【三木城】三木城干殺しの舞台となった別所長治の居城

三木城(みきじょう)は、播磨国美嚢郡三木(現・兵庫県三木市上の丸町)にあった東播磨を治める土の城です。釜山城や別所城とも呼ばれます。

小寺氏の御着城・三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された巨城で、凄惨な三木の干殺しの舞台となったことでも有名です。

三木城築城の経緯

三木城の立地

三木城は、三木台地の北端・美嚢川南岸に位置する丘城(平山城)です。

播磨国から有馬を経て大坂・京へ続く湯山街道を押さえる重要な場所にありました。

三木城の築城(1492年ころ)

三木城の築城時期については、諸説あってはっきりしませんが、明応元年(1492年)ころ、三木別所氏初代当主・別所則治によって築城されたと考えるのが一般的です。

もっとも、築城主とされる別所則治についても、その素性が必ずしも定かではありません(赤松氏家臣団の中で実力者にのし上がった人物のようです。)。

別所氏の居城として使われた三木城は、享禄3年(1530年)、一旦、浦上村宗に奪われるも、翌享禄4年(1531年)の大物崩れで浦上村宗が死んだことに伴ってこれを奪還し、以降別所氏の東播磨での勢力拡大の拠点となります。

三木合戦(三木の干殺し)

その後、別所氏による東播磨8郡支配の拠点となった三木城ですが、別所家が三木城の城主であったのは、6代・別所長治までです。

天正6年(1578年)から2年(20ヵ月)に亘って行われた三木合戦(三木の干殺し)によって、天正8年(1580年)に別所氏が滅亡したからです。

 

三木城の縄張り等

三木城は、三木台地の北端・北西角部にある本丸を、その南側の二の丸と、南東側に広がる曲輪群で守る構造です。

また、北西部を美嚢川と切り立った崖で、南側を山と谷・その他を崖で守る防衛構造としていることから梯郭式の城であり、台地上にあるため平山城です(三木城は梯郭式平山城です。)。

三木城の内郭は、北西角部の本丸とその南側の二の丸ですが、これに平山丸曲輪・新城曲輪・雲竜寺を加え、さらにすぐ南側の出城である鷹尾山城・宮ノ上要害も三木城に含めて考えることが一般的であり、その規模は東西約600m・南北約700mという戦国屈指の大規模な土造りの城です(現在はコンクリート造りの塀が築かれていますが、当時は土塁と塀を連携したようなものであったと考えられます)。

もっとも、現在は、本丸周辺を除いてその遺構が破壊されてしまっており、三木城跡には当時をしのばせる物がそれ程残されていないのが残念です。

平山丸曲輪

平山丸曲輪は三木城の北東隅にあった曲輪で、落城時には別所長治の次弟である別所治定の居館があったと伝えられています。

慶長6年(1601年)に城主となった伊木忠次が、平山丸曲輪に先君・池田恒興追善のために護国山勝入寺(現・護国山正入寺)を建立し現在に至ります。

新城曲輪(三木新城)

新城曲輪は、本丸東側の台地に位置する6つの曲輪で構成される曲輪群です。

標高が67mあるため、本丸・二の丸を見下ろすことができる構造となっています。

東辺・南辺には逆L字状に空堀と土塁が巡らされ、南西角に虎口と内枡形が設けられ、土塁が切れる場所には「蔀土居」が設けられていました。

新城曲輪は、三木城内で優位な位置にあるにもかかわらず、遺構・遺物がほとんど見つかっていないため、臨時的な用い方をしていたか、あるいはその名が示すとおり比較的後世になって築かれたものと考えられています(三木合戦以後のものかもしれません。)。少なくとも、織豊期に改築されたことは間違いありません。

昭和35年(1960年)迄はほぼ原形を留めていたようですが、宅地造成によって堀を埋め土塁を崩し道路とするなどし、現在では遺構が失われています。

雲竜寺

二の丸の南側にある雲龍寺も、当時は三木城の城郭の一部だったと考えられています。

別所長治が自刃の際には、住職に後を託し、愛用の金天目の湯呑みを贈ったといわれています。

また、別所長治の首実検の後、雲竜寺の住職が別所長治と照子夫人の首を貰い受けて埋葬したと伝えられる首塚が残されています。

二の丸(西の丸・南構)

二の丸は、本丸の南西部(雲竜寺の北側)にあった標高57mの曲輪です。

発掘調査により、門、建物、内堀、外堀跡等の遺構が発見され、廃城時までに本丸に面した場所に櫓と高さが2間(約3.5m)の土塁が築かれ、また三方に空堀があったと考えられています。

また、二の丸からは、土器、軒丸瓦、銅銭、獣骨等の遺物も出土し、特に16個分の備前焼大甕穴が発見されその中に炭化した麦粒が付着していたことから食料貯蔵庫として使用されていたのではないかと考えられています(この大甕の復元品が三木市立図書館で展示されています。)。

なお、現在の二の丸跡には、みき歴史資料館(旧三木市立図書館)と堀光美術館が建設されています。

本丸

本丸は、三木城の北西角部にある標高58.2mの曲輪で、言うまでもなく城主が指揮をとる最も重要な曲輪です。

① 切岸(本丸西斜面)・腰曲輪?

