【足利義満】南北朝を合一し室町幕府最大の繁栄をもたらした3代将軍

一休さんの将軍様で有名な足利義満。

金閣寺を建てた人であるということはよく知られていますが、その詳細は意外と知られていません。

混乱を極めた南北朝の動乱を沈め、室町幕府の最盛期をつくった偉大な人物です。

本稿では、波乱に満ちたその生涯について見ていきましょう。

征夷大将軍となるまで

足利義満出生(1358年8月)

足利義満は、正平13年/延文3年(1358年)8月22日、2代将軍足利義詮の子として、石清水八幡宮検校の娘である側室紀良子を母として生まれます。幼名は春王といいます。この年は、初代将軍足利尊氏が死去し、足利義詮が2代将軍となった年でもあります。

幕府の擁する北朝と、南朝とで血で血を洗う争いが繰り広げられていた時期です。

この混乱に乗じて守護大名が勃興し、北朝と南朝を天秤にかけ裏切りを続けながら独自の勢力を高めようと画策していた時代でもありました。当然、守護大名同士が幕府内で対立をしています。

春王は足利義詮の長男ではなかったものの、足利義詮の正室との間の子は夭折していたため足利義満が嫡男として扱われ、乳児期は伊勢邸で養育されます。

波乱万丈の少年時代

もっとも、足利義満が幼少のころは、幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していました。

正平16年/康安元年(1361年)12月、政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に寝返り楠木正儀、石塔頼房らと共に京都を占拠される事件が起きます。

このとき、2代将軍足利義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、また足利義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難し、以降播磨での生活を余儀なくされます。

その翌年に幕府・北朝側が京都を奪還したため、足利義満は帰京し、新しく管領となった斯波義将に養育されます。

もっとも、正平21年/貞治5年(1366年)8月、貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により細川頼之が後見役となります。

正平22年/貞治6年(1367年)11月25日、重病のために式を悟った父・足利義詮が、足利義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託しました。なお、同年12月3日、足利義満は、朝廷から正五位下・左馬頭に叙任されています。

幼くして征夷大将軍となる

征夷大将軍就任(1369年12月)

正平22年/貞治6年(1367年)12月7日、室町幕府2代将軍足利義詮が38歳の若さで死去します。

そのため、急ぎ次期将軍を擁立する必要に迫られた室町幕府では、わずか10歳の足利義満の征夷大将軍就任に動き出します。

細川頼之は、まだ若い足利義満に英才教育を施すとともに、足利義満を補佐しながら相応の官位を得させるよう、尽力します。

まず、正平21年/貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より足利義満の名を賜り、従五位下に叙せらています。

次に、正平23年/応安元年(1368年)4月15日に、後見役でもあった管領・細川頼之を烏帽子親として、足利義満を元服させます。

その上で、正平23年/応安元年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府・第3代将軍に就任しました。もっとも、幼い足利義満に力はなく、実際は細川頼之が実権を握った状態でもありました。

事実上の細川頼之政権

幼い足利義満に代わって事実上幕府運営を行っていた細川頼之は、多くの政策を実行させます。主なものを挙げるだけで以下のようなものがあります。

これらにより、幕府の政治体制はどんどん強化されていきます。

①応安の半済令

それまで戦時の兵糧確保を理由に武士が年貢を押収していたのですが、これが公家や寺社の持つ本所にまで及んでいたため、公家や寺社の財政を圧迫していました。

そこで、本所は半済の対象外とすることにより公家や寺社の荘園を保護しました。

②南朝の支配する懐良親王の鎮圧

守護大名・今川了俊を九州探題に任命して大内義弘と共に九州に派遣し、南朝最大の勢力圏であった九州を治めていた懐良親王率いる南朝勢力の鎮圧しました。

③楠木正儀

足利義詮のライバルでもあり、南朝の主力勢力でもあった楠木正儀(楠木正成の三男)を降伏させ、南朝勢力を弱体化させます。

将軍権力を強化し名実共に日本の頂点に立つ

朝廷で官職を駆け上がる

将軍に就任した足利義満は、自らの権威付けのため、積極的に公家に近づきます。

文中3年/応安7年(1374年)に藤原北家・日野家の娘である日野業子を正室に迎え、天授4年/永和4年(1378年)3月には右近衛大将に任命されるなど、積極的に公家社会に関与していた足利義満ですが、さらなる権威付けのため、摂政・関白を歴任した二条良基に師事して公家の作法を勉強し、朝廷内での出世を目論むようになります。なお、関白二条良基としても、南北朝に分断した朝廷間の争いで、北朝を安定させるために足利義満の軍事力が必要と考えてこれに協力することとなりました。

