【懐良親王】南朝征西大将軍として九州を制圧した後醍醐天皇の末子

懐良親王(かねよししんのう・かねながしんのう)は、後醍醐天皇の皇子(八宮)として生まれ、衰退する南朝の勢力を取り戻すために幼くして征西大将軍に任命されて九州に送られた親王です。

傑物揃いの後醍醐天皇皇子の中でもひときわ際立った軍事的才能を持ち、肥後国の菊池武光の協力を得て、領地無しから九州統一に迫る覇業を築きました。

他方で、裸一貫から九州統一に迫った軍才を持ちながら、明(中国)から日本国王に冊封されたことから歴史家の評価は必ずしも芳しくない人物でもあります。

本稿では、南朝が低迷していた南北朝時代初期の段階で唯一南朝優位の状況を作り上げた名将・懐良親王の生涯について紹介していきたいと思います。

懐良親王の出自

出生(1329年?)

懐良親王は、元徳元年(1329年)、後醍醐天皇の皇子として母である二条藤子(二条為道女)との間に誕生したと言われています。

もっとも、懐良親王の生年は確実ではなく、正平3年/貞和4年(1348年)6月23日付の五条頼元文書(阿蘇家文書・南北朝遺文九州編三巻2482)に、懐良親王が成人したと記載されているところ、当時の成人が数え20歳ぐらいのことではないかとの推定から逆算して元徳元年(1329年)を生年と推測しているに過ぎません。

南北朝時代の始まり

幼い頃の懐良親王は、父である後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕運動・建武政権樹立・建武政権崩壊による影響を受け、後醍醐天皇と共に流転する生活を強いられます。

建武3年/延元元年(1336年)10月10日に三種の神器を譲渡する形で足利尊氏に投降した後醍醐天皇が、幽閉されていた花山院を脱出して譲渡した三種の神器が贋物であると主張して吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開いたため、ここから京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まります。

吉野朝廷を立ち上げた後醍醐天皇でしたが、この時点では既に楠木正成などの有力武士が失われていたため、京都朝廷(北朝・足利尊氏)方に対する大規模な反攻作戦をとることはできませんでした。

征西大将軍任命(1336年)

そこで、後醍醐天皇は、京都朝廷(北朝・足利尊氏)の統治が及んでいない遠方を吉野朝廷(南朝)方に取り込み、これらの諸勢力を結集して京都朝廷(北朝・足利尊氏)を打倒しようと考えます。

そこで、後醍醐天皇は、自らの皇子である尊良親王(一宮)・恒良親王(五宮)には新田義貞を付けて北陸へ、宗良親王(四宮)・義良親王(七宮、実際は建武元年/1334年5月に先行して赴任し、多賀城で親王となっています。)には北畠親房・北畠顕家を付けて奥州へ、懐良親王(八宮)には五条頼元を付けて九州へとそれぞれ派遣し各地を取りまとめさせる計画を立てます。

この結果、延元元年/建武3年(1336年)、まだ幼い懐良親王が征西大将軍に任命され、吉野を出て九州に向かうこととなってしまいました。

なお、この頃の九州は、多々良浜の戦いにおいて南朝方勢力を撃破して京に登る際に足利尊氏が残して行った一色範氏(九州探題・肥前国及び筑前国守護)・仁木義長・小俣氏連らが、在地勢力である大友家・少弐家・菊池家・島津家らと対立して地域支配に務めている時期であり(特に、九州に落ちてきた足利尊氏を援けて多々良浜の戦いに勝利させたにも関わらず、九州統治権を与えられなかった少弐頼尚の不満は相当なものでした。)、第三勢力として割って入り、漁夫の利を得ようとする作戦です。

豊後国上陸計画失敗

以上の結果、吉野を出て九州に向かうこととなった懐良親王一行は、海路が少なく安全と考えられるルートとして、四国横断後に船で豊後国に上陸する計画を立てました。

そして、この計画通りに伊予国まで進んだ懐良親王一行でしたが、ここで豊後国を治める大友氏泰の妨害にあったために豊後水道を横断して豊後国に上陸するという当初のルートをとることが出来ないことが判明します。

