【徳川頼宣】徳川家康に愛され徳川秀忠に疎まれた御三家紀州藩の祖

徳川御三家・紀州徳川藩の藩祖をご存知ですか。

徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)です。暴れん坊将軍で有名な江戸幕府8代将軍徳川吉宗の祖父でもあります。

徳川家康に寵愛され、その死後も武断政治の先鋒として幕政に影響力を及ぼしていたにもかかわらず、晩年には幕府への謀反を疑われ江戸に10年もの長きに亘ってとどめ置かれるという苦労も経験しています。

本稿では、そんな酸いも甘いも噛み分けた徳川頼宣の人生について見ていきましょう。

父・徳川家康からの寵愛

徳川頼宣の出生(1602年3月)

徳川頼宣は、慶長7年(1602年)3月7日、天下人徳川家康の10男として伏見城で生まれます。母はお万の方(養珠院)で、幼名は長福丸でした。

関ヶ原の乱の2年後、徳川家康が征夷大将軍に任命される1年前という結構微妙な時期です。

なお、徳川頼宣は、幼名を長福丸、その後元和年間に頼将・頼信という名を経た後に頼宣を名乗っているのですが、本稿では便宜上「頼宣」の名で統一します。

常陸水戸藩主となる(1603年)

徳川頼宣は、慶長8年(1603年)、数え2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられます(これが縁で、紀州徳川藩主は代々常陸介に叙任されることとなります。)。

もっとも、数え年2歳(満0歳~1歳)の乳児に藩政などできるはずがありませんので、徳川頼宣は水戸藩主でありながら江戸の徳川家康の下で育てられます。なお、年老いてから授かった子であり、また傍らに置いて育てたため、徳川家康の徳川頼宣に対する寵愛(えこひいき?)は相当なもので、晩年まで傍から離さなかったとも言われています。

その後、慶長11年(1606年)、徳川家康に従って京に上り、その際に元服をしています。

また、慶長14年(1609年)、肥後熊本藩主加藤清正の娘・八十姫と婚約しています(結婚は、元和3年正月22日。)。

駿河駿府藩主となる(1609年)

そして、徳川頼宣は、慶長14年(1609年)、8歳にして徳川家康のお膝元・駿府藩50万石を与えられます。

慶長10年(1605年)に将軍職を徳川秀忠に譲った後、慶長12年(1607年)に駿府城に移った徳川家康に随伴しての移封であり、その寵愛のすさまじさに若干引いてしまいます。

大坂の陣に出陣(1614年、1615年)

徳川頼宣の初陣は、慶長19年(1614年)に起きた大坂冬の陣でした。

このときも徳川家康の寵愛はすさまじく、徳川頼宣の鎧初め(初めて鎧をつける儀式)を徳川家康自ら行ったと言われるほどです。

大坂冬の陣で、徳川頼宣は、天王寺付近に布陣したと言われます。

このときの扱いを不満に思ったのか、若さにはやる徳川頼宣は、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際は先陣を希望するも却下されます。

徳川頼宣は、先陣が認められず涙を流して悔しがります。

そんな徳川頼宣に、松平正綱が「まだお若いから、これから機会は何度でもありましょう」と慰めたのですが、これに対して徳川頼宣は「14歳が2度あるのか」と怒りました。

この逸話を聞いた徳川家康は「今の一言こそが槍(手柄)である」と言って徳川頼宣を褒め、諸大名も感嘆したと言われています。

もっとも、大坂夏の陣でも徳川頼宣に目立った戦いの舞台は与えられず、天王寺・岡山の戦いの後詰として活躍するにとどまっています。

兄・徳川秀忠の下での冷遇

徳川家康死去(1616年4月17日)

元和2年(1616年)4月17日、最大の後ろ盾であった父・徳川家康が死去します。

紀州和歌山藩主となる(1619年)

徳川頼宣は、父・徳川家康死去の3年後、兄・徳川秀忠により江戸から遠く離れた紀州和歌山藩55万5000石に移封されます。

徳川御三家・紀州徳川藩の誕生です。

徳川御三家とは、親藩大名のうち徳川家康の男系男子を当主とする徳川姓を名乗ることを許された別格の家格を持つ家です。

紀州徳川藩は、後に8代将軍徳川吉宗、14代将軍徳川家茂を生んだ超名門家です。

形式的には5万5000石の加増であり、表向きは淡路国や四国地方を治める南海の鎮とされました。

もっとも、紀州和歌山は、古くは「木の国」といわれるほど山地が多いために平地が点在し、その平地ごとに雑賀衆や根来衆などの半農半武の国人衆が割拠する混乱の地でした。

また、徳川頼宣移封時期は、豊臣秀吉による紀州征伐により平定されてからわずか30年しか経過しておらず不平浪人も多く存在する、大名統治の行き届いていない場所でした。

徳川秀忠が、このような難しい場所にあえて徳川家康の寵愛を受けた徳川頼宣を入れた理由は、徳川家康の意向であっても将軍である徳川秀忠が覆すことができることを示し、天下の全てが徳川秀忠の下にあるということを示すためであったとも言われています。