本丸の西側を守る約20mもの高さの切崖です。

元々は、土造りだったはずですが、安全上の配慮から今日ではコンクリートで固められています。

なお、本丸の西側の崖(切岸)部には腰曲輪のようなものがあったようですが、コンクリートで固めてた際に消失し、その名残を顧みることはできません。

② 堀切(南側・本丸と二の丸の間)

③ 空堀

本丸内には、伝天守台から東に向かって幅9m×深さ3mのL字状の堀があり、これにより本丸が南北に区画されていました。

この堀は、一度部分的に埋まり、その後掘り返された後16世紀後半以降に再度埋め戻されたようです。

④ 本丸井戸(かんかん井戸)

三木城本丸北側に残る本丸唯一の井戸で、口径3.6 m、深さ25mの大きさです(現在のものは、昭和初期に掘り直されたものです。)。

石を投げ込むとカンカンと音がするので、「かんかん井戸」と呼ばれています。

三木城からの抜け道であったとの伝説もありますが、正確なところはわかりません。

なお、この井戸から別所氏が使用したと伝承されている鐙が出土し、現在は雲竜寺にて保存されています。

⑤ 本丸御殿

三木城復元図によると、本丸南東部の現在保育園がある場所(本丸内のL字状堀の南側)に「御殿」との記載があり、また保育所建設時に礎石とみられる石列と多量の炭が出土していることから、ここに御殿御殿があったと推察されています。

⑥ 天守台(矢倉)

本丸西側には、基底部は21m×24m、上面は12×15m、高さ2.4mの天守台を配した高台が存在しています。石垣は存在せず、人頭大の川原石が積まれていたそうです。

法面の堆積土から16世紀中頃~末頃の瓦が出土していることから、本丸内のL字状の堀が埋没された後である16世紀末頃以降に築造されたと考えられています(少なくとも別所長治時代までに三木城に天守が築かれていたという記録はありません。)。

また、堆積土に瓦が含まれていたこと、三木城復元図ではこの場所が「矢倉」と記載されていることなどから、天守ではなくなんらかの櫓様の瓦葺礎石建物が配されていたものと考えられます。

現在は、この天守跡地に別所長治公の辞世である、「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」の歌碑と、別所一族の歌碑が建っています。

⑦  現在の状況

本丸跡地は、現在上の丸公園となり、別所長治公の石像が配されています。

また、稲荷神社、三木市立金物資料館、保育所が建てられ、残石と伝わる石材が残されています。

支城群(三木城側の出城)

① 鷹尾山城(鷹の尾曲輪)

三木城の南側にある標高90m(現在部分は標高85m)の東西細長い丘陵にある出城です。新城曲輪より比高18mと高い場所にあり、本丸、西の丸、新城曲輪をよく見通すことができます。

現存する土塁(体育センター西側の土塁のサイズは一見の価値ありです。)・堀に囲まれる郭、東端部の段状遺跡群、その間の自然地形の尾根部、谷を挟んだ南東側の郭で構成されています。

柱穴や礎石等の遺構は検出されず、遺物も出土していないことから臨時的な空間と言われます。

たかお山城は、三木城内の兵の駐屯地であると共に、物見台として使用され、兵庫道から攻め入る攻城兵を攻撃する役割を担っていました。

現在も城跡の整備が進んでいないため、土塁や堀などがそのまま残されています(現在、三木城の支城群の中で唯一遺構を残すのが鷹尾山城です。)。

② 宮ノ上要害(八幡山曲輪)

雲龍寺から南に250mのところにあった出城が宮ノ上要害(八幡山曲輪)です。

鷹の尾曲輪との比高は15mで、三木合戦の最中に、羽柴秀吉がここに陣取り三木城を見下ろしたとも言われています。

現在は三木市の浄水場があり遺構は全く残っていないのが残念です。

【参考】付城(羽柴方の陣城)

平井山本陣をはじめとする羽柴秀吉が築いた付城群が30ヵ所・土塁線が10km発見され、その後も次々と新しい発見がなされています。

三木城と、三木城側・羽柴側の出城(付城)群を含めて国の史跡に指定されています。

 

三木城廃城(1615年)

三木合戦により三木城が陥落した後、三木城は羽柴秀吉が本拠とする姫路城の支城として扱われ、前野長康・中川秀政・中川秀成・杉原長房が順に城代となります。

その後、三木城が豊臣氏の直轄地となり、賀須屋内膳・福原七郎左衛門・福原右馬助・朝日右衛門大夫・青木将監・杉原伯耆守が歴代の城番とした入ったようですが、詳細は不明です。

その後、関ヶ原の戦いで武功を挙げた池田輝政が姫路城主となると、三木城はその支城の1つとして、池田家家老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となります。

その後、伊木忠繁が継いで三木城主を務めた後、元和元年(1615年)、一国一城令によって三木城は破却されることとなりまいした。

このとき伊木忠繁は国替えにより退出し、三木城の資材は明石城の築城の際に使用されたとも言われているが、詳細は不明です。

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