明智光秀はいつ織田信長の家臣になったのか?

天正10年(1582年)6月2日に京の本能寺において織田信長を殺害したことで有名な明智光秀ですが、その前半生の経歴ほとんど明らかになっていません。

また、室町幕府の幕臣を辞して織田家に仕官し、その後に織田家筆頭家老の地位にまで上り詰めた大人物であるにもかかわらず、織田家家臣団に編入された時期やその経緯についても明らかなことはほとんどわかっていません。

そこで、本稿では、明智光秀が織田家家臣団に編入されるに至った時期について、明智光秀・足利義昭・織田信長らの周囲に起こった事実関係を基に考察していきたいと思います。

流浪時代

朝倉義景仕官時代

明智光秀の足利義昭に仕える前の経歴については、越前国朝倉家に仕えていたということがあるということがわかっているだけで、その他はほとんど明らかとなっていません。

生年はおろか足利義昭に仕えるに至った時期・経緯なども、信頼性の高い資料にその記載がないために明らかではありません。

理由としては、身分がそれほど高いものではなかったために元々資料が少なかったことに加え、謀反人として処断されたために資料が処分・散逸されてしまったことによるものと考えられます。

これまでの足利義昭に仕える前の経歴についての定説の根拠は、江戸時代中期に書かれた軍記物である「明智軍記」の記載によるものです。

明智軍記によると、明智光秀は、美濃国守護であった土岐氏の一族の出身者であり、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで斎藤義龍方に敗れて一族と共に離散し、その後に朝倉義景を頼って越前国に逃れて朝倉義景に仕えたとされていますが、本当のところはわかっていません。

もっとも、明智光秀と同年代を生きた同念上人が記したとされる「遊行三十一祖京畿御修行記」に、明智光秀が称念寺(現在の福井県坂井市)門前に10年居住して朝倉義景に仕えたとの記載があり、これが真実であるとすると、後に明智光秀が越前国を去って織田家に向かうのが永禄11年(1568年)ですのでその10年前である永禄元年頃(1558年頃)に明智光秀が越前国に来たこととなり、明智軍記の記載とも整合しますので、明智軍記の記載に一定程度の真実が含まれているのかもしれません。

なお、朝倉家に仕えていた際の明智光秀の地位については、500貫文を得て10騎・兵100人を率いる騎馬身分であったとする説(細川家記)や、わずかに従者1人を率いるだけの身分とする説(太田牛一旧記)などがありその詳細は不明です。

1563年時点幕臣説→否定説多数

以上に対し、明智光秀が永禄6年(1563年)の時点で室町幕府に仕えていたとする説があります。

その根拠は、群書類従所収の「永禄六年諸役人附」という室町幕府の役人名簿の後半部の足軽衆に「明智」という記載があり、これをそのまま素直に読めば、明智光秀が室町幕府第13代将軍足利義輝の時代である永禄6年(1563年)に室町幕府に仕えていたと考えられるというものです。

もっとも、現在ではこのように考える説は少数です。

なぜなら、「永禄六年諸役人附」は、御供衆・御部屋衆・申次と始まって足軽衆で終わる一連の記載の後に、改めて御供衆から始まる一連の記載がなされているという前半部と後半部の2部構成となっており、前半部は永禄6年作成のものであるものの、後半部は後に付けたされたものと見るのが妥当な解釈と考えられているからです。

この点、前半部は、大納言・山科言継が記した「言継卿記」に記された足利義輝の家臣名とほぼ一致するため、永禄6年の幕臣リストであることにほぼ異論はありません。

他方、後半部のリストはいつのものかを考えると、前半部のリストに載っている人物のうち永禄の変で討死した人物が全て後半部のリストから消えているため、これらの後半部のリストは足利義輝死後に作成されたものであることがわかります。

また、このリストは室町幕府第14代将軍となった足利義栄には引き継がれていませんので、この後半部のリストは、足利義昭によって作成されたものであることがわかります。

このことから、これらの後半部のリストは足利義昭時代に作成されたものであり、後半部にのみ名がある明智光秀は、室町幕府第13代将軍足利義輝時代には室町幕府には仕えておらず、同15代足利義昭時代(早くとも両者が出会ったと考えられる永禄10年/1567年11月以降)に室町幕府足軽衆として仕えることとなったということがわかるというわけです。

以上のことから、明智光秀が永禄6年(1563年)の時点で室町幕府に仕えていたとする説は否定されることが一般的です。

なお、後半部のリストに記されているとは言え,名は省略され、名字のみが記載されているに過ぎないことから、室町幕府に仕えるに至った当初の明智光秀は、身分の低い取るに足らない存在に過ぎなかったことがわかります。

田中城籠城?(1565年5月頃?)

