【足利義昭の上洛】南都脱出後に織田信長に奉じられて上洛し征夷大将軍に就任するまで

京で室町幕府第13代将軍であった足利義輝が暗殺され(永禄の変)、その後、その弟であった足利義昭が織田信長の協力により上洛し征夷大将軍に就任したことはあまりにも有名です。

この結論はあまりにも有名なのですが、他方で、この上洛に至るまでの足利義昭の動向についてはあまり知られていないと思います。

そこで、本稿では、足利義輝が暗殺された後から征夷大将軍に就任するまでの足利義昭の足跡について説明していきたいと思います。

足利義昭南都脱出

足利義昭誕生(1537年11月13日)

足利義昭は、天文6年(1537年)11月13日、室町幕府第12代将軍であった足利義晴の次男として京で誕生します。

母は近衛尚通の娘・慶寿院であり、幼名は千歳丸(ちとせまる)といいました。

千歳丸には将軍家を継ぐ兄・足利義輝がいたため、天文9年(1540年)7月、足利将軍家の慣習に従い、跡目争いを避けるため南都の興福寺一乗院に入室させることに決まります。なお、出家先として興福寺が選ばれたのは、将来的に大和国の寺社勢力を取り込もうとする目的もありました。

興福寺一乗院入室(1542年11月20日)

千歳丸が6歳となった天文11年(1542年)9月11日、寺社奉行であった諏訪長俊が第12代将軍の足利義晴の使者として興福寺に向かい、将軍の若君が同年11月に一乗院門跡・覚誉の弟子として入室する旨を伝え、興福寺は寺領に段銭をかけて入室費用を調達します。

そして、千歳丸は、同年11月20日、伯父・近衛稙家の猶子となって興福寺の一乗院に入室し(親俊日記、南行雑録)、覚慶の法名を名乗ります。

こうして覚慶は、近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐための修行を始めた後に一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し、二十数年間を興福寺で過ごします。

永禄の変と興福寺幽閉(1565年5月)

そこで、本来であれば、覚慶は、後に興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずでした。

ところが、永禄8年(1565年)5月19日、覚慶の人生を一変させる大事件が起こります。

室町幕府の第13代将軍を務めていた兄・足利義輝が、京で三好義継・三好三人衆・松永久通らに襲われて殺害されたのです(永禄の変)。

また、同じく、覚慶の母・慶寿院、弟の鹿苑院院主・周暠も殺害されました。

このとき、覚慶の身にも危険が迫ったのですが、将来興福寺別当の職を約束されていた覚慶を殺害して興福寺を敵に回すことを恐れた三好方が、覚慶の殺害には及ばなかったため、覚慶は命まで取られることはなく、松永久秀らの手によって興福寺に幽閉されることとなりました。

南都からの脱出(1565年7月28日)

覚慶幽閉後、反三好勢力が、三好方と覚慶を興福寺から解放するための交渉を行ったのですが不調に終わります。

ここで、足利義輝の遺臣達が、覚慶を奪還して室町幕府を復興することを目指し、実力行使での覚慶奪還を計画します。

そして、永禄8年(1565年)7月28日夜、足利義輝の遺臣であった三淵藤英・細川藤孝・一色藤長・和田惟政・仁木義政・米田求政らの手引きによって、覚慶が密かに興福寺から連れ出されます。

具体的な脱出方法としては、細川藤孝の立案によって米田求政が医者として一乗院に出入することで覚慶に近づき、決行日である同日に番兵に酒を勧めて沈酔させ、興福寺から連れ出したと伝えられています。

上洛準備

近江甲賀郡・和田惟政を頼る

興福寺を出た覚慶とその一行は、木津川をさかのぼり、伊賀国上拓殖村に一泊します。

そして、その翌日、細川藤孝の案内によって近江国甲賀郡和田に到着して、幕臣であり在地豪族でもあった和田惟政の居城・和田城に入ります。

覚慶は、和田城において足利将軍家の当主になることを宣言し、反三好の決起を促すため、和田惟政の副状が添えられた御内書を、越後の上杉輝虎、越前の朝倉義景、河内の畠山尚誠、三河の徳川家康、安芸の毛利元就、肥後の相良義陽、能登の畠山義綱などの全国各地の大名に送ります。

この呼びかけに対しては、覚慶の妹婿で若狭の武田義統、近江の京極高成、伊賀の仁木義広らが応じたほか、幕臣の一色藤長、三淵藤英、大舘晴忠、上野秀政、上野信忠、曽我助乗らが覚慶の下に参集します。