徳川秀忠は、徳川頼宣の紀州和歌山移封により空いた駿府55万石を自身の三男・徳川忠長に与えますので、息子に駿府を与えるために弟を紀州和歌山に追いやることができることを示すためであったとも考えられます。

なお、紀州和歌山藩への移封の際、徳川頼宣は再建された大坂城を領することを願い出たものの徳川秀忠に許されなかったとも伝えられています。

徳川頼宣による和歌山の整備

経緯はともかく、元和5年(1619年)10月、徳川家康の10男・徳川頼宣が紀伊国全域と伊勢国の一部計55万5千石を得て和歌山城に入城します。

紀州和歌山藩に入った徳川頼宣は、江戸幕府より受け取った銀2000貫をもって元和7年(1621年)より和歌山城の大規模改修と城下町の整備を開始します。

また、農工業についても、主産業である米作だけでなく、漆器の黒江塗やミカンの栽培など諸産業を奨励して経済振興を図ります。

さらには、父・家康を祀った紀州東照宮、母・お万の方を弔うための海禅院の多宝塔など、数々の建造物も手掛けました。

徳川頼宣に謀反の疑い

謀反の嫌疑(由井正雪の乱)

関ヶ原の戦いや大坂の陣以降、徳川政権下(初代徳川家康~3代徳川家光時代)では、多くの大名に対する減封・改易が行われます(武断政治)。

そして、これにより、職にあぶれた武士が浪人となったため、自身を浪人の身に追い込んだ江戸幕府に不満を持つ者が少なくありませんでした。

そんな情勢下で、慶安4年(1651年)4月、3代将軍・徳川家光が48歳で病死し、後を徳川家綱が継ぐこととなったのですが、このとき徳川家綱は11歳の子供であったため政権担当能力がないと判断した由井正雪が、これを好機として浪人を集め、幕府の転覆と浪人の救済を謳って反乱を起こします(由井正雪の乱)。

由井正雪の乱は、その計画がずさんであったためにすぐに鎮圧されるのですが、ここで一大事件が起こります。

由井正雪が、計画が露見して自決するのですが、その遺品から、徳川頼宣の書状が見つかったのです。

これにより、徳川頼宣による幕府転覆計画への関与が疑われ、大騒動となります。

元々徳川家康の秘蔵っ子であったにもかかわらず、徳川秀忠に紀州に追いやられたこと、和歌山城の大規模改修計画がさらにその疑いを強めます。

徳川将軍家側としても、ことの真偽はともかく、同格・御三家尾張藩主徳川義直(徳川頼宣の兄)が死亡し、4代将軍徳川家綱が年少であったために、徳川頼宣が徳川一族の長老格となっていたため、これを排除できる口実ができたとして徳川頼宣を厳しく追及します。

嫌疑を晴らす

そこで、幕閣は徳川頼宣を江戸城に呼び出し、屈強な武士を待機させて喚問の場を開き証拠文書前に正雪との関係を詰問します。

これに対し、徳川頼宣は、外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎えて当該の大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけないだろうという意味の弁明を行い、不関与との弁明をします。

後に、由井正雪がもっていた書状は偽造であったと判断され、徳川頼宣は幕府から表立った処罰は受けませんでした。

もっとも、かけられた嫌疑により、徳川頼宣武は政治的に失脚し、彼が主導していた武断派政治も終わりを迎えます。

また、疑いは晴れたものの、幕閣の謀計によって幕政批判の首謀者とされ、10年間紀州への帰国は許されず、江戸城内で暮らすこととなってしまいました。

さらに、その後、無事帰国を果たしたのですが、いまだ改修中だった和歌山城の工事を中止しなければならず、和歌山城が惣構え構造となることができなかったとも言われています。

徳川頼宣の晩年

徳川頼宣の最期

徳川頼宣は、寛文7年(1667年)、嫡男・徳川光貞に跡を譲って隠居します。

その後、寛文11年(1671年)1月10日死去します。享年70歳でした。

紀州藩主としての治世は47年9か月であり、この間の江戸参府19回、紀州帰国18回、紀州在国の通算は21年10か月でした(隠居期間は3年7か月で、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回でした。)。

徳川頼宣の人柄

武断政治の先鋒として名が知れた人物であったことからわかるように、覇気に富む人柄であったと伝えられています。

他方で、家臣からの讒言については真摯に取り入れていたようです。

若い徳川頼宣に粗暴な振る舞いがあった際に附家老の安藤直次が豪腕をもって主君頼宣を押さえつけたという出来事があった際、徳川頼宣の股に傷跡が残ってしまったのですが、後年になって医師がこれを治そうとした際に徳川頼宣は「今の自分があるのは直次があの時諌めてくれたお蔭である。この傷跡はそのことを思い出させてくれるものである」として、治癒を断っているとの逸話が残っています。

また、徳川頼宣は試し斬りをしてそれを家臣たちに披露することを好んでいたようですが、家臣からおよそ殺人を面白がるのは禽獣の仕業。人間の行いではありませんと諫言を受け、以降試し斬りをやめたという逸話も残されています。

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