【丸亀城(日本100名城78番)】石垣総高日本一の城

丸亀城(まるがめじょう)は、かつての讃岐国・現在の香川県丸亀市一番丁4番地乙にある平山城です。

高松城の支城として築城された後、瀬戸内へ島原の乱の影響が波及することを封じるために大改修がなされました。

そのため、丸亀藩6万石という小藩の政庁でありながら、4段に分けて積み上げられた総高日本一となる雛壇状の高い石垣を持つ壮大な城となっています。

また、江戸時代から残る現存十ニ天守の1つが残る歴史的価値が高い城なのですが、小藩ということもあって、実際の天守は天守を持たない・持てない城で天守の代用とされた最高格式の特別な櫓(三重櫓)であり、現存十二天守の中で最小のものとなっています。

以上の結果、現在の丸亀城は、壮大な石垣の上に、小さな天守がぽつんと残るアンバランスさが印象的な城となっています。

丸亀城築城

丸亀城の立地

丸亀の地は、古くから海上交通の要衝として物資の集散地として発展した地であり、この海上交通により得られる経済力を獲得するため丸亀の地を見下ろす亀山に築かれたのが丸亀城です。

亀山砦建築(室町時代初期)

丸亀城の前身は、室町時代初期の14世紀頃に、室町幕府管領・細川頼之の重臣であった奈良元安が築いた亀山砦です。

生駒家による築城(1602年)

その後、天正15年(1587年)に讃岐国12万6千200石を与えられて高松城に入った生駒親正が、慶長2年(1597年)にその支城として亀山砦を大改修して城郭化したことから丸亀城の歴史が始まります。

その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて生駒親正が西軍に与して高野山蟄居となったのですが、その子の生駒一正が東軍に与して生駒家の所領安堵とされたために丸亀城の築城を引き継ぎ、慶長7年(1602年)に丸亀城が完成します。

なお、同地が丸亀と呼ばれるようになったのは、生駒一正が、同年に亀山の上に完成した城を「丸亀城」と名付けたことに由来します。

一国一城令で廃城(1615年)

元和元年(1615年)に一国一城令が発布されると、生駒家の支城であった丸亀城は(本城は高松城)破却の危機を迎えます。

もっとも、ときの藩主であった生駒正俊は、丸亀城を樹木で覆い隠したり、一般の立ち入りを制限したりすることによって丸亀城を秘匿し、その破却を免れます。

丸亀藩立藩(1641年)

寛永17年(1640年)に生駒家が、お家騒動(生駒騒動)の責めを負って出羽国矢島(現秋田県由利本荘市)に転封となります。

その結果、寛永18年(1641年)に生駒家に代わって山崎家治が5万石を与えられて肥後国富岡(現在の熊本県天草郡苓北町)から丸亀に入り、丸亀藩を立藩します。

なお、東讃地域では、生駒家に代わって松平頼重が12万石を与えられて常陸国下館藩から高松に入り、高松藩を立藩しています。

山崎家治による改修(1643年~)

丸亀藩主となった山崎家治は、寛永20年(1643年)、銀300貫の付与と参勤交代を免除することを条件として、江戸幕府から瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城の改修を命じられ、丸亀城の普請が始まります。

なお、正保元年(1644年)に江戸幕府が山崎家に対して城及び城下の絵図の作成を命じ、正保2年(1645年)に作成された丸亀城の絵図が江戸幕府に提出されています(正保城絵図・国立公文書館デジタルアーカイブ)。

京極家による改修

その後、明暦3年(1657年)に山崎家が3代で無嗣断絶改易となると、翌万治元年(1658年)に代わって京極高和が6万石を与えられて播磨国龍野(現兵庫県たつの市)から丸亀に入ります。