そして、足利義満は、二条良基の指導の下、公家の作法を身につけるだけでなく、和歌・連歌・管弦なども嗜むことで教養を身に着けて積極的に公家の行事に参加するようになり、急速に公家化していくこととなります。

花の御所の整備(1378年)

また、武家の頂点でもあり、公家の出世街道をも駆け上がる足利義満は、更なる権威を得るため、天授4年/永和4年(1378年)、邸宅・幕府の政庁をそれまでの三条坊門から北小路室町に移します。

この邸宅は室町第と呼ばれ、南は北小路(現在の今出川通)、北は毘沙門堂大路(現在の上立売通)、東は烏丸小路(現在の烏丸通)、西は室町小路(現在の室町通)という、東西一町(約110m)・南北二町(約220m)に及ぶ広大な敷地で、当時の内裏の2倍もの広さがありました。

この邸宅は後に「花の御所」とも言われ、その所在地が室町にあったことから、足利将軍家による幕府が「室町幕府」と呼ばれるようになります。なお、花の御所は、南側の北小路邸と北側の花邸並びに庭園を合せた呼び方であり、後の永徳元年(1381年)に後円融天皇の行幸により朝廷にも認められています。

また、花の御所は天子南面の思想から外れて内裏の北側に築かれたことか、足利義満が天皇を超える地位を得ようと考えていたことがうかがえます。

このように、足利義満は、内外に対して、自身の野心を顕在化し、将軍権力の強化を試みていました。

将軍直属の軍事力・奉公衆の整備

ところが、将軍への権力集中を行う最中で、足利義満に力のなさを痛感させる事件が起こります。

天授5年/康暦元年(1379年)4月、反細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らが、軍を率いて花の御所を取り囲み、足利義満に対して細川頼之の罷免を要求してきたのです。

このときの足利義満には、斯波義将や土岐頼康を押さえこむ力がなかったため、その圧力に押されて自分の後見役である細川頼之を罷免せざるを得ない事態に追い込まれました(康暦の政変)。

そして、この後、後任の管領として斯波義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められることとなります。

家臣であるはずの守護大名の横暴を押さえられなかった足利義満は、その原因について、自身に軍事力がなかったためであると分析します。

そこで、足利義満は、急ぎ軍事力増強に取り掛かります。

まずは、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権を幕府に一元化して財源を確保し、5000人~1万にとも言われる足利一門及び守護大名家の庶流から成る将軍直属の常備軍とする奉公衆を設けます(具体的な成立時期については研究者で意見が分かれています。)。

そして、この将軍直属部隊を鍛え上げて守護大名の軍事力に対抗し始めます。

朝廷(北朝)を支配する

足利義満将軍就任当時の天皇は、後円融天皇であったのですが、足利義満が大人になるまでは管領細川頼之がこれを後見し、天皇家(北朝)は武家による圧力なしに政治が行われ、応永7年(1374年)まで後光厳上皇による院政が行われていました。

もっとも、康暦元年(1379年)4月に起きた康暦の政変で細川頼之が失脚すると、その庇護下にあったはずの足利義満の政治力が成長し、朝廷の再建のみならず、朝廷の事務に介入をはじめます。

そして、足利義満は、ついに朝廷内の実権をも掌握し、朝廷内においてときの天皇である後円融天皇をも上回る力を持つようになります。

その後、永徳2年(1382年)4月11日、後円融天皇は、譲位して上皇となって院政を敷き、実権を取り戻そうと画策しますが、足利義満が院別当となり朝廷の事務に介入し、後円融上皇に権力を与えませんでした。

怒った後円融上皇は、永徳3年(1383年)、仙洞御所(上皇の御所)を訪問した足利義満との面会を拒否する事件を起こしますが、逆に以降足利義満が仙洞御所への参内をしなくなり、またこれに伴って他の公卿も同様に仙洞御所への参内をしなくなるという逆襲に遭います。

