からの補給の要となっていた大淀城を攻略します。

さらに、三鬼城や長島城攻めにおいても、海上から十艘の軍船で攻撃を加え、その攻略に貢献します。

これらの戦果により、大河内城は完全に孤立して補給の術を失ったため、永禄12年(1569年)10月3日、北畠具教は、織田信長の次男の茶筅丸(後の織田信雄)を養子として受け入れる形で降伏し、織田信長が南伊勢を平定します。

織田信長に志摩国の領有権を認められる

志摩国平定を命じられる

伊勢国攻略戦において、水軍(軍船)の重要性を痛感させられた織田信長は、これを駆使する九鬼義隆を高く評価し、九鬼義隆を伊勢国攻略戦の武功一番とし、志摩国の平定を命じます。

志摩国攻略戦

そこで、九鬼嘉隆は,志摩国攻略のため、まず、志摩国の地頭連合の盟主的存在となっていた鳥羽監物・鳥羽主水父子に対して臣従を迫ったのですが、これを拒否されます。

そこで、九鬼義隆は、擁する船団を率いて鳥羽家の本拠である泊浦(鳥羽)の砦を囲み、一斉射撃を行います。

圧倒的な戦力差を見せつけられた鳥羽監物は、末娘を九鬼嘉隆の正室として差し出して降伏し、泊浦(鳥羽)の砦を九鬼義隆に明け渡します。

志摩国で強い影響力を持つ鳥羽家と血縁関係を結ぶことに成功した九鬼嘉隆は、続いて、残りの地頭たち対し、鳥羽砦に伺候して恭順の意を示すことを促す書状を送ります。

もっとも、これにより傘下に下った地頭は僅か2人に過ぎず、九鬼嘉隆に対する不信感は大きいものでした。

特に、浦砦の和田大学助は、九鬼義隆が遣わした使者の首を刎ねるなどの挑発行為にまで至ります。

怒った九鬼義隆は、すぐさま討伐軍を出陣させ、和田大学助とその一族郎等を皆殺しにしたのですが、皮肉にも、この九鬼義隆の処遇を見た残りの地頭たちが、逆に臣従を躊躇する結果となってしまいます。

特に、かつて、北畠具教の海賊大将を務め、九鬼義隆を志摩国から追放した小浜景隆は、一族郎等総出で船に乗り込み、志摩国からの脱出を試みました。また、このとき、志摩国において小浜家に次いで大きな勢力を誇っていた向井正重も、小浜景隆と行動を共にします。

小浜・向井の連合船団を逃しては示しがつかないと考えた九鬼義隆は、伊勢湾を抜け南へと向かう連合船団を追撃し、海戦の結果これらを打ち破ります。

この戦いにおいて、小浜景隆・向井正重の両名を討ち取ることはできなかったのですが、小浜・向井両家を追い出した上、志摩国の他の地頭衆も最大勢力となっていた九鬼義隆に味方することとなったため、志摩国から敵対勢力がいなくなり、九鬼嘉隆による志摩一国平定が完成します。

なお、志摩国を脱出した小浜景隆と向井正重は、東に向かい、当時、武田信玄の駿河国侵攻戦に勝利して海を獲得し水軍の編成を進めていた武田水軍の将となり、武田家滅亡後には、その地を引き継いだ徳川水軍の将となっています。

志摩一国領有

この志摩一国の切取りの功により、九鬼義隆は、織田信長から侍大将に列せられ、志摩国の領有を認められます。

また、織田信長によって、九鬼義隆の九鬼家の家督相続手続きが進められ、九鬼義隆は、正式に九鬼家の第11代当主となります(なお、家督相続については、天正11年/1583年に甥の九鬼澄隆を殺して奪ったという説もあります。)。

その後、九鬼義隆は、志摩国で水軍の編成を進め、天正2年(1574年)には、織田信長による伊勢長島一向一揆鎮圧戦に際しては、水軍の将として支城の攻略から長島城の包囲までを担当し、大きな武功を挙げています。

木津川口の戦い

第一次木津川口の戦い(1576年7月)

織田信長は、足利義昭を擁して上洛した後にまたたく間に畿内のほとんどを制圧したのですが、ここで石山本願寺の立地の有用性を欲して、本願寺に対して代替地と交換に石山御坊からの退去を求めます。