他方、足利義昭と出会う前に室町幕府に与して戦ったことがあるということを示す文書も存在しています。

平成26年(2014年)に熊本藩細川家の第二家老で医者だった米田貞能(米田求政)の子孫の熊本市内の自宅で発見された古文書です。

当該古文書(現在は熊本県立美術館に寄託)は、元々は別の目的のために作成された書状だったのですが、その書状の裏紙がメモとして使用され(当時は紙が貴重品でしたので再利用されることが多くありました。)、そこに永禄9年10月20日付で針薬方(現在でいう処方箋)が記されていたのですが、そこに明智十兵衛=明智光秀という奥付がなされ、出産や刀傷の対処法など当時としては高度な医学的知識に関する記述などが見られたのです。

この書面の記載内容によると、三好軍が湖西と越前とを繋ぐ交通の要衝地にあった高嶋田中城(現在の滋賀県高島市安曇川町)を攻めた際、明智光秀が幕府方として同城に籠城したとされ、その籠城戦の際に明智光秀が語った医学的知識を語り、その内容を人づてに聞いた米田貞能が永禄9年(1566年)10月20日にまとめたものであることが推測されます。

このことから、明智光秀が越前国滞在中に医師として生計を立てていたこと、永禄9年(1566年)10月20日以前に幕府方に与して高嶋田中城に籠城していたことが明らかとなります。

なお、明智光秀が高嶋田中城に籠城した時期は、永禄8年(1565年)5月9日に起こった室町幕府第13代将軍足利義輝暗殺事件である永禄の変の直後ころであると考えられており、仮に、これが真実であるとすると、この頃は足利義昭が自身に味方するように全国各地に檄文を発していた時期でしたので、明智光秀もまたこの足利義昭の檄文に触発されてはせ参じた者の1人だった可能性があります(もっとも、この時点で、明智光秀が足利義昭と面識があったとは考えられていません。)。

足利義昭と対面(1567年11月頃?)

永禄8年(1565年)5月19日に三好三人衆・松永久通によって室町幕府13代将軍足利義輝が暗殺されると(永禄の変)、危険を感じたその弟である覚慶(後の足利義昭)が幽閉されていた南都興福寺一条院を脱出します。

その後、足利義昭は、和田惟政を頼って近江国甲賀郡和田(現在の滋賀県甲賀市)、六角義賢の援助を受けて近江国野洲郡矢島(現在の滋賀県守山市)の少林寺、武田義統を頼って若狭国へとそれぞれ流転した後、永禄10年(1567年)11月21日、朝倉義景を頼って朝倉家の本拠地があった一乗谷(現在の福井市)の安養寺に移座します。

このとき、明智光秀は、足利義昭が入った安養寺から3kmほど離れた東大味に居住していたとみられ、明智光秀と足利義昭との間に接点が出来たものと考えられます。

この後、足利義昭は、朝倉義景に上洛を促すこととなったのですが全く動く様子を見せなかったためにこれに見切りを付けます。

細川藤孝の中間(室町幕府足軽衆)時代

細川藤孝の中間となる

足利義昭は、朝倉義景を見限った後、美濃国を切り取って上り調子となっていた織田信長を頼ることとします(実際には、永禄8年/1565年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する旨の調整がなされていることから、このときは2度目の調整でした。)。

そこで、足利義昭は、細川藤孝を使者として織田信長の下に派遣したのですが、このときの使者として、このころまでに室町幕府の足軽衆となっていた明智光秀が細川藤孝に従っています。