権力を失った後円融上皇は、次第に精神的におかしくなり、果ては自殺未遂まで起こすようになり、上皇としての権威は地に落ちます。

結果として、朝廷内において、もはや足利義満に逆らえる者はいなくなり、朝廷(北朝)が完全に足利義満の支配下に下ります。

守護大名を弱体化させる

朝廷権力を掌握し、また直属の軍事力としての奉公衆を得た足利義満は、満を持して強大な守護大名の弱体化と、全国の武士の統率に取り掛かります。

(1)土岐

足利義満の最初のターゲットは土岐一族です。

土岐一族は、土岐頼康が足利尊氏に味方して力をつけ、足利尊氏が幕府を開いた後はその宿老として美濃国・尾張国・伊勢国の三か国を領有するに至った巨大勢力でした。

そんな土岐頼康は、嘉慶元年(1387年)に死去し、その後を養子の土岐康行が引き継いだのですが、足利義満は、この土岐氏の相続を利用して土岐氏の弱体化を謀ります。

足利義満は、土岐頼康の相続について、領国三か国全てを土岐康行に引き継がせることを認めず、土岐康行には美濃・伊勢の二か国を相続させ、尾張国は土岐康行の実弟である土岐満貞に分与することとしたのです。

この足利義満の処置に不満を持った土岐康行は挙兵し、土岐氏内で、土岐康行と土岐満貞とに分かれて兄弟間で紛争が起こります。

このとき、足利義満は、土岐満貞に肩入れして土岐康行を謀反人として扱い、これに抗って挙兵した土岐康行は討伐されてしまいます(土岐康行の乱)。

その後、土岐康行の支配地である美濃国(土岐西池田氏)と伊勢国(土岐世保家)に分けられます。そして、その後土岐満貞の尾張国は土岐満貞に卑怯があったとして召し上げられて尾張国守護が斯波氏に継承されます。

以上の経過を経て、美濃国・尾張国・伊勢国を治める大大名土岐一族は、尾張国を失い、また美濃国と伊勢国とに分裂し、その力を失いました。

(2)山名

次のターゲットは山名一族でした。

山名一族は、山名時氏が幕府創設以前から足利尊氏に仕え、数々の戦で功績を残し所領を得たエリート一族です。

山名時氏の子である山名師義が家督を継いだころには、日本全国66か国のうち、山名一族で11か国もの守護を務めていたことから、「六分の一殿」とも呼ばれる強大権力を有していました。

山名師義が死去し、弟である山名時義が家督を継ぐと、一族の山名氏清と山名満幸がこれに反発します。

足利義満は、元中8年/明徳2年(1391年)、大大名山名一族を分裂させる願ってもないチャンスが到来したととらえ、この内紛に介入します。

足利義満は、足利時義・足利時煕親子が幕府に反抗的であるとして山名氏清に味方し、まず山名時煕を討伐します。

もっとも、その後、山名一族の内紛で勝利者となった山名氏清・山名満幸の強大化を恐れ、今度は山名時煕に肩入れします。

元中8年/明徳2年(1391年)12月、足利義満の翻意に起こった山名氏清は軍を率いて京に攻め込み、京の都で市街戦が起きます。

このとき、幕府軍は足利義満の肝いり部隊である奉公衆によってこれを撃退し、山名満幸は丹波へ逃走し、山名氏清は討ち取られます(明徳の乱)。

以上の経過を経て、山名一族の力は大きく失われました。

(3 )今川・大内

その後も、足利義満は、九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免したり、応永6年(1399年)、西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐したるするなどして(応永の乱)、有力守護大名の力を削いでいきます。

そして、日本中で足利義満に対抗できる勢力を排除するに至ります。

南北朝合一(1392年)

朝廷を掌握し、また有力守護大名を弱体化させて幕府権力を不動のものとした足利義満は、いよいよ南北朝統一へ向かって動き出します。

元中9年/明徳3年(1392年)、楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、南朝勢力が全国的に衰微しました。

これを好機と見た足利義満は、大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進めます。なお、北朝は和睦には消極的であったために、室町幕府の独断で交渉が進められたそうです。

力を失った南朝に室町幕府と対峙する力はなく、和睦交渉はスムーズに進みます。

交渉の結果、①南朝の後亀山天皇が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に譲渡、②皇位継承は持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)、③国衙領は大覚寺統・長講堂領は持明院統とするなどの条件の下、南朝が解消される形で半世紀以上に亘って日本を二分して争った南北朝の合一が実現されるに至りました(明徳の和約)。