南近江・六角義賢を頼る

こうして少しずつ味方を増やしていった覚慶は、その後、松永久秀と三好三人衆の間で三好家中の主導権を巡って争いが発生したのを上洛の好機と捉えます。

そこで、覚慶は、和田惟政よりも大きな力を持つ六角義賢を頼るため、永禄8年(1565年)11月21日、甲賀郡和田から野洲郡矢島村(守山市矢島町)にあった少林寺に移ります。

このときの覚慶の移動は、庇護者であった和田惟政が織田信長に上洛への協力要請を取り付けるために尾張国に滞在していた際に和田惟政に無断で行われたものであったようで、後日、和田惟政が激怒していることを知った覚慶が和田惟政に書状を送って謝罪しています。

還俗(1566年2月17日)

六角義賢の勧めによって近江国矢島に入った覚慶でしたが、すぐに六角義賢が建立した館に移り、永禄9年(1566年)2月17日には同所を御所と定めた上(矢島御所)、還俗して僧侶の勧進に従って「足利義秋」と名乗ります。

こうなると、もう後には引けません。

足利義秋は、相互に敵対していた斎藤氏と織田氏、六角氏と浅井氏、武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、これらの諸勢力の協力により上洛を目指します。

そこで、足利義秋は、矢島御所において、近江の六角義賢のみならず、河内の畠山高政、越後の上杉輝虎、能登の畠山義綱らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺います。

特に畠山高政は、足利義秋を積極的に支持しており、実弟の畠山秋高をこの頃に足利義秋に従えさせています。

また、六角義賢も当初は上洛に積極的であったようで、後方の安全を図るために和田惟政に働きかけて浅井長政と織田信長の妹・お市の方の婚姻の実現を働きかけています。

このときは、織田信長と斎藤龍興は、和田惟政と細川藤孝の説得に応じて和解が成立し、足利義昭を奉じた織田信長が斎藤家が治める美濃→浅井家が治める北近江→六角家が治める南近江と経由して上洛することに決まります。

そして、この和議の成立によって、同年8月22日に織田信長が出兵することとなりました。

ここで、同年8月3日、矢島御所に三好方への内通者が出て、織田信長・足利義秋の上洛計画を牽制するために三好長逸率いる3000人が矢島御所を攻撃するために坂本まで進行してくるという事態に発展しましたが、このときは幕府奉公衆が坂本で迎撃して追い払いました。

第一次上洛作戦失敗(1566年8月)

その後、上洛軍を尾張国から出陣させた織田信長は、予定どおり美濃国を通過しようとしたのですが、永禄9年(1566年) 8月29日、三好方の調略により突然意を反した斎藤龍興軍に襲撃されます(なお、このときに六角義賢も三好方に与します。)。

当初の予定では素通りできるはずであった美濃国で奇襲を受けた織田軍は、大混乱に陥り、大惨敗を喫します。

その結果、美濃国・南近江を突破できないと判断した織田信長は、やむなく上洛を諦めて尾張国に撤退します。

若狭・武田義統を頼る(1566年8月)

織田信長が美濃国で大惨敗を喫した永禄9年(1566年)8月29日、斎藤龍興と共に三好方に与した六角義賢が足利義秋のいる矢島御所を襲撃するという風聞が流れたため、足利義秋は、わずか4〜5人の供のみを従えて急ぎ矢島御所を脱出し、妹婿の武田義統を頼って若狭国へ逃亡します。

もっとも、この頃の若狭武田家は、武田義統とその息子である武田元明との間で家督を巡る争いが勃発していたこと、またそれに起因した重臣の謀反などが起こって国内が混乱していたこと、さらにこの混乱を好機と見た越前国朝倉家の脅威にさらされていたことから、足利義秋を奉じて上洛できる状況ではありませんでした。

越前・朝倉義景を頼る(1566年9月)

そこで、足利義秋は、早々に若狭武田家を見限り、永禄9年(1566年)9月8日、朝倉義景を頼って越前国敦賀に移ります。

このとき、朝倉家では、朝倉景鏡を使者として派遣して足利義秋を迎え、一乗谷にいる朝倉義景に引き合わせます。

一乗谷に入った足利義秋は、朝倉義景の上洛を促すため、朝倉義景の庇護の下で朝倉家と加賀一向一揆との講和を行ったり、上杉輝虎に上洛を要請したり、上杉輝虎と武田信玄・北条氏政との講和を図ったりするなど勢力的に活動します(この頃の足利義秋の御内書には、朝倉義景の副状が添えられています。)。