なお、ここでいう足軽とは単なる雑兵ではなく、足利義輝時代に創設された将軍直臣ではないながらも行列などの際に徒歩で従う精鋭兵士という意味です(時期やその理由は不明ではあるものの、明智光秀はこの頃までに細川藤孝の家臣に組み込まれたものと考えられています(老人雑話・武功雑記)。)。

他方、足軽衆は、将軍直臣の身分ではなかったためにそれほど高い身分ではなく、この時点の明智光秀は、室町幕府・奉公衆であった細川藤孝に仕えていた(足利義昭からすると陪臣)と考えられています。

このことは、本能寺の変の4ヶ月後である天正10年(1582年)10月に宣教師として畿内で布教活動をしていたルイスフロイスがイエズス会本部に送った「1582年日本年報追加」の中に明智光秀が元々卑しい歩卒(足軽)であったと記し、また興福寺多聞院主であった英俊が記した「多聞院日記・同年6月17日欄」に細川藤孝に仕える足軽・中間(主人の身のまわりの雑務に従事する武士の最下層)であったと記されていることとも整合します。

いずれにせよ、身分の必ずしも高くなかった明智光秀が細川藤孝に従って尾張国に派遣された理由は、京ことばを話す細川藤孝と、尾張なまりの強い織田信長との会話を成立させるための通訳だったのではないかとも考えられます(明智光秀が、美濃国で生れたと考えられることから尾張なまりを聞き取ることができ、また京文化の影響を強く受けた越前国での生活歴があったため京ことばも理解できたと考えられるため。)

美濃国へ(1568年7月22日)

細川藤孝・明智光秀らの交渉の結果、織田家が足利義昭を奉じて上洛作戦を展開することに決まったため、足利義昭は、永禄11年(1568年)7月13日、朝倉義景から織田信長への鞍替えを決めて朝倉義景が治める一乗谷を抜け出します。

そして、足利義昭は、同年7月16日に北近江の小谷城で織田信長の同盟者であった浅井長政の饗応を受け、同年7月25日に信長と美濃国の立政寺で織田信長に対面するに至ります。

足利義昭と共に入京(1568年10月)

そして、永禄11年(1568年)9月7日、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすため、道中の障害となる六角家を討伐しもって南近江国を平定するため、1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立します。

同年9月12日の観音寺城の戦いで六角家を蹴散らした織田軍は、同年9月28日畿内を治めていた三好三人衆の畿内支配の拠点となっていた芥川山城に軍を進めてこれを接収し、畿内支配の拠点を確保した上で同城に足利義昭を迎え入れます。

織田信長は、同年9月30日、同城に足利義昭を入れて将軍家の旗を掲げさせ、足利義昭の名を利用して同城を拠点として摂津国・大和国・河内国の平定を進めます。

その後、同年10月14日、畿内の安全が確保されたと判断した織田信長は、足利義昭を供奉して入京し、足利義昭を本圀寺に入れ、明智光秀もこれに同伴します。

本圀寺に入った足利義昭は、公家の菊亭晴季、山科言継、庭田重保、葉室頼房、聖護院門跡の道澄などの訪問を受けるなどして、室町幕府将軍職就任への準備を進めていきます。

そして、同年10月18日に足利義昭が室町幕府第15代征夷大将軍に就任した後も公家とのパイプの強化策は進められ、明智光秀もまたその手伝いに従事し、同年11月15日には近衛前久の弟で聖護院門跡の道澄が主催した連歌会に参加するなどしています。

本圀寺の変(1569年1月5日)

足利義昭が征夷大将軍に就任し幕府再興がはじめられたことを見届けた織田信長は、近江国・若狭国の国衆約2000人と足利義昭直属の奉公衆に足利義昭の警備を託し、永禄11年(1568年)10月26日、一旦本拠地である美濃(岐阜)に帰国します。

ところが、織田信長が主力軍を連れて本拠地に戻ったことにより京が手薄となったのをチャンスと見た三好三人衆が、京の奪還と足利義昭打倒を目指して動き始めます。

織田信長に追われて本拠地・阿波国に逃げ帰っていた三好三人衆は、永禄12年(1569年)正月早々、畿内に戻って1万人もの兵を編成して京に進軍し、同年1月5日に市中に火を放ちながら足利義昭がいる本圀寺へ進軍していきます。