さらなる高みへ

太政大臣就任と出家(1394年)

南北朝を統一した足利義満は、更なる利を求めては明との正式な通交を望みました(もっとも、明との通交を望んでいたのははるか前からですが。)。

ところが、明側は、日本での貿易相手は日本のトップ(日本国王)に限定するという立場をとっていたところ、明は日本のトップ(日本国王)は、将軍でも天皇でもなく、懐良親王と考えていたため、足利義満と交易をすることはしませんでした。

なお、明が懐良親王を日本国王と考えていた理由は、明が元を倒して建国した際に初代皇帝洪武帝が太宰府使者を派遣したのですが、この使者との対応をしたのがそのときに九州を治めていたのが南朝の懐良親王だったのです。そして、明の使者が、懐良親王に対して日本国王は誰かと尋ねたところ、懐良親王は自分が日本国王だと答えました。遠く離れた日本の事情など知る由もない明の使者は、明の皇帝に対して懐良親王が日本国王であると報告したため、以降、明の正式な貿易相手は、天皇でも将軍でもなく、南朝の懐良親王となってしまったのです。

明のこの対応に、事実上日本のトップに君臨する足利義満は到底納得できません。

そこで、足利義満は、征夷大将軍・太政大臣として、何度も遣使を派遣して明に対して貿易開始の申し出をしますが、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下との通交は認めない方針のため、足利義満の申し出を拒絶し続けてます。

そこで、足利義満は、明の皇帝に対して、自分が日本のトップであることを認めさせるための努力をはじめます。

まず、足利義満は、応永元年(1394年)12月に太政大臣を辞して出家して、天皇の部下であるという立場から脱し自由な立場となり臣下の身分と言う貿易上の障害を取り去ります。なお、足利義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであるとも考えられていますが詳しいことはわかりません。

金閣寺造営(1397年)

次に、足利義満は、明に対して、自身の絶対的な権力を見せつける行動にでます。

足利義満は、出家と共に花の御所を4代将軍足利義持に譲り渡し、自身は、1397年(応永4年)に西園寺家から京都北山の「北山弟」を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山第」を造営して移り住みます。現在の世界遺産・金閣寺です。

足利義満は、北山第を政治活動の拠点とするとともに、明の使者に対して自身の権力を誇示し、足利義満が日本のトップ(日本国王)であることを刷り込むための迎賓館として使用します。

日明貿易・勘合貿易開始(1404年)

その上で、足利義満は、再度、応永8年(1401年)に、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣し、通交の申し出をします。

日本に派遣した使者から足利義満の力と明が日本国王としていた懐良親王の没落を聞いていた明は、とうとう足利義満を日本国王と認め、明の大統暦が日本国王に授与され、とうとう両国の国交が正式に樹立されました。

そして、応永11年(1404年)、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとって勘合貿易が始まります。

この日明貿易によって室町幕府は莫大な利益を得ることとなり、この利をもって幕府の経済基盤の確立を得ます。

北山文化

足利義満は、北山殿に活動の拠点を起き、日明貿易で得られた潤沢な資金を基に政治面のみならず文化面でも時代をけん引していきます。

それまで庶民の文化であった猿楽の分野で観阿弥・世阿弥父子を庇護し、能として確立させています。

また、金閣や相国寺の八角七重塔(1399年に完成した360尺に及ぶ高層建築物であった。)など、この時代を代表する建築物を生み出しています。

足利義満死去(1408年5月)

晩年の足利義満は、応永11年(1404年)末頃より自身に「太上天皇」の尊号が贈られないかと朝廷に対して働きかけを行うなど、自ら天皇になろうとしたのではないかと思われる行動をとります。

そんな足利義満ですが、応永15年(1408年)4月27日に病に倒れ、同年5月6日に死去します(享年51・満49歳没)。法名は鹿苑院天山道義でした。

足利義満は、等持院で火葬され、その遺骨は相国寺塔頭鹿苑院に葬られたたため以後相国寺が足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微し、鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭います。

そのため、現在では義満の墓所はその正確な位置が不明となり、位牌のみが足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されています。

足利義満の死後、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする諸政策のほとんどは、足利義満と折り合いが悪かった4代将軍足利義持に否定され、北山第も金閣を除いて義持によって破却されました。

そして、その後、カリスマを失った室町幕府は、その勢力を衰退させていくこととなります。

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