丸亀城に入った京極高和は、大手の位置を変更することとし、万治3年(1660年)、それまで搦手門とされていた海側の門を大手門に変更します。

また、大手門から見上げる位置関係となる石垣の端に、3層3階の御三階櫓を築きます(このとき建てられたのが、現在残る天守です)。

そして、延宝元年(1673年)、寛永20年(1643年)から足掛け30年に及んだ丸亀城の大改修工事がようやく完成を迎えます。

なお、現存する石垣等は、そのほとんどがこのときまでになされた改修によるものです。

丸亀城の縄張り

丸亀城は、標高約66mの亀山に本丸を設け、その周囲に、二の丸・三の丸・帯曲輪・山下曲輪を螺旋状に配した東西約540m・南北約460mの渦郭式平山城構造の城です。

亀山に築かれているため、別名「亀山城」とも呼ばれます。

亀山を中心とし、その周囲に配された各曲輪は堀で遮断され、さらに各曲輪は花崗岩が積み上げられた高い石垣で守られていました。

また、山上には11棟の隅櫓が配され、それらが渡櫓や門で有機的に接続されるなど、強固な防衛力を誇っていました。

特に石垣は見事なもので、亀山の山麓から山頂まで4層に渡り、山麓部石垣・三の丸石垣・二の丸石垣・本丸石垣と段々に積み上げられており、これらの累計した高さは約60mにも及び、日本一の高石垣となっています(単体としての高石垣日本一は大坂城の33m、次点が上野城の30m)

往時の建築物として、大手一の門・大手二の門・藩主玄関先御門・番所・御籠部屋・長屋が現存しており、そのうち天守・大手一の門・大手二の門は重要文化財に指定されています。

外堀

丸亀城の外堀は、概ね前記図面のとおりの配置となっており、明治期ころまではそのままの形状で存在していたのですが、昭和23年(1948年)頃からの琴平参宮電鉄の路線延長・廃線や旧国道11号(県道33号線)の整備などにより徐々に埋め立てが進み、現在までにその全てが失われています。

外曲輪

丸亀城外堀と内堀との間に存した外曲輪は、丸亀藩士の住居である武家屋敷として使用されました。

内堀

山下曲輪

山下曲輪は、内堀の内側かつ内曲輪の外側に配されたドーナツ型の曲輪です。

この山下曲輪の北側には大手桝形が配された強力な防衛施設となっており、また山下曲輪内には侍屋敷が建ち並んでいました。

なお、 山下曲輪西部には、昭和47年(1972年)に丸亀城・京極家に関わる史料を展示する丸亀市立資料館が開館しています。

同資料館には、城の大手改修の時に、絵図と共に幕府に提出されたという「丸亀城木図」という木型の立体模型が残っており、木型模型(1/650)の現存例は丸亀城のものしかありません。

(1)大手内枡形

丸亀城大手桝形は、山下曲輪の北側中央部に位置する防衛拠点です。

生駒家・山﨑家の時代には丸亀城の大手は南側に配置されていたのですが、京極家の時代に大手を現在地である北側に変更したため、新たに大手となった北側の防備を固めるために設けられた防衛拠点です。

城内側の櫓門を一の門、堀端の高麗門を二の門といい、これらの門と石垣・土塀によって内枡形を形成しています。

① 大手二の門(重要文化財)

大手二の門は、大手桝形の外側を区画する高麗門です。

丸亀城の入口正面に位置する丸亀城の顔とも言える門ですので、その土台となる石垣には巨大な石が使用され、またノミの後も美しく仕上げられているのが特徴です。

大手門と天守の双方が残された現存する城は極めて珍しく、日本国中を見ても丸亀城のほかには弘前城と高知城しかありません。

② 大手一の門(重要文化財)

