【岸和田城(続日本100名城161番)】紀州徳川藩の裏切りに備えた城

岸和田城は、現在の大阪府岸和田市岸城町にあった惣構え構造を有する巨大な平城で、江戸時代には岸和田藩の藩庁も置かれていました。

岸和田城は、別名として猪伏山榺城、蟄亀利城、千亀利城と呼ばれます。榺(ちぎり)とは、機のタテ糸を巻く器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形がこの榺に似ているところからそう呼ばれています。

残念ながら、明治維新後の廃城令により、石垣と堀の一部を残して取り壊されていますので、現在残る遺構はこれらのみです(天守を含め現存するその他の建築物は再建されたものです。)。

岸和田城の歴史

岸和田城の築城

いつ誰が最初に岸和田城を建築をしたかについては定かではありません。

建武の新政期に活躍した楠木正成の配下に岸和田治氏という武将がおり、その一族が1400年ころに岸和田近辺を開拓したと考えられていますが、少なくともその頃築城がなされた記録はありません。

正確なところはわかりませんが、15世紀後半に現在の岸和田城跡の約500m南東に山城(岸和田古城)が建築され、これが16世紀初頭に放棄されて信濃泰義によって現在の岸和田城跡に移築されたと考えられています。

記録上最初の岸和田城

岸和田城の存在が明らかとなっているのは、永禄元年(1558年)に松浦氏が岸和田城を居城としていたころからです。

その後、松浦氏、織田信張、蜂屋頼隆へと城主が変わっていきます。

なお、築城当初から天正13年(1585年)ころまでの岸和田城は、現在の二の丸を主郭し、二の曲輪に「あぶみ堀」があり南西に馬出を備える構造で、二の丸付近まで海水が差し込み、芦原が広がっていたと考えられています。

天正11年(1583年)、根来寺などの紀州勢力への抑えとして羽柴秀吉の家臣中村一氏が岸和田城に入ります。

そして、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた際には、中村一氏と松浦宗清が城兵8000人でこれを守り切ります(岸和田合戦)。なお、この時、無数の蛸に救われたという伝説もあります(蛸地蔵伝説)。

この岸和田合戦の功により、天正13年(1585年)中村一氏は、近江国6万石・水口岡山城主を拝領して転封、松浦宗清は伊勢国に加増転封となり、その後豊臣秀吉が根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するために岸和田城に入城します。

小出秀政による大規模改修

豊臣秀吉は、そこから貝塚の諸城を落城させ最後に積善寺城、沢城を開城させた(千石堀城の戦い、紀州征伐)、天正13年(1585年)、羽柴秀吉が紀州根来寺を壊滅させ、以降叔父の小出秀政に4000石を与え岸和田城主として治めさせます。

天正15年(1587年)、1万石に加増された小出秀政が城郭整備と城下町として町曲輪(本町・中町)の建設に取り掛かります。

文禄4年(1595年)、3万石に加増された小出秀政が天守造営に着工し、慶長2年(1597年)に完成させます。

松平康重による大規模改修

元和5年(1619年)、小出吉英が但馬国出石に転封し、松平康重が丹波篠山より入城します。

松平康重は、岸和田城を総構え構造に整備し、海岸部に城の東側に2重(海岸部と城下町を区切る浜の石垣を含む)、西側に1重の外堀が築かれます。

また、城下町の整備も行われて、町曲輪の南に南町、北に堺町・魚屋町・北町にあたる町域が成立します。

なお、元和9年(1623年)、伏見城より移築された伏見櫓が二の丸に設置されたそうです。

岡部宣勝による大規模改修

その後、松平康映が播磨国山崎に転封し、寛永17年(1640年)、岡部宣勝が、6万石にて摂津高槻城より移封されて岸和田城に入り、城地・城下町を整備拡張します。

なお、余談ですが、岸和田城が小藩に似つかわしくない惣構え構造の巨大な城となった理由は、元和5年(1619年)10月に紀州に入った徳川御三家・徳川頼宣が、由井正雪の乱に関して江戸幕府より謀反の嫌疑をかけられ、その居城である和歌山城に対する抑えのために紀州から大坂・京に向かう紀州街道の途中にある岸和田城を2重の外堀と巨大な総構え構造にしてこれを迎え撃つことができる規模としたことによります。

この時代に、外曲輪が築かれ堺町がこの内となり、また南町雄心寺跡地と沼村領内にそれぞれ新屋敷が築かれ、寺前川寺前橋から鯔川勘太夫橋まで南北約1.9kmの城下町が完成します。

その後、明治4年(1871年)に廃藩置県により岡部長職が東京に居住して廃城となるまで、岸和田城は、岡部氏が13代に亘って岸和田藩を統治するための藩庁として使用されました。

岸和田城の縄張り

岸和田城は、西側を海で守り、変形多角形の本丸が水堀切に囲まれ、その北西に馬出状に設けられた二の丸と北・東・南に水堀を隔てたコの字形に二の曲輪が取り囲み、その外周をさらに水堀と三の曲輪と外曲輪が取り囲む輪郭式平城となっています。