これに対し、本願寺顕如は、阿波国に追い払われた三好三人衆が畿内に戻って野田城・福島城を建築し織田信長に宣戦布告したことをきっかけとして、三好三人衆と協力して織田信長と対立する道を選んだため、10年もの長きに亘る石山合戦が始まります。

このときの本願寺の勢力地として石山・伊勢長島・越前がありましたので、織田信長は、石山本願寺の囲みを維持しつつ、まず伊勢長島・越前を攻略します。

その上で、織田信長は、天正4年(1576年)4月14日、陸上に6つの砦を築いて再度北・東・南の三方からの石山御坊包囲を試みます。

陸路を完全に封鎖された本願寺は、物資・兵糧に困窮し、西の超大国毛利輝元に対して海路による西側からの援助を要請し、同年7月15日、これに応じて毛利方が派遣した補給船600艘と、警固船300艘(児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝ら小早川水軍に因島・能島・来島の各村上水軍等)と織田水軍300艘が、木津川沖で海戦となります(第一次木津川口の戦い)。

この海戦は、毛利水軍が、焙烙玉を用いた攻撃などを駆使した毛利水軍により、織田水軍の安宅船10艘、警固船300艘が破られ、また織田方の数百人が討ち取られるという織田方の大敗北に終わり、織田氏の海上封鎖を破った毛利水軍がゆうゆうと石山御坊に物資をとどけることに成功します。

織田信長による敗因分析と鉄甲船建造

第一次木津川口の戦いで惨敗した織田信長は、直ちにその敗因を分析し、その原因は毛利水軍の焙烙玉に対処できなかったことにあると分析します。

その上で、急いで織田水軍を鍛えたとしても、海賊業で鍛えられた鉄砲の射程距離外から一気に詰めて高い精度で焙烙玉を投げ込んで織田水軍の船に火をつけそのまま逃走するという毛利水軍(村上水軍)の一撃離脱戦法を、練度に劣る織田水軍で対応することは不可能であると判断します。

困った織田信長は、ここで奇想天外なアイデアをひらめきます。

焙烙玉を交わすことが出来ないのであれば、焙烙玉を無効化する策を考え出したのです。

燃えない船で有名な鉄甲船の建造です。

織田信長は、直ちに、九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に命じ、船の外側を薄い鉄で覆った燃えない黒船(大型安宅六艘・鉄甲船)の建造を命じます(なお、滝川一益にも一艘の大船を建立させています。)。

その後、新造船を完成させた九鬼義隆は、天正6年(1578年)6月、伊勢大湊を出発し、紀伊国の沿岸部を時計回りに進んで大坂へ向かって行きます。

そして、同年6月26日に熊野浦を通過し、その後、雑賀近海を通過する際に入れられた雑賀衆の横槍を打ち払った後、同年7月14日に堺湊にまで進めて、同年9月30日に織田信長の船揃いを受けます。なお、同年10月1日には見物人にも披露されており、このとき、この鉄甲船を見たポルトガル人宣教師オルガンチノは、バチカンへの報告書に、ポルトガル船に似た日本国で最も大きく華麗な船であったと書き記しています。

第二次木津川口の戦い(1578年11月)

その後、九鬼義隆は、いよいよこの新造船を木津川口まで進めて待機させ、本願寺の海上補給ルートを遮断するために石山御坊へ向かう毛利水軍の船団を待ち受けます。

そして、天正6年(1578年) 11月6日午前8時ころ、前回同様、石山御坊に向かう毛利水軍600 艘が、待ち受けていた織田水軍と木津川河口で対峙することとなり、第二次木津川の戦いが始まります。

このときもまた、毛利水軍は、小早舟と焙烙火矢・焙烙玉を用いた戦法をとりますが、織田水軍の鉄甲舟には焙烙玉によって着火することがなく、また船の大きさの違いから鉄甲船に乗り込んで制圧することもできません。

そればかりか、鉄甲船からは雨のように大砲が撃ち込まれ、毛利水軍の船は次々と撃沈していきます。

そのため、織田水軍の鉄甲船を突破できないと判断した毛利水軍は、4時間程の戦闘の後、石山御坊への物資搬入をあきらめて帰国の途に就きます(第二次木津川口海戦)。なお、この戦闘結果については、信長公記などでは織田水軍の大勝利とされていますが、織田方による大本営発表である可能性もあります。