また、この頃には足利義秋の下に上野清信(清延)・大舘晴忠などのかつての幕府重臣や諏訪晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参するなどしており自身の地盤も固めていきます。

もっとも、朝倉義景がすでに足利将軍家連枝の鞍谷御所・足利嗣知(足利義嗣の子孫)を抱えていたため足利義秋を奉じての積極的な上洛意思を表さなかったこと、他の大名の支援がなかったことなどから足利義秋上洛計画は進まず、いたずらに時間だけが過ぎていきました。

足利義栄の将軍就任(1568年2月8日)

そうこうしている間に時間は過ぎ、永禄11年(1568年)2月8日、足利義秋の対抗馬であった三好三人衆の庇護下の足利義栄が摂津国の普門寺に滞在したまま、将軍宣下を受けます。

足利義秋は、その血筋や幕府の実務を行う奉行衆を掌握しているなど様々な点で有利な立場にありながら、いつまで経っても上洛できない点をつかれ、都を実効支配する三好三人衆の庇護下にあった足利義栄に遅れをとることとなりました。

元服及び改名(1568年4月15日)

永禄11年(1568年) 4月15日、足利義秋は、一乗谷の朝倉氏館において元服式を行います。

このときの加冠役は、兄である足利義輝が六角定頼を管領代にとして加冠役にした前例に倣い、朝倉義景を管領代に任じた上で加冠役にする方法で行われました。

また、このとき、足利義秋の「秋」の字が不吉であるとして京から前関白の二条晴良を越前に招き、名を「義昭」に改名しています。

織田信長による上洛戦

美濃・織田信長の下へ(1568年7月)

越前国でいたずらに時を過ごす足利義昭に対し、尾張国の織田信長は、上洛のための準備を着々と進めていました。織田信長は、三好三人衆と対立していく松永久秀との関係を深め、その縁なども利用して近江国の山岡家や大和国の柳生家にも働きかけていきます。

そして、織田信長は、永禄10年(1567年)8月には斎藤龍興が籠る稲葉山城を陥落させ、正確な時期については諸説あるものの永禄10年(1567年)9月頃、織田信長は妹のお市を北近江の浅井長政に嫁がせて同盟関係を築きます。

さらには永禄11年(1568年)には北伊勢を攻略するなどして上洛ルートを確保していきます。

そしてついに、足利義昭の家臣であった室町幕府奉公衆細川藤孝(及び同足軽衆であった明智光秀)の仲介によって足利義昭と織田信長との上洛交渉が再開します。

この結果、足利義昭は、永禄11年(1568年)7月13日、朝倉義景から織田信長への鞍替えを決め、朝倉義景が治める一乗谷を抜け出します。

そして、足利義昭は、同年7月16日に北近江の小谷城で織田信長の同盟者であった浅井長政の饗応を受け、同年7月25日に信長と美濃国の立政寺で織田信長に対面するに至ります。

外交による上洛作戦(1568年8月)

美濃国・北伊勢を傘下に治め、また同盟により北近江の安全を確保した織田信長にとっての京までの障害は南近江の六角家のみとなります。

そこで、織田信長は、まずは上洛の神輿である足利義昭の名を使い、六角義賢に対して外交ルートを用いて上洛のための行動に出ます。

織田信長は、永禄11年(1568年)8月5日、馬廻り衆250騎を引き連れて本拠地・岐阜城を出発し、京に向かって進み、同年8月7日、佐和山城に着陣します。

そして、織田信長は、南近江国の通行の許可を得るべく、観音寺城にいる南近江国を治める六角義賢・六角義治親子に、足利義昭の近臣である和田惟政に家臣3名をつけて、六角義賢が人質を出したうえで上洛軍に加わってくれれば摂津国を与えた上で幕府の侍所の所司代に任命するとの好条件を提示した上、足利義昭の上洛を助けるように使者を送ります。

しかし、六角義賢・六角義治親子は織田信長の申し出を拒絶します。

織田信長が着陣する少し前に、足利義昭と対立する三好三人衆と篠原長房が六角方の観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する対応の評議を行っていたからです。

申出を拒絶された織田信長は、再度使者を送って再度入洛を助けるよう要請しましたが、今度は六角義賢らが病気を理由として使者に会いもせずに追い返してしまいました。

この結果、織田信長は、外交ルートでの南近江国通過は困難と考え、軍事ルート(力づく)での通過を決定します。

そして、織田信長は、軍事作戦の準備のため、佐和山城をあとにして一旦岐阜に帰国します。

上洛軍出陣(1568年9月7日)