岸和田城外郭(惣構え)

①外堀

明治30年(1897年)に開通した南海電車が城下町の東端沿いを走っており、現在の岸和田駅と蛸地蔵役との間の線路部が、概ね城郭南東を囲む外堀の位置に敷設されています。

②浜の石垣

松平康重が藩主の時代に、当時の海岸線沿いであった町曲輪・外曲輪の北西縁に,沿岸防衛と防潮堤の役割のために「浜の石垣」が築かれ、町曲輪の出入口として浜の石垣に2箇所の「汐入門」が設置されました。

浜の石垣は,明治以降に取り壊しが進み、現在では中町児童公園の近くに幅9m、高さ2m程度が残存するのみとなっています。

町曲輪・外曲輪(城下町)

岸和田城の城下町は、内曲輪の西側にある本町・中町付近を中心に紀州街道に沿って南北に広がって存在しています。

紀州街道が町曲輪・外曲輪を縦貫し、街道筋の北側から順に堺口門、内町門、伝馬口門が設置されていました。

また、町曲輪の北東に北大手門があり、そこから三の曲輪に入る構造となっていました。

江戸時代の前半には、北の野村の石橋から南の南町の石橋まで約1.6kmの大きさとなり、城下の道はところどころ屈折して敵の進入を困難にさせる構造となっています。この道を屈折させた構造が、現在のだんじり祭りでの動きのダイナミックスさを生んでいます。

三の曲輪

三の曲輪は、二の曲輪を北・東・南をコの字形取り囲む構造となっています。

三の曲輪には,南西部に三の丸稲荷(現在の三の丸神社)がありました。

二の曲輪

二の曲輪は内堀の外側、一重目の外堀の内側にあり,本丸・二の丸を北・東・南をコの字形取り囲む構造となっています。ます。

またこの二の曲輪・南西部には馬の鐙のような形をした「あぶみ堀」があり、これは二の丸が本城であった頃の馬出の名残ではないかと考えられている。

また、二の曲輪南東部には、輪新御茶屋・薬草園の跡地に当地の財閥・寺田利吉が明治4年(岸和田城の廃城年)から10年かけて造営した邸宅「五風荘」跡地が残っています。

二の丸

二の丸は、比高10m弱の段丘末端に位置する約8000m²もの広さの曲輪であり、岸和田城築城時は海に突き出た小高い丘でした。

慶長2年(1597年)に小出秀政が本丸に天守を建築するまではこの二の丸が本丸とされており、その後本丸が現在の場所に移された後は城主の住居である二の丸御殿や政庁などが置かれました。

また、元和9年(1623年)に伏見城より移築された伏見櫓が北角にありましたが、現在は残っていません。

なお、二の丸北東角部には多聞櫓が復興され、櫓トイレとして使用されています。

明治維新後に、二の丸の大部分が町役場・学校・公会堂などの公用地となりました。

現在は、二の丸公園として整備され、その中に昭和36年(1961年)に市民道場である「心技館」も建設されています。

二の丸西側の段丘崖下低地の大部分は町人区であり、この中を、南北に紀州街道が貫いています。

なお、二の丸西側にある水堀は城下と城とを隔てる長いものであり、その長さから百間堀と呼ばれています。一部埋め立てられ、現在は160m程度が残されています。

本丸

本丸の面積は、約4702㎡(1425坪)で、本丸石垣東隅のには16世紀前期~中期のものとみられる百数十基の墓石が使用されていることがわかっており、このことから本丸石垣の建築が1560年よりも後であることがわかっています。

①櫓門

本丸正面(西側)には、昭和44年(1969年)に復興された櫓門が設置されています。

また、本丸南側には、復興された多聞櫓・隅櫓が設置されています。

②犬走り

本丸石垣には南東および南西側下部に、犬走と呼ばれる周堤帯が存在します。

犬走りは、敵進入の足場となるため防御構造という見地から見ると非常に不利なものですが、脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためにやむを得ずこのような構造をとることとなったと言われています。

③八陣の庭(参考)

本丸中央部には、昭和28年(1953年)7月に重森三玲の設計で作庭された砂庭式枯山水庭園(八陣の庭)があります。

この庭園は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されています。

天守

①天守台

天守台の大きさが、南北・東西共に約18m、面積は336m²であり、天守の高さは18間(32.4m)といわれ当時の岡山城と同規模の天守だったと考えられています。

②構造

元々あった岸和田城の天守は、江戸時代の絵図より外観5層構造であったことが明らかとなっており、初層は千鳥破風であったが、後に唐破風が取り入れたように見受けられます。

もっとも、文政10年(1827年)11月20日の落雷によって消失し、その後は再建されることなく、明治4年(1871年)に廃城とされました。

③現在の天守

その後、昭和29年(1954年)、旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより、図書館として利用するために市民の寄付を募って大天守と小天守が連なる連結式望楼型3層天守として再建されました。

現在の天守の高さは、石垣の高さが約5m、石垣上端から鯱を含めた高さが約22mであり、当初の天守より約10m低いものとなっています。

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