【日本三大三門】南禅寺三門・知恩院三門・久遠寺三門について

伝統的な日本の仏教寺院には山門と呼ばれる門が設置されていることが一般的であり、その山門のうち、当該寺院の正門に配された中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものを「三門」といいます。特に、禅宗寺院に多く見られる建築物です。

このうち、南禅寺・知恩院・久遠寺は日本三大三門と呼ばれており、考えられない巨大さで見る者を圧倒するスケール感があり、これを見るためだけに観光として訪れる価値があるのではないかと考えられます。

この他にも、京都三大三門と呼ばれる区分けがあったり、それらに含まれてはいないものの、同等クラスの歴史ある巨大な三門が全国各地に点在したりしてますので、本稿では、これらの三門についてもあわせて簡単に紹介していきたいと思います。

三門とは

山門とは

仏教寺院はいわゆる仏界として我々が生活する俗世とは隔絶された世界とされていました。

そして、この寺域と世俗との境界には、そこを行き来するための門が設けられており、この寺域と俗世とを行き来するために設けられた門を山門といいます。

これは、本来山に建てられ山号を付けて呼んでいたころの名残りとして「山門」といわれるものであり、寺域に山が存在しているかという立地は関係ありません。

特に禅宗では、山門は、七堂伽藍(山門・仏殿・法堂・僧堂・庫裏・東司・浴室)の1つである伽藍構成をしています。

三門とは

以上のとおり、山門とは寺域と俗世との境に設けられる出入口に過ぎませんので、その構造に特段の決まりはありません。

この寺門=山門のうち、当該寺院の正門として、中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたものを「三門」といいます。

三門の基本構造は、五間(正面柱間が5つ)三戸(中央3間が通路)、二階(2階建)、二重門(1階と2階の間にも屋根がある)となっています。

なお、以上の考え方が絶対的というものではなく、三間三戸または三間一戸の場合があるなど以上とは異なる構造をもっているものもありますし、また三門とは別(外側)に寺域に入るための山門がある寺院もあり、また禅宗大寺院では総門(南大門)とは別の中門(三門)として設けられている例も見られます。

三門という名称の由来

「三門」という名称については、正確な由来は不明なのですが、以下のような説が根拠となっていると考えられています。

① 空解脱・無相解脱・無作解脱の三境地を経て悟りの道に至る門をいうとする説

② 貪・瞋・痴の三煩を解脱する境界の門(三解脱門)という説

なお、増上寺三門は、この説から三解脱門とも呼ばれています。

③ 縁覚(悟りを開いた人)・菩提(悟りを開いて如来になろうとする人)・声聞(出家修行をする僧)の三者が通る門とする説

④ 初期の寺院が、南面する正門と東西2つの脇門から構成されていたためこれらを称して三門と呼んだとする説

⑤ 寺院に正面の入口のほかに左右にも入口が設けられたからとする説

日本三大三門(南禅寺・知恩院・久遠寺)

いつどういう経緯で言われ始めたのかは不明であり、またその選定に疑問がないわけではないですが、一般的に日本三大三門といわれる三門は、南禅寺三門・知恩院三門・久遠寺三門の3つです。

南禅寺三門(京都市左京区、1628年再建・重要文化財)

南禅寺三門は、寛永5年(1628年)、大坂夏の陣の戦没家臣を弔うため、藤堂高虎の正室である久芳院が当時の住職(270代)であった以心崇伝と親戚関係にあった縁で藤堂高虎の寄進を受けて再建された門です。別名「天下竜門」とも言われます。

なお、このとき以前に存在していた三門は、永仁3年(1295年)に西園寺実兼の寄進により創建され応永年間に改築されたものだったのですが、文安4年(1447年)の火災により焼失し、以降三門が存在しない時代が続いていました。

