高屋城(たかやじょう)は、室町時代に大勢力を誇った三管領の1つに数えられた名門畠山氏が河内守護として河内国支配の中心城郭とした城です。
安閑天皇陵と言われる高屋築山古墳を主郭として取り込んだ特徴的かつ複雑な城であり、河内国支配の重要拠点であったがゆえに畠山氏・安見氏・三好氏による争奪戦の舞台となって再三城主が入れ替わった城でもあります。
最終的には、天正3年(1575年)に織田信長の攻撃により落城して廃城となり、その後主郭部を残して宅地開発がなされたため、今日までに城址のほとんどが失われています。
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高屋城築城
高屋城の立地
高屋城は、羽曳野丘陵と呼ばれる洪積台地にあり、古くは古代の官道といわれる竹内街道が、後には東高野街道が通るなど交通の要衝地に位置します。
そして、この要衝地において、石川東側に広がる標高約47mの河岸段丘である独立丘陵全体を城郭化した平山城が高屋城であり、交通の要所である東高野街道を城内をに取り込むように築城されています。
なお、東高野街道が高屋城内の南北を貫いていることにより、高屋城で街道を封鎖することが出来ることとなり、移動や兵站上極めて有利な状況となる反面、大軍を誘導してしまうことにもつながるため不利益となり得る構造となっています。
畠山氏による河内国平定戦
鎌倉時代まで河内国の守護所は丹南(現在の大阪府松原市)にあったのですが、南北朝時代に古市(現在の大阪府羽曳野市)に移ります。
南北朝時代の永徳2年(1382年)、河内守護となった北朝方の武将であった畠山義深は、南河内一帯に力を持っていた楠木党を被官化して分国経営を安定化させ、南朝勢力を駆逐していきます。
その後、畠山義深の子である畠山基国が、応永年間(1394年~1428年)に築いた城が高屋城であると言われることがあるのですが、この頃に高屋城が存在したという文献はなく、また古市城や誉田城などと称されていることから、誤りであると考えられています。
高屋城築城(1479年?)
応仁元年(1467年)、京で応仁の乱が勃発するとその火種は畠山氏にも飛び火し、畠山政長派と畠山持国・畠山義就派とに分かれて争うようになります。
その後、応仁の乱の終期に近い文明9年(1477年)9月21日、畠山義就が、畠山政長討伐のために河内国へ下り諸城を陥落させ、また同年10月9日に畠山政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い出して河内国を制圧してしまいます(若江城の戦い)。
こうして河内国と大和国を実効支配した畠山義就でしたが、名目上の河内守護と畠山氏当主は依然として畠山政長のままであったため、畠山義就は河内国に土着した上で河内国支配を強固なものとする策を講じ始めます。
そして、畠山義就は、文明11年(1479年)、誉田に屋形を建設して周辺勢力の取り込みを進め(誉田屋形周辺には、遊佐・誉田・谷・吉原・小倉・田井・御厨などの家臣屋敷が集められました。)、さらに誉田屋形の詰城として高屋城の建築を始めます。
なお、必ずしも正確な時期は不明ですが、文明11年(1479年)に興福寺の番匠を徴発して築城にあたらせた記録があることや出土遺物の検討の結果から、羽曳野市教育委員会では文明11年(1479年)ごろが高屋城の築城時期であると推定しています。
また、築城時期がこの頃であるとすると、築城主は畠山義就となります。
高屋城争奪戦
高屋城は河内国守護という権威の象徴と考えられた城となり、築城後から高屋城をめぐって激しい攻城戦が繰り返され、それに伴って城主も頻繁に入れ替わっています。
高屋城をめぐる争いの数は、和泉国・摂津国・河内国の中で最も多いと言われ、畠山氏・安見氏・三好氏の間で10名前後、30回以上入れ替わっています。
高屋城の縄張り