本圀寺が堀や土塁・石垣を巡らした城郭様様式の寺ではなかったこと、在京していた織田・足利方の兵が2000人に過ぎなかったことなどから、足利義昭は命の危機を迎えます(本圀寺の変)。

永禄8年(1565年)に室町幕府13代将軍足利義輝を暗殺している三好三人衆(永禄の変)に将軍暗殺の迷いなどありません。

絶体絶命の危機に陥った足利義昭ですが、このときに大活躍をしたのが明智光秀です。

足利義昭の危機の報を受け、まずは室町幕府・足軽衆が足利義昭護衛のために本圀寺に結集して来るのですが、このときの記載として本圀寺に集結して立てこもった人物13人のうちの1人として「明智十兵衛」=明智光秀の名が挙げられます(信長公記)。なお、これが、信憑性の高いとされる資料に登場する明智光秀の初見であり、信長公記の記載から、この時点での明智光秀の地位は、室町幕府の足軽衆の1人であったことがわかります。

明智光秀ら室町幕府足軽衆は、本圀寺に籠城して迫りくる三好三人衆の軍を撃退して時間を稼ぎ、この間に、将軍襲撃の報が足利義昭に与する各将の下に届けられていきます。

その結果、同年1月6日には、将軍直属の細川藤孝・和田惟政、三好本家の三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正・荒木村重らが、続々と足利義昭の援軍として本圀寺に駆け付けたため、何とか足利義昭方が三好三人衆を撃退することに成功しました。

この後、本圀寺の変での奮闘ぶりを評価されたのかは不明ですが、明智光秀は、その翌月である永禄12年(1569年)2月頃から室町幕府の文書発給に携わり始めるようになります(同年2月29日付の明智光秀・村井貞勝・日乗上人連署文書も残されています。)。

幕臣(室町幕府奉公衆)時代

京都奉行就任(1569年4月頃?)

他方、足利義昭が襲撃を受けたことにより京の防衛上の問題点を見て取った織田信長は、足利義昭のために将軍御所となる二条城を建築すると共に、将軍を補佐する軍事力としての京都奉行を創設し武断派武将を配置して京の防衛・治安維持を進めます。

まずは、足利義昭のための将軍御所として二条城を築城した上(この城は現存する二条城とは別物です)、京都奉行という名の京警備のための軍を在京させることとします。

その後、京の治安が回復していくと、織田信長は、京統治のための軍事機関であった京都奉行について、それまでの軍事面重視の役割に加え、政治・経済・外交機関としての役割を持たせ、これらにより足利・織田連合政権を確立させていくよう政策を進めていきます。

この結果、永禄12年(1569年)4月12日、京都奉行についてもそれまでの武断派武将から文治派武将に変更され、織田家からは丹羽長秀・中川重政・木下秀吉ら、足利将軍家からは明智光秀などが選ばれ、共同で京統治を進めていくようになりました。

室町幕府奉公衆就任(1570年1月頃?)

以上のとおり、室町幕府内で順調に出世していった明智光秀は、遅くとも永禄13年(1570年)1月26日までに、細川藤孝の中間(室町幕府足軽衆)から足利義昭の直臣(室町幕府奉公衆)への出世を果たします

なお、同日までに明智光秀が室町幕府奉公衆となっていた根拠は、同日、公家の山科言継が室町幕府奉公衆へ年頭の礼に回っているのですが、その中に上京に居住していたとされる明智光秀が含まれていたことです。

また、同年1月には、織田信長から足利義昭に対して、その権限を規制する内容の「殿中御掟」が出されているのですが、その宛先が明智光秀と朝山日乗となっていることから、この時点で明智光秀の身分が室町幕府内で上位に上っていたことがわかります。

山城国久世荘拝領(1570年4月頃?)

