【飯盛山城・飯盛城(続日本100名城160番)】天下人・三好長慶の最期の城

飯盛山城(いいもりやまじょう)は、河内国と大和国の国境に位置する飯盛山(現・大阪府大東市及び四條畷市)に築かれた山城です。

正式な名称は飯盛城なのですが、飯盛城という名の城は他県にも存在してややこしいので、本稿では有名な別称である飯盛山城で統一します。

名前の由来は、城の北側が椀に盛った飯のようななだらかな山容であることにちなみます。もっとも、実際には深い谷や峻険な断崖で守られた天然の要害となっており、名前のような穏やかさはありません。

織田信長に先立つ天下人・三好長慶の最期を迎えた城でもあります。

飯盛山城の築城

飯盛山城の立地

飯盛山城は、河内国と大和国の国境ともなっている生駒山脈の北西の支脈である標高315.9mの飯盛山に存在します(なお、現在も、飯森山城の真ん中より西側が大東市で、東側が四条畷市となっており、市境となっています。)。

飯盛山城のすぐ北には東西に延びる清滝街道が、すぐ西側には南北に延びる東高野街道が、少し南側には東西に延びる奈良街道がある陸上交通の要衝に位置していました。

また、今でこそ平地の奥にあるようなイメージですが、上図のとおり、当時は、眼前に深野池(ふこのいけ)・新開池という巨大な池が広がり、城下から船に乗って巨大商業都市であった堺まで簡単に往来できる水運の要衝地でもあったのです。

また、飯盛山城は、生駒山脈の最も西側にあり、その眼前には高い山などが存在しなかったため、飯盛山城からは畿内の陸上・海上交通の全てが見通せるまさに、畿内を支配するための場所にありました。

臨時陣城としての初見(1348年)

飯盛山城の記録上の初見は、四条畷の戦いの前哨戦として正平2年/貞和3年(1347年)9月に起こった南朝方の楠木正行と北朝方の細川頼之との戦いである藤井寺合戦の際に、南朝方の恩地左近太郎が飯盛城に立て籠ったとされるものです(太平記)。

もっとも、このときの飯盛城は、戦時体制の下で臨時に建てられた陣城であり、恒久的な城ではなかったと考えられています。

木沢長政による築城(1528〜32年頃?)

いわゆる恒久的な城として飯盛山城を築いたのは、河内国守護・畠山義堯臣下である守護代・木沢長政であったと考えられています。

正確な年は不明ですが、木沢長政が、畠山義堯から河内国の支配を任されたため、その拠点として天文年間に飯盛山城を築城したと考えられています。

もっとも、木沢長政が、天文11年(1542年)の河内太平寺の戦いで、細川晴元・三好長慶に敗れて敗死すると、代わって畠山高政の配下の安見直政が入城します。

そして、安見直政は、河内国守護の畠山高政を紀伊国に追放しますが、堀溝にて三好長慶に敗れてに追放されます。

三好長慶による拡張(1560年11月13日)

三好長慶は、三好家の家督とそれまでの本拠地であった芥川山城を嫡男の三好義興に譲り、自身は永禄3年(1560年)11月13日に飯盛山城を本拠と定めて入城します。

なお、この頃の畿内の勢力図は大体このような感じです。

飯盛山城に入った三好長慶は、大規模な改修作業を実施して現在の規模の城郭に造り上げます。

飯盛山城の縄張り等

飯盛山城の曲輪配置

飯盛山城の縄張りとして、最高地点315.9mに高櫓曲輪が築かれ、南北一直線上の尾根伝いに南北に700m、東西に400mの範囲で広範囲に曲輪が配置した連廓式山城となっています。

平面的にみると上図のようになり、立体的にみると下のようになります(上のもの【上が北】と下のもの【上が南】は南北が逆となっていますので、注意をお願いします。)

曲輪の合計は、判明しているだけでも70以上にも上ります。

飯盛山城は、北から「二の丸・北の丸」「本丸・一の丸」「南の出丸」という各曲輪群が尾根筋に連続的に配された中世最大級の連郭式山城で、その周囲にも中央の尾根筋から東西に延びる何本かの支脈に沿って副次的な曲輪が複数段築かれています。

また、城内のいたるところに石垣が残っており、近年の調査で、特に東側には全面的な石垣が築かれていた可能性も指摘されています。

二の丸・北の丸(御体塚曲輪群)

① 土橋・堀切

土橋は、二の丸・北の丸に入る前には、土で道を細く盛って一本橋のような道路形状をした防衛設備である土橋が多数設置され、また土橋の両側は堀切となっています(なお、草が生い茂っているため両側の堀切は見えにくいので注意して見てみて下さい。)。

土橋と堀切の防衛は、上図のとおり、中央部分に細い土橋をかけて敵の侵入経路を一本化し、そこに狙いを定めて横矢をかけて守る構造です。

② 北曲輪・一の出曲輪

現在の北曲輪・一の出曲輪は、四条畷側から登ってきた場合の最初の少し開けた場所となっており、最初の休憩スポットとなります。

もっとも、すぐ上に眺めのいい史蹟碑曲輪・北の丸曲輪(さらに眺めのいい本丸・展望台曲輪)がありますので、四条畷側から登ってこられた方も、体力に余裕があればここは素通りして先へ進んでいきましょう。