織田信長は、本拠地岐阜に戻って兵を整え、永禄11年(1568年)9月7日、六角氏討伐及び南近江国平定のため、 1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立します。

そして、この織田信長軍に徳川家康の援軍1000人(率いるのは一族の松平信一)、浅井長政の援軍3000人が加わります。

また、これらに加えて、将軍の上洛軍であったため、尾張、美濃、北伊勢、北近江の浅井軍、三河などから義勇兵の参陣が相次ぎ、軍勢が膨れ上がります。

遂には、その総数が5〜6万人まで膨れ上がったと言われています。

勢いに乗る織田信長軍は、翌同年9月8日は高宮(現在の滋賀県彦根市)に、また同年9月11日には愛知川北岸に進出しました。

目指すは観音寺城です。

観音寺城の戦い(1568年9月12日)

5万人とも6万人ともいわれる織田軍は、六角側の想定を無視し、数に物を言わせた強硬手段で攻めてきます。

織田軍は、永禄11年(1568年)9月12日早朝、愛知川を渡河すると、軍を3隊に分け、六角方の拠点3城の同時侵攻作戦を仕掛けてきたのです。

具体的には、稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、織田信長、佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉らの第3隊が箕作城にそれぞれ向かったのです。

① 箕作城の戦い(1568年9月12日)

戦端は、織田軍の主力が向かった箕作城でひらかれました。

箕作城では、木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始します。

もっとも、箕作城は、急坂や大木が覆う堅城であり守備隊の士気も高かったため、木下隊・丹羽隊は夕方までに追い返されてしまいます。

そこで、木下隊は、再度夜襲を決行し、7時間以上もの攻防戦の結果、箕作城は夜明け前に落城します。

② 和田山城開城(1568年9月13日)

箕作城落城の知らせは、直ちに和田山城にも届き、士気が低下した和田山城城兵の逃亡が相次ぎ、和田山城は戦うことなく明け渡されます。

③ 観音寺城開城(1568年9月13日)

六角方は、長期戦を予想していたのですが、僅か1日で防御拠点の2つである箕作城・和田山城が相次いで失われたことに驚愕します。

また、元々主力を和田山城に置いていたために観音寺城には兵力が少なく守りきれないと判断した六角義賢・六角義治は観音寺城を捨てて甲賀に逃走し、観音寺城の戦いは終わります。

観音寺の戦いの後、織田信長は、立政寺にいた足利義昭に使者を送って出立を促し京へ向かいます。

足利義昭上洛

足利義昭が京に向かう

織田信長から京に向かうよう促された足利義昭は、織田軍に守られながら上洛の途につきます。

そして、足利義昭は、永禄11年(1568年)9月22日、かつて父・足利義晴が幕府を構えていたこともある近江国の桑実寺に入り、また翌同年9月23日に園城寺光浄院に入ります。

その後、同年9月26日、細川藤孝を別働隊とひて御所に向かわせてこれを防衛させ、織田信長本隊は東寺にまで進軍した後で東福寺に陣を移します。

足利義昭山城国入り

織田信長軍の入京により京の安全が確保されると、足利義昭もまた入京して東山の清水寺に入ります。

もっとも、この時点では京の絶対的安全が確保されていなかったため、永禄11年(1568年)9月27日、織田信長は河内方面に軍を進めて山崎・天神馬場に着陣して畿内掃討戦を進めることとし、他方、足利義昭は東寺に移った後、さらに西岡日向の寂勝院に入ります。

織田信長による畿内掃討戦開始

永禄11年(1568年)9月28日、織田信長は、三好三人衆の畿内支配の拠点となっていた芥川山城に軍を進めたのですが、前日に三好長逸と細川昭元が逃亡していたため、難なくこれを接収します。

こうして畿内支配の拠点確保に成功した織田信長は、同年9月30日、同城に足利義昭を入れて将軍家の旗を掲げさせ、足利義昭の名を利用して同城を拠点として摂津国・大和国・河内国の平定を進めていきます。

この後、織田軍は、大和郡山の道場と富田寺を制圧した後、摂津国池田城に籠る池田勝正を攻撃して下らせます。

足利義栄死去(1568年9月30日)

織田信長が畿内平定戦を開始してすぐの永禄11年(1568年)9月30日、病気を患っていた14代将軍・足利義栄が死去した(公卿補任)。

この結果、三好三人衆側の神輿がいなくなったため、さらに戦局が足利義昭を奉じる織田信長優位に傾きます。

織田信長による畿内平定

将軍候補者を奉じ勢いに乗る織田信長を止めることができなくなった結果、畿内の諸勢力が次々と織田信長に降伏または鎮圧されていきます。

具体的には、永禄11年(1568年)10月2日、まずは三好長逸と池田日向守が下ります。

また、河内国では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津では高槻城・入江城・茨木城が陥落します。