こうして、海上封鎖にも成功した織田軍は、同年11月24日に茨木城を開城させ、また翌天正7年(1579年)11月に有岡城が陥落して荒木村重の反乱も鎮圧された結果、補給路を失った石山御坊が降伏し、石山合戦は終わります。

論功行賞

毛利水軍を破り石山合戦終結の立役者となった九鬼義隆は、その功から、戦後の論功行賞において、それまでの志摩国に加え、摂津野田・福島7000石を加増され、計3万5000石を領する大名となります。

また、天正9年(1579)正月には、安土城に招かれ、織田信長麾下の諸大名の前で、織田信長から直々に盃を与えられ「日本一の水軍の将である」と称えられています。

このとき以降、九鬼義隆は、に駐留していたようで、津田宗及の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催したりなどして文化的側面を見せています(宗久記)。

羽柴秀吉に従う

本能寺の変(1582年6月2日)

もっとも、順調に出世をしていた九鬼嘉隆に転機が訪れます。

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が、明智光秀の謀反によって横死してしまったのです(本能寺の変)。

その後、中国地方で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉が、即座に畿内に取って返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を討ち取ったのですが、他方で、九鬼義隆の事実上の寄親となっていた滝川一益が、関東の統治に手こずったために、織田信長の仇討ちはおろか、その後の帰趨を決定付ける清州会議にも参加できなかったため、滝川一益や、その寄騎である九鬼義隆の地位が相対的に低下します。

羽柴秀吉に下る

清須会議の結果、主君の仇をとった羽柴秀吉の言に重きがおかれ織田家をまだ幼い三法師(織田信忠の嫡子)が継ぐことに決まり、その後、織田家内で、柴田勝家・滝川一益と羽柴秀吉・丹羽長秀との間で主導権争いが表面化していき、また、これに加えて、織田信長の次男織田信雄と三男織田信孝の対立との対立も加わって羽柴秀吉と柴田勝家との関係が悪化し、一触即発の状態となります。

そして、天正11年(1583年)2月、柴田勝家が、羽柴秀吉の横暴に耐えきれなくなり兵を挙げたことをきっかけに賤ヶ岳の戦いが始まります。

この戦いにおいて、九鬼嘉隆は、滝川一益の与力として、柴田勝家・滝川一益方についたのですが、この戦いにより、柴田勝家と織田信孝が敗れて死亡し、滝川一益も所領没収の上で越前国・大野に蟄居させられました。

当然、九鬼嘉隆にも処罰の手が及ぶはずだったのですが、九鬼水軍の有用性を欲していた羽柴秀吉は、九鬼嘉隆を無罪放免とします。

羽柴秀吉の下で水軍の将となる

そして、この後、九鬼嘉隆は、滝川一益の勧めにより羽柴秀吉に下り、羽柴秀吉の天下統一戦に従います。

まず始めは、徳川家康との小牧・長久手の戦いでした。

この戦いでは、九鬼嘉隆が羽柴水軍として出陣し、伊勢国・松ヶ島城の海上封鎖、三河国沿岸の襲撃、蟹江城合戦に参戦し、また徳川家康に下っていた志摩国での宿敵・小浜景隆擁する徳川水軍と戦います。

この戦いで、九鬼嘉隆は、小浜景隆をあと一歩まで追い詰めましたが、今一歩のところで逃しています。

その後、南伊勢に入封した蒲生氏郷の与力となって四国征伐、九州征伐、小田原征伐に従軍し、各地を転戦しています。

文禄の役(1592年)

奥州仕置により日本統一を果たした羽柴秀吉は、朝鮮半島を目指して進軍を開始したのですが(文禄の役)、九鬼嘉隆は、日本水軍の将として朝鮮へ渡海します(もっとも、九鬼嘉隆率いる日本水軍が、朝鮮水軍に手痛い敗北を喫し、九鬼嘉隆は、その責任を押し付けられてしまい、その後の慶長の役には参集されませんでした。)。

鳥羽城築城(1594年)

九鬼義隆は、答志郡鳥羽(現在の三重県鳥羽市)を本拠地と定め、リアス式海岸の中に佇む小山(樋の山)という水軍基地として申し分ない立地を最大限活用するため、鳥羽湾を航行する船を引き込むことができる形に造成して築城作業を開始します。