高屋城は、石川東側に広がる標高約47mの河岸段丘である独立丘陵全体を城郭化した平山城であり、その規模は南北約800m・東西約450mを誇ります。
本郭を丘陵の最頂部に配しているところ、城の北側・東側・西側は低地となっているためにこの三方向は空堀・土塁と城の高さで防衛し、他方、開けた南側を防衛するため、南側に二郭と三郭を連ねて配する連郭式構造となっています。
以上より、高屋城は連郭式平山城に区分されます。
なお、大永2年(1522年)の大晦日に起こった大火の際に、180間に至る武家屋敷が焼けたとされていることから(経尋記)、その規模の大きさと発展ぶりが窺い知れます。
空堀・土塁
高屋城は、礫と粘土を交互に積み重ねて強固に築き上げられた土塁で囲まれ、されにその外側に水堀が巡らされていました。
三郭
三郭は、二郭の南側に設けられた南北約250m・東西約250m・広さ約10haの曲輪であり、主郭・二郭からは下段にある階層構造となっています。
三郭からは奈良時代から平安時代初期にかけてのものと見られる住居跡も検出されていることから、古くから集落として機能していた場所を改修して設けられた曲輪であることがわかり、また、掘立柱建物の遺構が数多く検出されているので、下級武士が生活していた曲輪であったと考えられています。
なお、当時の城郭規模からすると高屋城の規模があまりに巨大であることから、三郭は城域ではなく城下であったとする説もあります(大阪府羽曳野市発行の「畠山家記」には、この三郭一帯を「旧市旧屋敷」と書かいています。)。
二郭
二郭は、主郭の南側に設けられた南北約200m・東西約350m・広さ約7ha・海抜約39mの曲輪であり、東側張り出し部には櫓台が設けられていました。
元々は二郭内に八幡山古墳(安閑天皇の皇后であった春日山田皇女陵)と言われる前方後円墳があったのですが、築城に際して取り壊されています。
二郭には、整然と地割された武家屋敷群が建っていたことがわかっており(せん列建物や礎石建物遺構が確認されています。)、屋敷群の中に茶室・庭園など文化性の高い遺構が検出されていることから、二郭内では上級武士が生活していたことがわかっています(守護代クラスの武将の住居跡も発掘されています。)。
また、二郭内には三面の焼土層があることから幾度かにわたる大規模な火災を経験していることがうかがえます。
なお、古墳に対する畏敬の念があったようで、「足利季世紀」によれば、城主として入っていた畠山稙長は本郭を恐れて避け、二郭に居住していたと記録されています。
主郭
主郭は、安閑天皇陵(高屋築山古墳)を取り込んで作られた約7haの曲輪です。
主郭中心部の安閑天皇陵(高屋築山古墳)の周壕をも防御施設として利用し、墳丘上部を平坦に削平しつつ、墳丘部分のみならず周辺部分も主郭に取り込んでいる点が特徴です(なお、畿内でも古墳を取り入れた城郭は複数見受けられるのですが、そのほとんどが墳丘部分のみを使用しているのと対照的です。)。
安閑天皇陵(高屋築山古墳)の水濠に二か所の陸橋が架けられるという複雑な構造となっていました。
さらに、主郭には、南北五か所の小郭が五角形状に取り囲むように付されており、それぞれが堡塁の役割を担っていました。
なお、主郭内にある高屋築山古墳本丸は、宮内庁によって安閑天皇陵とされていますので、現在は立入禁止となっています。
高屋城廃城
天正2年(1574年)の第一次高屋城の戦い、天正3年(1575年)の第二次高屋城の戦いを経て高屋城は織田信長に攻め落とされます。
そして、同年、織田信長は、河内国を平定すると、河内国中の城を悉く破却した(信長公記)とされていることから、必ずしも明らかではありませんが、高屋城もこのときに廃城とされたと考えられます。
高屋城廃城後もその遺構はそれなりに残されていたのですが、昭和30年(1955年)頃より新興住宅地として開発が行われた結果、その遺構の多くが失われています。