困った懐良親王一行は、伊予国忽那島(現在の愛媛県松山市忽那諸島)に渡って味方を募り、数年かけて同地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の協力を取り付けます。

なお、懐良親王が忽那島に滞在している途中である延元4年(1339年)8月16日に吉野行宮で後醍醐天皇が崩御され、義良親王(憲良親王)が後村上天皇として即位しています。

九州全域を支配下に置く

薩摩国上陸(1341年頃)

その後、懐良親王は、海路での九州上陸を目指しますが、肥前・筑前は一色、豊後は大友、日向は畠山と上陸地点となり得る場所はことごとく室町幕府方の勢力に押さえられており、困難を極めます。

その後、懐良親王は、暦応4年/興国2年(1341年)頃まで時間をかけ、伊予の水軍勢力の協力の下で豊後水道を南進してようやく薩摩国谿山郡(現在の鹿児島市下福元町)への上陸を果たし、谿山郡司・谷山隆信の居城である谷山城に入ります。

谷山城に入った懐良親王は、谷山を九州攻略の拠点とし、島津家と対峙しつながら九州各地に点在する豪族の勧誘を進めていきます。

また、ここから数年間に亘る島津家との戦いが始まります。

正確な事実関係は不明なのですが、 熊野水軍と協力した懐良親王が、島津家の詰城である東福寺城を攻撃し始め、貞和2年/興国7年(1346年)ころから島津家の活動が見られなくなることから、このころに懐良親王が島津家を鎮圧したものと考えられます。

菊池武光を味方にする(1348年)

島津家に打撃を与えて薩摩国を鎮静化させた懐良親王は、九州の中心である大宰府を攻略するため北側への勢力拡大を目指します。

そこで、懐良親王は、まず肥後国の阿蘇家を取り込むことを目指します。

もっとも、阿蘇家当主であった阿蘇惟時が懐良親王に与することに難色を示したため、同じ肥後国の菊池武光の調略に取り掛かり、これを成功させます。

この調略成功を受け、懐良親王は、貞和4年/正平3年(1348年)に薩摩国谿山郡を出て、船で北上して宇土(現在の熊本県宇土市)に入り、同地で菊池武光に迎えられます。

その後、緑川を遡って御船で阿蘇惟時と阿蘇惟澄と面談した上で、菊池家の本拠である隈府城に入ります。

こうして懐良親王には菊池家の武力が、菊池武光には親王という権威が手に入り、両者win・winの関係性が築かれます。

また、その後に懐良親王が菊池武重の娘である重子を妃として貰い受けたため、両者に強い血縁関係が構築されました。

その結果、懐良親王は、隈府城に九州征西府を開き、菊池家の武力を利用しての本格的な九州攻略を始めます。

九州三国志(1350年)

このころ、大宰府近辺では、足利尊氏が九州に残して行った一色範氏と北九州最大の在地勢力であった少弐頼尚といる室町幕府内勢力の対立が起こっていたのですが、正平4年/貞和5年(1349年)9月に足利直冬は鞆津で高師直軍に攻撃された足利直義派の足利直冬が肥後国河尻津(熊本県熊本市)から九州に上陸して足利将軍家の権威を利用して国人勢力や阿蘇氏に所領を安堵するなどして足場を築いてこの紛争に参戦します。

足利直冬が九州に上陸した直後は、室町幕府方の一色範氏と少弐頼尚が協力してその対応にあたっていたのですが、観応元年/正平5年(1350年)ころ、積極的な所領安堵・官位宛行などを行って肥後国の阿蘇惟時・日向国の畠山家などと接近して勢力を拡大させていった足利直冬を使える勢力と見た少弐頼尚が、足利直冬を取り込んでしまいます。

そこで、九州における鎌倉幕府内の対立は、一色範氏VS少弐頼尚・足利直冬という構造となります。

この結果、九州では、①室町幕府・足利尊氏方(一色範氏)、②室町幕府・足利直義方(少弐頼尚・足利直冬)、③南朝方(懐良親王・菊池武光)という3つの勢力が並び立つ3勢力の鼎立状態となったのです。