南禅寺三門の構造は、高さ約22m・五間三戸二階二重門・入母屋造・本瓦葺となっています。

また、両側にはそれぞれ桁行三間・梁間二間・一重・切妻造・本瓦葺の山廊を設けています。

楼内壇上正面には、本尊たる宝冠釈迦座像と脇士である月蓋長者・善財童子が、その左右には十六羅漢の像が、さらに本光国師・徳川家康・藤堂高虎像なども安置されています。

歌舞伎の演目である「楼門五三桐」における石川五右衛門の「絶景かな、絶景かな」セリフで有名なのですが、前記のとおり、石川五右衛門の生きた弘治4年(1558年)ころから文禄3年(1594年)8月24日までの間は南禅寺に三門は存在しておらず、この演目は完全なフィクションです。

知恩院三門(京都市東山区・1621年再建・国宝)

知恩院三門は、元和5年(1619年)9月に徳川秀忠の命でその造営が始められ、元和7年(1621年)秋には完成しました。なお、完成時期については、平成大修理が行われた際に上層屋根の土居葺板から元和7年(1621年)の墨書が発見されたために同年の建立と判明したものです。

知恩院は、関ヶ原の戦いに勝利して京を手中に収めた徳川家康が、二条城の支城とするために整備した2寺(知恩院・金戒光明寺)の1つであり、防衛拠点として転用できるよう1000人規模の兵が駐屯できる規模に拡大した上で、石垣で囲った城構えとすることとし、三門もまた防衛設備として敵兵の進入を防ぐことが出来るような造りとするために堅固な造りとされ、現存寺院の山門の中でも最大の二階二重門となっています。

その構造は、高さ約24m・幅約50m・五間三戸二階二重門・入母屋造・約7万枚を使用した本瓦葺となっています。

防衛設備とされた門ではあるのですが、あくまでも寺院の山門ですので仏式で建てられており(もっとも、知恩院が浄土宗寺院であるにもかかわらず細部の様式は禅宗様となっています)、その上層内部には釈迦如来像と十六羅漢像が安置されています。

久遠寺三門(山梨県南巨摩郡身延町・1907年再建)

久遠寺三門は、明治40年(1907年)に再建された山門です。

鎌倉期作の金剛力士像を祀っているため、二王門ともいわれます。

その構造は、高さ7丈・奥行2間・五間三戸二階二重門・本瓦形銅板葺となり、79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額が架けられています。

禅宗様式であり、上層内部には十六羅漢が安置されています。

京都三大三門候補(南禅寺・知恩院+α)

また、日本三大三門に数えられているうち、京都市内にある南禅寺三門と知恩院三門に加え、仁和寺二王門を加えて京都三大三門という場合があります。

もっとも、仁和寺二王門に代えて、東福寺三門や東本願寺御影堂門が挙げられる場合もありますので、これらについても簡単に紹介したいと思います。

仁和寺二王門(京都市右京区、1641年頃再建、重要文化財)

仁和寺二王門は、寛永18年(1641年)から正保2年(1645年)までの間に再建された三門です。

左右に金剛力士を祀っていることから「仁王門」とも言われます。

その構造は、高さ約18.7m・五間三戸二階二重門・本瓦葺となっています。

平安時代の伝統に則った和様建築で建てられており、同時期に建てられた南禅寺三門や知恩院三門とは一線を画しています。

東福寺三門(京都市東山区、1425年再建、国宝)

東福寺三門は、至徳元年(1384年)に再建が始まり応永32年(1425年)に完成した現存する中では日本最古の禅寺の山門です。

その構造は、高さ約22m・五間三戸二階二重門・入母屋造・本瓦葺となっています。両山廊は、切妻造・本瓦葺です。

また、豊臣秀吉による修理が行われた際、支えとして屋根先に柱が入れられており、この柱を修理者の名から「太閤柱」と呼んでいます。

禅宗様・和様・大仏様が交じり合った様式であり、上層内部には、宝冠釈迦如来像や十六羅漢像などが安置されています。

東本願寺御影堂門(京都市下京区、1911年再建、重要文化財)

東本願寺御影堂門は、明治44年(1911年)に再建された、東本願寺御影堂の入口となる門です。

その構造は、高さ約27m・三戸二階二重門・入母屋造・本瓦葺きとなっており、木造建築の二重門としては日本一の高さを誇っており、「真宗本廟」の扁額が掲げられています。