さらに、同年10月4日、松永久秀・三好義継・池田勝正らが芥川山城に出仕し、ここで松永久秀には大和一国切り取り許可が与えられ、また同日、興福寺が足利義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集まってきました。

こうして織田信長と足利義昭によって畿内が概ね制圧されたのですが、ここでさらに丹波国や播磨国などの畿内周辺国衆もまた織田信長・足利義昭に与するようになっていきました。

同年10月6日には、朝廷から芥川山城に戦勝奉賀の勅使・万里小路輔房が派遣され、足利義昭に太刀、織田信長に十肴十荷がそれぞれ下賜されたことから、三好三人衆から足利義昭への政権交代が進みます。

その後、同年10月8日、織田信長から佐久間信盛、足利義明から細川藤孝及び和田惟正を借り受けた松永久秀が、約3万人もの大軍を率いて大和国への侵攻を開始し、筒井城筒井順慶、窪城の井戸良弘をはじめとして、十市氏・豊田氏・楢原氏・森屋氏・布施氏・万歳氏などの国人衆を次々と攻略していきます。

この結果、松永久秀は、足利義昭と織田信長の庇護の下、元々三好長慶から認められていた大和国北部支配から大和一国にその支配を拡大することとなりました。

足利義昭入京(1568年10月14日)

以上の織田信長による畿内平定によりその安全が確保されたため、永禄11年(1568年)10月14日、足利義昭は、ついに織田信長の供奉を受けて芥川山城を出て入京し本圀寺に入ります。なお、このときの織田信長の立場は、あくまでも足利義昭に従う御供衆の1人に過ぎませんでした。

本圀寺に入った足利義昭の下には、公家の菊亭晴季、山科言継、庭田重保、葉室頼房、聖護院門跡の道澄などが次々訪れ、着々と室町幕府将軍職就任への準備が進められていきました。

征夷大将軍就任(1568年10月18日)

そして、永禄11年(1568年) 10月18日、朝廷から将軍宣下を受け、足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任します。

なお、足利義昭は、将軍宣下と同時に、従四位下・参議・左近衛権中将にも昇叙・任官されています。

足利義昭上洛後

室町幕府再興政策

征夷大将軍に就任した足利義昭は、兄である足利義輝が持っていた山城の御料所も掌握した上で、二条昭実(二条晴良の嫡子)らに自身の偏諱を与え、また領地を安堵するなどしてその取り込みを計ります。なお、同年11月、足利義輝の殺害及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白に復職させています。

また、摂津晴門を政所執事に起用し、さらには足利義昭と行動を供にしていた奉行衆(三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正など)を職務に復帰させて幕府の機能を再興します。

論功行賞(織田信長)

その上で、足利義昭は、永禄11年(1568年) 10月24日、最大の功労者である織田信長に対し、「天下武勇第一」・「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」と称えた上で、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可します。なお、同年10月24日付の足利義昭の感状に「御父織田弾正忠(信長)殿」と記されていることはあまりにも有名です。

その上で、足利義昭は、上洛の功に報いて高い栄典(斯波氏の家督、管領・管領代、副将軍への任命など)を授けようとしたのですが、織田信長はそのほとんどを固辞し、わずかに弾正忠への正式な叙任と桐紋・二引両の使用許可と・草津・大津の直轄地化のみを受けるにとどまりました。

論功行賞(織田信長以外)

その後、足利義昭は、四国に落ちていった三好三人衆の侵攻に備え、織田信長以外の上洛戦功労者の論功行賞(所領宛行・守護補任)を行います。

主なものは、以下のとおりです。

①摂津国:池田城主・池田勝正、伊丹城主・伊丹親興の本領安堵、和田惟政に芥川山城を与える。そして池田勝正・伊丹親興・和田惟政の3人を摂津守護に補任しる(摂津三守護)。

②河内国:高屋城主・畠山高政と若江城主・三好義継をそれぞれ半国守護とする。

③大和国:多聞山城主・松永久秀の一国支配とする。

④山城国:山岡景友の守護補任。

その後

以上の経過により、織田信長の全面協力によって上洛・征夷大将軍就任を果たした足利義昭も、その後は、次第に織田信長との関係が冷えていき、遂には対立することとなるのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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