針摺原の戦い(1353年2月3日)

ところが、正平6年/観応2年(1351年)、室町幕府将軍であった足利尊氏が、足利直義と高師直との対立に端を発した観応の擾乱に際し、西国の脅威を排除して足利直義の追討にあたる目的で南朝に降伏したため(正平一統)、九州における勢力図も一変します。

足利尊氏が南朝方となったことにより、九州における室町幕府勢力であった一色範氏もまた南朝方の勢力となり、ここで九州において① 室町幕府・足利直義方(少弐頼尚・足利直冬)対② 南朝方(一色範氏・懐良親王・菊池武光)という対立構造になったのです。

ここで、少弐頼尚・足利直冬が一色範氏方に攻め込んだため、一色範氏は新たに味方となった懐良親王・菊池武光に援軍の要請をします。

この一色範氏からの支援要求に対し、菊池武光が1万人の兵を援軍として派遣して溝口城を攻め落として筑後国から少弐軍を追い払いました。

ところが、文和元年/正平7年(1352年)に足利直義が殺害されてその派閥勢力が弱まると、力を失った足利直冬が九州を脱出して中国地方に逃れたため、足利直義派に与していた少弐頼尚は四面楚歌状態となって苦しくなります。

これをチャンスと見た一色範氏が、1万4000人の兵を率いて少弐頼尚が籠る古浦城に攻撃を仕掛けたところで、危機に陥った少弐頼尚が、こともあろうに敵方であった懐良親王・菊池武光に援軍の要請をしてきます。

ここで、菊池武光は、3000人の兵を率いて少弐頼尚の援軍に向かいます。

その結果、菊池・懐良親王軍は、同年2月3日、針摺原(現在の福岡県太宰府市)で、古浦城を囲む一色軍と対峙することとなりました。

そして、戦いが始まると、兵数の劣る菊池・懐良親王軍は苦戦したのですが、懐良親王も矢傷を負う程の奮戦により士気を高め、ついには一色範氏を打ち破って古浦城を解放し、一色範氏を九州から追い出してしまいます。

この菊池・懐良親王軍に助けられた少弐頼尚は、以降7代に亘って九州征西府に弓を引かないとする熊野権現に誓う起請文を差し入れ、その下に下ることとなりました。

そして、この後、懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破って名声を高めると、九州の国人衆が次々と九州征西府に下ってくるようになります。

また、日向国の畠山家を攻撃し2城を奪い取るなどしています。

筑後川の戦い(1359年)

その後、室町幕府初代将軍であった足利尊氏が死去し、その後を継いで室町幕府2代将軍となった足利義詮は、九州諸将に室町幕府方に与して、南朝勢力を攻撃するよう命じます。

この求めに応じて豊後国の大友家が蜂起したため、懐良親王・菊池武光軍がその討伐のために大友家の居城である高崎山城に向かったのですが、ここで少弐頼尚・阿蘇惟村などが幕府方に転じて蜂起します。

豊後国にとどまっていては少弐・阿蘇に背後を取られることとなるため、菊池・懐良親王軍はすぐに隈府城に撤退します。

その後、延文4年/正平14年(1359年)7月、懐良親王・菊池武光は、裏切った少弐頼尚を討伐するため、九州征西府方の赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、西牟田讃岐守ら率いる4万人の兵を動員した上で大宰府に向かって北進して筑後川を渡り、その北岸に陣を張ります。なお、このときに懐良親王が布陣した場所が現在の福岡県久留米市宮ノ陣です。

これに対し、少弐頼尚は、九州征西府に対立する勢力を総動員し、少弐頼尚・少弐直資・大友氏時・城井冬綱らあわせて6万人もの兵を動員してこれを迎えうちます。

総勢10万人にも及ぶ大戦ですので、双方なかなか動きがなく対峙するだけで時間が過ぎていったのですが、しばらくした後、菊池武政が夜陰に紛れて少弐方の本陣を奇襲したことから戦いが始まります。