そして、文禄3年(1594)年、同地に海城となる鳥羽城を完成させます。

鳥羽城は、海賊大名といわれる九鬼義隆の本拠に相応しく、海側に大手門が設けられている極めて珍しい構造となっていました。

九鬼嘉隆の最期

九鬼義隆隠居(1597年)

九鬼嘉隆は、慶長2年(1597年)、九鬼家の家督を子である九鬼守隆に譲って隠居します。

関ヶ原の戦いで西軍に与する

豊臣秀吉・前田利家が相次いで亡くなったことにより、豊臣政権内で、文治派と武断派との争いが起こります。

そして、この争いは、文治派をまとめていった石田三成方と、武断派をまとめていった徳川家康との戦いに発展します。

このとき、九鬼家では、当主・九鬼守隆が早々に徳川家康に味方する旨の意思を表明します。

もっとも、石田三成方も次第に勢力を整え、天下を二分した戦いになることが明らかとなります。

そのため、一旦は徳川家康につくことを表明したものの、そのまま徳川家康に味方するか、意思を翻して石田三成につくかで議論が重ねられます。

この判断を誤れば九鬼家滅亡に繋がる可能性もあるため、究極の決断です。

最終的には、石田三成と徳川家康のどちらかが勝利しても九鬼家が残るという判断の結果、当主・九鬼守隆はそのまま徳川家康方に味方する一方で、前当主である九鬼義隆が石田三成方に味方することで袂を分かつ決断が下されます。

これは、石田三成と徳川家康のどちらが勝利しても九鬼家が残るとする苦渋の選択でした。

関ヶ原の戦いは、徳川家康が兵を率いて会津の上杉景勝の討伐に向かったことから始まっていくのですが、この会津征伐に、九鬼家当主である九鬼守隆も兵を率いて参陣しました。

そうしたところ、九鬼義隆は、徳川家康方の兵がいなくなった隙に、鳥羽城を奪取してしまいます。

そして、九鬼義隆は、鳥羽城を拠点として伊勢湾の海上封鎖を行い、慶長5年(1600年) 8月24日の安濃津城の戦いの勝利に貢献します。

もっとも、同年9月15日に行われた関ヶ原の戦いの本戦において石田三成率いる西軍が敗れると、九鬼嘉隆も鳥羽城を維持することが出来なくなります。

そのため、九鬼嘉隆は、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡し、同島において蟄居生活を始めます。

九鬼嘉隆切腹(1600年10月12日)

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、九鬼嘉隆の処分を検討します。

このとき、徳川家康方についた九鬼守隆が、自らの恩賞と引き換えに、九鬼嘉隆の助命を願い出たのですが、徳川家康はなかなかこれを許しませんでした。

大きな水軍力を有する九鬼嘉隆を放免し再度敵対されることがあれば、面倒なこととなると考えたからです。

この話を聞いた九鬼嘉隆は、自分の命が続いていれば九鬼家の将来が危なくなると考え、その進退を決する決断をします。

もっとも、徳川家康は、このまま九鬼嘉隆の処罰を強行すれば、九鬼守隆までも敵に回すこととなると考え、最終的には、九鬼守隆の助命嘆願を聞き入れて、九鬼嘉隆を放免することとしました。

ところが、九鬼守隆による助命がなされたという使者が九鬼嘉隆の下に到着する前に、九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が九鬼嘉隆に自刃を促します。

九鬼嘉隆は、この自刃勧告を受け入れ、慶長5年(1600年)10月12日、自らの首を鳥羽城が見える場所に埋めてほしいと言い残し、和具の洞仙庵において自らの首を刎ねる方法で壮絶な最期を遂げます。享年は59歳でした。

九鬼嘉隆の首級は、首実検のために徳川家康のいる伏見城に送られることとなったのですが、その途中で伊勢国・明星において九鬼守隆の使者により確認されます。

残された九鬼嘉隆の胴体は、答志島・洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられました(なお、現存する胴塚は、このときに九鬼守隆が建てたものではなく、寛文9年/1669年に孫の九鬼隆季が再建したものです。)。

また、伏見城に運ばれた首級は、答志島へ戻り、九鬼嘉隆の遺言に従って鳥羽城が見える築上山頂に胴体とは別に葬られ、首塚が建てられました。

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