また、明智光秀は、元亀元年(1570年)4月頃、足利義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられています。

もっとも、この山城国久世荘は、元々東寺領であったため、東寺からすると明智光秀が幕府の命として押領しているようにとらえられ、東寺から幕府や朝廷に対して中止を求める文書(東寺百合文書)が出されています。

金ヶ崎の退き口(1570年4月20日)

この頃は、まだ足利義昭と織田信長が協力関係にあったため、明智光秀は足利義昭軍の一員として織田信長の軍事行動に随行しています。

永禄13年(1570年)4月20日に、織田信長が、徳川家康軍、池田勝正・松永久秀などの畿内武将、公家である日野輝資・飛鳥井雅敦などの公家をも引き連れ、総勢3万人とも言われる大軍を率いて京を出陣し若狭国に向かって進んでいったのですが、明智光秀もまたこれに随行します。

また、若狭国に入った織田信長の動きに対して朝倉義景が武藤家の救援の兵を向かわせたため織田信長が越前国攻撃の口実を得て攻略目標を越前国に変更すると、明智光秀もまた織田信長に従って越前国に向かいます。

ところが、元亀元年(1570年)4月28日、北近江の浅井長政が織田軍を裏切って織田軍を挟撃するために迫ってきたため、織田信長は、越前国・朝倉攻めを中止し、京に撤退するとの決断を下します。

このとき、織田信長は、木ノ芽峠に向かって北上させていた軍を南下させて一旦金ヶ崎城に入れ、殿として池田勝正率いる3000人のほか、明智光秀・木下秀吉らを残した上、残りを京に向かって全軍撤退させることとします(金ヶ崎の退き口)。

このとき、明智光秀らが獅子奮迅の活躍を見せて織田信長の退却時間を稼ぎ、織田信長の撤退を成功させると共に、明智光秀自身もまた京への撤退を果たします。

明智光秀は、この後も織田信長の軍事行動に従軍しており、同年6月28日の姉川の戦いや、同年9月の志賀の陣にも参陣しています。

もっとも、この頃の明智光秀は、まだその所領も大きくなかったため、率いる兵は300〜400人程度と多くなく、合戦で活躍するというよりは調略などを担当し、特に志賀の陣の最中には宇佐山城に入って近江国滋賀郡周辺の国衆達の調略に尽力していました。

足利義昭と織田信長との関係悪化

もっとも、志賀の陣に対する対応にかかりきりとなった織田軍に対して周辺勢力の反発が起き、比叡山を取り囲む織田軍を周辺勢力が取り囲む状況となり、織田軍は苦しくなります(第一次信長包囲網)。

この状況下において、第1次信長包囲網を織田信長陣営として参加しながらも自らを神輿としてしか見ていない織田信長を対し内心苦々しく思っていた足利義昭が、織田信長の勢いが衰えたと見るや、自らに対する織田信長の影響力を弱めるため、元亀2年(1571年)ころから、織田信長に敵対する力を持つ勢力に接近していき、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・石山本願寺・比叡山延暦寺・六角義賢・武田信玄などに御内書を乱発していくようになります。

この結果、足利義昭と織田信長との関係が急激に悪化していきます。

織田信長の家臣時代

比叡山焼き討ち(1571年9月12日)

織田信長は、志賀の陣の際に浅井・朝倉連合軍を匿ったことによって織田軍大敗北の要因を作出した比叡山延暦寺に対し、強い恨みを持つようになります。

そこで、織田信長は、比叡山延暦寺を殲滅するために3万人もの軍を編成し、元亀2年(1571年)9月11日夜半、これらを総動員して比叡山を完全に包囲します。

そして、同年9月12日、坂本・堅田などの比叡山麓の門前町に火が放たれたのを合図として、比叡山を取り囲む織田軍による比叡山総攻撃が始まり、山中にある堂宇に火を放ち、敵対して来る僧を殺戮しながら延暦寺を目指して比叡山を上って行きます。