その後、懐良親王・菊池武光までもが大傷を負い、両軍合わせて5400余人が討死にしたといわれるほどの激しい戦いの結果、九州征西府方の勝利に終わります(筑後川の戦い・大原合戦・大保原の戦い)。

なお、この戦いに勝利した菊池武光が、戦後に刀についた血糊を川で洗った場所が、後に筑後国太刀洗(たちあらい、現在の福岡県三井郡大刀洗町)といわれるようになったとの言い伝えが残されています。

敗れた少弐頼尚は、一旦大宰府に逃れたものの、その勢力は一気に衰えます。

大宰府入城(1361年)

筑後川の戦いに勝利した懐良親王・菊池武光は、康安元年/正平16年(1361年)8月、室町幕府方(北朝方)の九州の拠点であった大宰府を制圧し、九州征西府を大宰府に移します。

これに対し、室町幕府は、斯波氏経・渋川義行を九州探題に任命して九州の奪還を図ったのですが、懐良親王・菊池武光による九州支配は盤石であり、そこに風穴を開けることすらままなりませんでした。

その後、正平18年(1363年)ころまでの間に九州の大部分を支配下に治めた懐良親王・菊池武光は、大宰府を拠点とする南朝勢力による九州支配を確立します。

東征失敗(1368年2月)

九州を押さえた懐良親王らは、正平23年/応安元年(1368年)2月、菊池家家・原田家・伊東家・秋月家・島津家・三原家・草野家・松浦家・星野家・平戸家・千葉家・大村家・山鹿家などに命じて7万人ともいわれる大軍を動員しめ長門・周防方面へ進軍を開始します(北肥戦誌・鎮西要略)。

各地で南朝勢力が劣勢に立たされる時期における、唯一の南朝主力軍といえる軍勢でした。

ところが、この九州征西府の威信をかけた東征軍は、下関付近において、室町幕府方の大内家の妨害にあい、九州への退却を余儀なくされる結果となりました。

この九州征西府軍の東征失敗は、九州征西府の威信を大きく傷つけ、九州諸勢力に対する求心力が損なわれていきます。

懐良親王が日本国王に冊封される

中国との国交を模索

東征に失敗し求心力を失っていくことに危機感を感じた懐良親王は、九州から大陸へ繋がる海の玄関口となる博多を制圧し、貿易による経済力強化を図ります。

もっとも、貿易相手となる中国(明)は、中国だけを国として認めてその長を皇帝といい、その他の地域は周辺地域としか認めておらず(原則として中国以外の国との対等な関係を認めておらず)、中国が強い権力を持つ大陸との貿易を行うためには、中国皇帝を全世界の支配者とし、皇帝に貢物を送って周辺地域の長として認めてもらって初めて中国との関係を築くことができたのです(中華思想)。

すなわち、中国は、皇帝が治める中国だけを国として認め、その他の地域は周辺地域としか認めず、それらの地域の長のうち皇帝が認めた者を「国王」とすることにより始めて国境を開くという扱いをしていたのです。

この考え方は、中国との国交を望む側からすると屈辱的外交です。

中国との国交は、「日本国王」になって=中華に従属する日本国の長になって=宗主国である中国皇帝の臣下になって、始めて国交が開かれることを意味します。

日本国王に冊封される

正平24年/応安2年(1369年)、明の太祖から懐良親王の下に使者である楊載が遣わされ、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じるとの国書が届けられました。

この国書を無礼と判断した懐良親王は、国書を届けた使節団17名のうちの5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留してしまいます。

もっとも、懐良親王は、失われていく力を維持するため、その後、一旦は拒絶した朝貢外交を受け入れ、貿易による経済力を手にする道を選びます。

この結果、明は、懐良親王を「良懐」の名で「日本国王」に冊封しました。

これは、卑弥呼の時代に魏に使者を送って親魏倭王の名称を貰い受けるなどしていた日本が、国力を付けたことで中国に従属しないことを明らかにするために長の名称を「王」から「天皇」に変更してまでその独立を守ってきた経緯を台無しにする行為でもありました。