③ 史蹟碑曲輪・北の丸曲輪

御体塚曲輪より堀切を挟んだ北側にある曲輪には、大正13年(1924年)に旧制四条畷中学校校友会により建てられた飯盛山史蹟碑が建っています。

④ 北側堀切

史蹟碑曲輪と御体塚曲輪の間には、飯盛山城内に現存する最大規模の堀切が残っています。

⑤ 御体塚曲輪

御体塚曲輪は、本丸・一の丸曲輪群のすぐ北側にある曲輪で、中央に飯盛山を形成する花崗岩が大きく露出しているのが特徴です。

永禄7年(1564年)に飯森山城で死亡した三好長慶は、その死が隠されこの曲輪に仮埋葬されて石垣で囲われたと伝えられています(三好長慶の遺体「御体」を祀った「塚」があった「曲輪」であるため、御体塚曲輪と名付けられました。)。

発掘調査により、南東側に塼を立てて配置した箇所(塼列)と礎石、その東側に花崗岩の礫を敷いた遺構が確認されていますので、ここに何らかのたてものがあったと考えられています。

御体塚曲輪の北側には、石垣跡が残されていますが足場が悪い上、崩落の危険もあるそうですので近づいて見るのは避けた方がいいかもしれません。

⑥ 東西曲輪群

⑦ 二の丸・北の丸石垣群

飯盛山城には、全体に石垣を見ることができます。

この点、本丸石垣は防衛上の理由によって築かれたと考えられていますが、この二の丸・北の丸石垣群を含む本丸以外の石垣は、土塁止め目的の程度であったと考えられています(三好長慶のかつて居城としていた芥川山城においても同様の石垣が見受けられるため、三好長慶の改修時に築かれた可能性がりますが、山城での石垣は珍しいため、織田信長による落城後に再構築されたものである可能性も指摘されています。)。

本丸・一の丸(本曲輪群)

① 三本松曲輪

② 倉屋敷曲輪

③ 本丸曲輪(展望台曲輪)

飯盛山城の本丸の高櫓の一段下にある曲輪です。

現在は展望台がありますので、まずは登って景色を堪能してください。

展望台からは、大阪平野から大阪湾までを一望できます。

ここに立つと、なぜここに城が築かれたのかの理由が良く分かりますね。

④ 本丸高櫓曲輪

高櫓曲輪は、飯盛山城の中で、最も高い場所にある最も重要な櫓です。

25m×15mの削平地があり楠木正行の銅像の建っています。

⑤ 東西曲輪群

⑥ 本丸曲輪下石垣

本丸の周囲は石垣によって築かれたことが確認されており、なかでも本丸東側の石垣は当時の姿を良く残しています。

⑦ 虎口

⑧ 土橋・堀切

⑨ 千畳敷曲輪

千畳敷曲輪は、40m×32mもある飯盛山城にある曲輪の中で最大の大きさを持ちます。

曲輪からは、礎石の跡や土師器・調理具などが出土しているため、居住空間として利用していた者と考えられています。

現在は、NHKと在阪FMラジオの送信所が建っています。

南の出丸

① ヨボシト砦

② 南端砦郡

③ 畝状竪堀

伝馬場曲輪(楠公寺)

千畳敷曲輪の東側に伝馬場曲輪があります。

この曲輪は、その広さから馬場曲輪と名付けられていますが、本来の馬場ではなく、なんらかの兵屯施設があったのではないかと推定されるにとどまっています。

なお、昭和25年(1950年)に、この曲輪の広さを利用して楠公寺が建立され、現在に至っています。

飯盛山城廃城

天下(五畿内)を統一し、更なる勢力拡大をはかるなどして権勢を極めた三好長慶ですが、飯盛山城に移った後からおかしくなり出します。

また、永禄6年(1563年)8月に一人息子の三好義興が22歳で急死します。

また、翌永禄7年(1564年)、三好政権を支えた安宅冬康を流言によって自殺させると、三好長慶自身も病のため同年7月24日に43歳で没します(三好長慶の遺体は、飯盛山城の御体塚曲輪跡に死後3カ年仮埋葬されていたと言わています。)。

絶対的カリスマを失った三好政権は、三好三人衆と松永久秀とが権力を巡って内部抗争を繰り広げたために大きく力を失います。

その後、松永久秀と当主である三好義継が織田信長の軍門に下り、その後三好三人衆も織田信長に駆逐され、飯盛山城も織田信長の手に落ち、畠山秋高に与えられました。

もっとも、後に遊佐信教の反乱によって畠山秋高が殺害されると、これに怒った織田信長が、天正3年(1575年)、遊佐信教の籠る高屋城や飯盛山城を含むその周囲の諸城を攻撃してこれを攻略します(第1次高屋城の戦い)。

そして、河内国を平定した織田信長は、天正4年(1576年)、河内国内の諸城の破却を命じたため、飯盛山城もこのときに廃城となりました。

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