このときの織田軍の中心的役割を果たしたのが明智光秀でした。

明智光秀は、仏敵となることを恐れて尻込みする将兵を尻目に、次々と比叡山を蹂躙していき、一夜にして比叡山を無力化させてしまいました(比叡山焼き討ち)。

そして、比叡山延暦寺が焼かれていったのを見届けた織田信長は、戦後処理を明智光秀に任せ、同年9月13日午前9時頃、馬廻り衆を従えて比叡山を出立し京に入ります。

なお、このときの明智光秀の身分としては、室町幕府幕臣のままだったのか、織田信長に下っていたのかは必ずしも明らかではありませんが、織田家中でその力を見せつけるために躊躇なく比叡山延暦寺を蹂躙したことなどを考えると、明智光秀は、この時点では既に足利義昭を見限り、織田家家臣団に編入される過渡期にいたものと考えられます。

近江国滋賀郡拝領(1571年9月)

比叡山を無力化させて260箇所の領地や坂本の7つの港を含めた様々な利権を手中に収めた織田信長は、没収した土地や利権につき、論功行賞として臣下に分け与えます。

ここで、織田信長は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀らを中心としてその分配を行います。

この中でも、特に比叡山焼き討ちの中心部隊として戦った明智光秀に対する分配は特別なものであり、織田家中で初めて知行となる近江国滋賀郡5万石が与えられました。なお、織田家中では、このときまでに城を与えられていた家臣はいたのですが(永原城の佐久間信盛・長光寺城の柴田勝家・佐和山城の丹羽長秀・宇佐山城の森可成など)、知行を与えられたのは、記録がある中では明智光秀が初めてです。

これにより、明智光秀は、遅くともこの近江国滋賀郡拝領の時点では織田信長の家臣となったものと考えられます(足利義昭と織田信長の両属であったかどうかについては議論の余地があります。)。

足利義昭へ暇願い(1571年12月頃?)

近江国滋賀郡 5万石を得たことにより室町幕府の幕臣である必要性がなくなった明智光秀は、元亀2年(1571年)12月頃、足利義昭に暇を出して欲しい(足利義昭の家臣から解放して欲しい)旨を申し出ます。

この点については、作成年月日は不明ではあるものの、同年12月頃作成と考えられる明智光秀から足利義昭の側近であった曽我助乗に宛てた文書(神田孝平氏所蔵文書)が残されており、そこに「先の見込みがない」として暇を願い出ていることが記載されています。

この頃は、足利義昭が「天下静謐」のためとして全国の大名に対織田信長のための軍事行動を起こすように命じた御内書を下し始めた時期であり、明智光秀がこの足利義昭の行動に難色を示して足利義昭を見限ることとなった可能性が考えられます。

もっとも、この明智光秀の暇願いは足利義昭から不許可とされたのですが、その後まもなく、明智光秀が足利義昭の下を去って織田信長の臣下に下り、正式に織田家臣団に編入されたと考えられています(なお、元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した際には明智光秀がまだ足利義昭の参加に傘下にいたとする史料もあり、正確な時期は不明です。)。

結論

以上からすると、幕臣であった明智光秀は、元亀2年(1571年)9月ころに織田信長の家臣にもなった後(足利義昭と織田信長への両属)、同年12月頃に足利義昭の下を離れて織田信長のみに仕えるようになったと考えるのが妥当と考えます。

その後、かつての明智光秀の上司であった細川藤孝もまた織田信長に下ることとなり、また元亀4年(1573年)7月の槇島城の戦いに敗れて足利義昭が京から追放された後で伊勢貞興や諏訪盛直などの旧幕臣が織田信長に下ることとなったのですが、これらはことごとく明智光秀の指揮下に組み込まれます。

このことは、かつての上司にあたる細川藤孝からすると屈辱的人事であったと考えられるのですが、織田信長に下った時期が1年早かったことがその後の両者の出世に大きな違いをもたらしたものといえます。

なお、この後、坂本城を築城して同城を本拠に据えた明智光秀は、天正3年(1575年)7月には惟任(これとう)の賜姓と従五位下日向守に任官を受け、また、天正8(1580年)には佐久間信盛が織田家から追放されたのに入れ代わって織田家筆頭の地位に登り詰めます。

その後、天正10年(1582年)6月2日にその理由が日本史上最大の謎といわれる本能寺の変を起こすのですが、長くなりますので本稿での紹介は割愛します。

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