懐良親王の最期

九州探題・今川了俊が迫る

中国との貿易によって経済力を得て威信の回復を図った懐良親王でしたが、一度失われた求心力を取り戻すことは困難でした。

そして、九州探題として今川貞世(了俊)が派遣されてきたことにより九州征西府の崩壊が始まります。

貞治6年/正平22年(1367年)に幼い室町幕府3代将軍足利義満の補佐役となった管領・細川頼之から九州探題に任命された今川了俊は、九州の情勢を集め、また西国・九州の反九州征西府勢力との連携を図ります。

その後、今川了俊は、九州征西府の力が落ちてきたことを確認し、建徳2年/応安4年(1371年)2月、満を持して京を出発し、途中で九州から落ちてきてきた少弐家らを糾合しながら西進し、先行隊として弟である今川仲秋を肥前国に、子である今川義範を豊後国に遣わして橋頭堡を築かせます。

その上で、今川了俊本隊は、同年11月に下関に到達します。

この今川方の動きに対し、菊池武光が、豊後国高崎山城に入った今川義範を討伐するため、懐良親王の子である伊倉宮を奉じて出陣し高崎山城を包囲したのですが、菊池武光が豊後国に向かった隙を見て、今川仲秋が肥前国から筑前国へ、また今川了俊が下関を通過して門司へ至ったところで、島津家・畠山家・阿蘇家などがこれに同調して蜂起したため、九州征西府の「首府」であった大宰府が窮地に陥ります。

大宰府失陥(1372年8月12日)

3方向から今川軍が九州に上陸して大宰府を目指しているとの報を受けた菊池武光は、文中元年/応安5年(1372年)正月、高崎山城の包囲を急遽解いて急ぎ大宰府に帰還しその対応にあたります。

菊池武光は、同年2月、嫡男である菊池武政を肥前国に向かわせ今川仲秋軍の押さえとしたのですが逆に今川仲秋軍に敗れてしまいます。

この結果、九州探題・今川軍は勢いづき、今川仲秋は肥前国から、今川義範は豊後国から、今川了俊は博多→高宮とそれぞれ軍を進め、道中で反九州征西府勢力を吸収しつつ大宰府に迫り、大宰府北部にある佐野山に陣を張り、同年4月についに大宰府を包囲します。

そして、九州探題・今川軍は、同年8月10日から大宰府への総攻撃を開始すると、同年8月12日、大宰府の防衛が困難と判断した懐良親王・菊池武光らは大宰府を放棄し、菊池家の本拠である筑後国高良山へ逃れます。

菊池武光の死(1373年11月16日)

大宰府を追われた懐良親王と菊池武光が高良山に籠ったため今川軍が大軍をもってこれを攻撃したのですが、高良山も守りは堅くなかなか陥落しませんでした。

他方、菊池方も、筑後川北岸に陣を敷いて今川軍を攻撃するなどしたのですが成果がなく、両軍が膠着状態に陥ります。

そんな高良山攻防戦の最中である文中2年/応安6年(1373年)11月16日、菊池武光が死去します。

菊池武光の死後、菊池武政が菊池家の惣領となって戦いを続けたのですが、文中3年/応安7年(1374年)5月26日に菊池武政も戦いで負った傷がもととなって死去し、その後まもなく高良山が陥落したことから、これにより九州征西府が事実上消滅します。

懐良親王薨去

その後、九州は大宰府に入った今川了俊によって平定されます。

ここで、懐良親王は、名前だけとなった征西将軍の職を後村上天皇皇子である良成親王に譲り隠棲します。

その後の懐良親王の消息や没年は必ずしも明らかではなく、筑後矢部で病気により薨去したと伝えられています。なお、懐良親王が天授7年/弘和元年(1381年)初頭に母の三十一回忌のために妙見寺(現在の熊本県八代市妙見町に寺跡)に宝篋印塔を奉納しているためこの時期まで生存していたのは確実ではあるのですが、その後の正確な没年は明らかではありません。

墓所の伝承地はいくつかあるのですが宮内庁は懐良親王の墓所を熊本県八代市と治定し、また明治になって懐良親王を主祭神とする八代宮(建武中興十五社の1つ)が創建されています。

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