上層には、釈迦如来坐像を中央、脇侍として弥勒菩薩立像・阿難尊者立像が安置されています。

その他の有名な現存三門

以上で紹介した日本三大三門や京都三大三門に選ばれていない三門の中にも、日本各地には歴史的に価値の高い三門がいくつも存在しています。

また、三門の名が付されていない山門であっても、三門の形式によっているものもあります。

以下、日本三大三門・京都三大三門以外の有名な三門について、いくつか紹介していきたいと思います。

関東地方の三門

① 増上寺三解脱門(東京都港区、1622年再建、重要文化財)

増上寺三解脱門は、元和7年(1621年)に江戸幕府大工頭・中井正清によって再建された門です。

この門をくぐると、貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚知(ぐち・おろかさ)という三毒(3つの煩悩)から解脱できるとされたことからその名が付されました。

その構造は、高さ約21m・間口約19m・奥行約9m・五間三戸二階二重門・入母屋造・本瓦葺となっています。

上層には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。

中部地方の三門

① 善光寺山門(長野市長野元善町、1750年再建)

善光寺山門は、寛延3年(1750年)に再建された門です。

その構造は、高さ約20m・間口約20m・奥行約8m・五間三戸二階二重門・入母屋造・板葺となっています。

上層には、文殊菩薩像・四天王像などが安置され、上層の正面中央には輪王寺宮公澄法親王の御筆による「善光寺」と書かれた扁額が掲げられています。なお、この扁額は、そこに描かれた字の中に5羽の鳩が見受けられることから、鳩字の額とも言われています。

北陸地方の三門

① 永平寺山門(福井県吉田郡永平寺町、1749年再建、重要文化財)

永平寺山門は、寛延2年(1749年)に再建された門であり、入口両側に仏教の守護神である四天王を祀っています。

その構造は、五間三戸二階二重門・入母屋造・銅板葺の中国唐時代様式の楼閣門となっています。

上層には、釈迦如来像・五百羅漢像などが安置されています。

関西地方の三門

① 東大寺南大門(奈良市雑司町、1199年再建、国宝)

東大寺南大門は、正治元年(1199年)、平重衡によって治承4年(1180)に行われた南都焼き打ちの後に、朝廷や源頼朝らの協力を得て重源上人によって行われた東大寺再建事業の一環として再建された門です。

もっとも、それまでの東大寺南大門は、この南都焼き打ちの際に焼失したのではなく、応和2年(962年)8月に台風によって倒壊していたため、237年ぶりの再建でした。

その構造は、高さ基壇上25.46m(屋根裏まで達する大円柱18本は約21m)・間口約12m・五間三戸二重門・入母屋造(下層は天井がない腰屋根構造)・本瓦葺の宋から伝わった大仏様式(天竺様)となっています。

建仁3年(1203年)には入口左右に金剛力士(仁王)像が安置され、上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられています(現在の扁額は平成18年/2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたもの)。

② 金戒光明寺山門(京都市東山区・1860年再建)

金戒光明寺山門は、江戸幕府の命により文政11年(1828年)から再建に取り掛かり、 万延元年(1860年)12月に禅宗寺院に見られる山門様式にて落慶されたものです。なお、このとき以前に存在していた山門は、応永年間(1398年~1415年)の定玄(金戒光明寺第9世)の時代に建立されたものだったのですが、応仁の乱で焼失し、以降山門が存在しない時代が続いていました。

その構造は、高さ約23m・間口約15mとなっています。

金戒光明寺が浄土宗寺院であるにもかかわらず細部の様式は禅宗様となっており、その楼内壇上正面には、等身座像の釈迦三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)と十六羅漢の像が安置されています。

なお、「浄土真宗最初門」と記された山門楼上の勅額は、第100代の後小松天皇の宸筆であるとされています。

③ 根来寺大門(和歌山県岩出市、1850年再建、重要文化財)

金戒光明寺大門は、嘉永3年(1850年)に再建された門です。仁王門とも言われます。

これ以前にあった大門は、天正13年(1587年)の豊臣秀吉による紀州征伐の際に消失していました。

その構造は、高さ16.88m・幅17.63m・奥行約6m・五間三戸二階二重門・入母屋造・本瓦葺となっています。

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