大手一の門は、寛文10年(1670年)に建築された大手桝形の内側を区画する入母屋造・本瓦葺の櫓門です。

棟の両端には鬼瓦と鯱瓦がそびえ、主要部分は欅材が用いられています。

江戸時代には、楼上に太鼓が置かれて城下に刻を知らせていたことから「太鼓門」とも呼ばれ、現在も時を伝える「時太鼓」のレプリカが置かれています。

大手内枡形を構成する大手一の門と大手二の門は、往時のものが現存しており、いずれも重要文化財に指定されています。

(2)搦手門跡

山下曲輪南側に設けられた搦手口は、山﨑家時代まで丸亀城の大手として使用されていた場所です。

(3)京極屋敷跡

京極屋敷跡は、山下曲輪北西部に位置する丸亀藩主・京極家の屋敷跡です。

① 玄関先御門

玄関先御門は、京極家屋敷の表面に位置する薬井門です。

② 番所

③ 長屋

④ 藩主御殿

山下曲輪北西部には、玄関先御門の南側に藩主御殿があったのですが、明治2年(1869年)の火災により焼失しています。

(4)見返り坂

大手内桝形を通って山下曲輪に入り、そのまま南進して三の丸に向かう際に通るのが見返り坂です。

見返り坂は、斜度10度の上り坂が約150m続くルートであり(さらにその後、右に曲がって三の丸大手に向かい、更なる急こう配の上り坂が待っています。)、その急勾配から上ってきたものが後ろを振り返ることにちなんでその名が付されました。

帯曲輪

帯曲輪は、三の丸下段を帯状に巡る曲輪です。

三の丸

三の丸は、海抜約50.5mに位置する、本丸及び二の丸の周囲を巡るドーナツ型の曲輪であり、往時には3つの隅櫓(月見櫓・坤櫓・戌亥櫓)が配されていました。

大手門を突破した後、傾斜角度が10度ある急な上り坂(通称:見返り坂)を150mほど上った先にあります。

(1)三の丸石垣

三の丸石垣は、石垣で有名な丸亀城の中でもひときわ立派なものであり、一番高い場所は三の丸石垣単体として約22mに及んでいます。

また、三の丸北側高石垣は打込接で積まれており、扇の勾配にも一見の価値があります。

(2)三の丸大手口跡

三の丸大手は、三の丸の北側に配された三の丸の正面入口です。

急な上り坂を両脇から狙われながら上って行かなければならないという構造となっています。

(3)三の丸搦手口跡

三の丸南側搦手口は、元々は丸亀城の大手として使用されていた場所です。

そのため、石垣を巧みに配置した城内で最も堅固に造られています。

(4)月見櫓跡

月見櫓は、三の丸東南隅に設けられた櫓です。

月見をするための絶好のロケーションであったため、その名が付されました。

(5)坤櫓(水手櫓)跡

坤櫓(ひつじさるやぐら)は、三の丸南西隅に設けられた櫓です。

(6)戌亥櫓(七間櫓)跡

戌亥櫓(たつみやぐら)は、三の丸北西隅に設けられた櫓です。

明治2年(1869年)に発生した火災により焼失しています。

(7)三の丸井戸

三の丸井戸は、その名のとおり三の丸に設けられた井戸であり、本丸の下に存在していることから抜け穴伝説があります。

(8)延寿閣別館

延寿閣は、現在の丸亀市通町にあった丸亀京極藩6代藩主・京極高朗の別邸(隠居屋敷)でした。

この延寿閣は、昭和8年(1933年)に城下から丸亀城三の丸に移築されると共に、移築に際して延寿閣に連なる貴賓室として木造平屋・延べ床面積約120㎡の別館(特別室)が整備されました。

移築後の延寿閣は、老朽化を理由として昭和60年(1985年)に解体されたのですが、京極家江戸藩邸の建物から天井や欄間、飾り金具などが移築使用されるなどして別邸のみ残され、現在に至っています。

二の丸

二の丸は、海抜約58.6mに位置する、本丸の面前(本丸虎口がある東側)を守る方形の曲輪です。

(1)二の丸石垣

二の丸の石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から始まり、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせるという「扇の勾配」と呼ばれる構造となっているのが特徴的です。

(2)二の丸大手口跡

(3)二の丸搦手口跡

(4)長崎櫓跡

(5)番頭櫓(鬼門櫓)跡

(6)塩櫓(藍櫓)跡

(7)辰巳櫓跡

(8)五番櫓跡

五番櫓は、二の丸南側中央に設けられた櫓であり、三の丸搦手口(かつての大手口)を突破してきた敵兵が二の丸に取りつく直前に前方から攻撃できるよう配置されました。

(9)二の丸井戸

二の丸井戸は、その名のとおり二の丸に設けられた井戸であり、丸亀城内で最も高所にある井戸です。

二の丸井戸の直径は1間(約1.8m)・深さは36間(約65m)あり、日本中の城内井戸で最も深い井戸であるとも言われており、いまだに水を湛えた生きた井戸として残っています。

この二の丸井戸には悲しい伝説が残されています。

それは、丸亀城完成後、その石垣の出来栄えに満足した城主(生駒親正とも山崎家治とも言われています)が、見事な石垣であるため誰も登れないだろうと発言したところ、その面前で石垣名人と謳われていた羽坂重三郎が短い鉄の棒を使って登ってしまったため、これを見た城主が、羽坂重三郎が敵と通じると丸亀城の石垣の防御力が失われると判断し、羽坂重三郎に二の丸井戸の調査を命じて井戸に入らせた後、石を落として殺してしまったというものです。

本丸

丸亀城本丸は、海抜約66mに位置する亀山の最高所に築かれた丸亀城最重要曲輪です。

本丸には、北東隅の天守のほか、南東隅に宋門櫓・南西隅に多聞櫓・北西隅に姫櫓が配され、それらに渡櫓・土塀を巡らして守る構造となっていました。

(1)本丸虎口跡

(2)宋門櫓跡

(3)姫櫓跡

(4)多聞櫓跡

天守(現存天守)

丸亀城天守は、万治3年(1660年)に建てられた複合式層塔型3重3階・高さ約15mで築かれた天守代用の御三階櫓です。

昭和23年(1948年)から昭和25年(1950年)にかけて行われた解体修理の際に、三層の壁から「萬治第三天三月吉祥日」と墨書された木札が見つかったことから建築日が判明しました。

構造としては、南北棟屋根は入母屋造・本瓦葺、軒裏は丸垂木型総塗籠となっており、1層目に石落とし、2層目の南北両面に唐破風、3層目の東西両面に千鳥破風を飾り、北側には格子付大窓が設けられています。

三重櫓ですので天守というにはやや小ぶりなのですが(現存十二天守の中で最小)、天守を持たない・持てない城で天守の代用とされた最高格式の特別な櫓ですので、現存十二天守の1つに数えられています。

なお、小さな天守ではあるのですが、通し柱を用いずに各階に柱を建てることにより各階を下から順に狭める逓減率を大きくしたり、また東西6間(約11m)・南北5間の場合には本来東西方向に棟を設けるべきところを南北棟とすることにより入母屋破風を城下に向けたりするなどして、城下から見上げた際に少しでも大きく見えるような工夫が施されています。

明治10年頃から丸亀城内の城郭建築物の取り壊しが始まり、その際に独立式層塔型3重3階構造に改められています。

昭和18年(1943年)に国宝保存法に基づき旧国宝に指定され、また昭和25年(1950年)の解体修理後に文化財保護法による重要文化財となっています。

城下町

丸亀城の城下町は、城郭の北側を中心に発展します。

具体的には、城郭のすぐ北側に位置する南条町・本町・塩飽町エリアや、さらにその北側に位置する海沿いの三浦エリア(御供所町・西平山・北平山)を中心として城下町が形成されていきました。

丸亀城廃城

丸亀城廃城(1871年)

明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県により丸亀藩が丸亀県となると、藩庁であった丸亀城も廃城となります。

その結果、明治5年(1872年)に競売の公示が出されたのですが、兵部省管轄になったため競売は取り消しとなります。なお、翌明治6年(1873年)には在城扱いとなり陸軍省管轄となり、名東県の広島鎮台第2分営が設置されています。

丸亀城解体

その後、明治9年(1876年)から丸亀城の本格的な解体工事が始まり、翌年までに現存の建物以外の櫓・城壁等の解体がなされました。

その後、丸亀市により山上部が亀山公園として開設された後、昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定され現在に至っています。

石垣復旧工事

なお、平成30年(2018年)10月の西日本豪雨(平成30年7月豪雨・台風24号)により、南西部に位置する帯曲輪石垣と三の丸坤櫓跡石垣の一部が三度(7月7日・10月8日・10月9日)に亘って崩落したため、本稿執筆時点では同箇所の復旧工事が進められています。

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