【日本三大仏】鎌倉東大寺大仏・鎌倉高徳院大仏+α

日本に点在する寺院には当たり前のように仏像が祀られているのですが、その中にはとてつもなく大きな仏像が祀られている寺院もあります。

このとてつもなく大きな仏像を、略して大仏と呼んでいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、大仏についても日本三大仏と称してランク付けをしてきました。

この日本三大仏については、その概念が出来上がったとされる江戸時代の時点では、すでに奈良大仏と鎌倉大仏が存在していましたので、これらが三大仏に含まれることに異論はありません。

もっとも、最後の3尊目の大仏については定説がなく、その候補がいくつも存在します。

また、時代ごとにその変遷も見られます。

本稿では、日本三大仏について、その時代的変遷を踏まえて簡単に紹介していきたいと思います。

初期仏教の仏舎利信仰

初期仏教の仏舎利信仰

日本に住んでいるとよく見かけるものであるため、仏像が当たり前のように仏教の信仰対象として存在しているかのように感じますが、実は初期の仏教に仏像は存在していませんでした。

人間が、人間を超越した存在である仏を表現することはできないため、仮に人間がこれを具現化しようとしてもそれは人間の技量ん範囲内にとどまることとなり、偉大な存在を矮小化して表現してしまうことになってしまうと考えられたからです。

そのため、初期の仏教には仏像はなく、お釈迦様の遺骨(仏舎利)と、それを安置した塔(古代インド語では「ストゥーパ」といいました。)が信仰の対象となっていました。

そして、この仏舎利・ストゥーパ信仰は、仏教と共にシルクロードを通じて世界中に広がっていきました。

仏舎利代替品信仰

もっとも、仏教の広がっていくと、仏舎利の分骨も頻繁になるため、次第に仏舎利が不足していきます。

遺骨の量は限られていますので、当然です。

そのため、仏教がインドから中国に伝播するころになると、不足する仏舎利に代わり、宝石をその代用品として信仰するようになりました。

具体的にいうと、僧侶がインドやタイに赴き、仏舎利の納められたストゥーパの前で宝石類を供養した上でこれを「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自国の仏塔に納めてこれを信仰するというものです。

仏舎利(代用品)信仰の日本伝来

当然ですが,中国より後に仏教が入って来た日本では、この仏舎利の代用として宝石を信仰する手法が取り入れられました。

日本に入ってきた仏教は、仏舎利の代用品と、それを祀るストゥーパ(塔)が建てられて信仰の対象となり、またそれらを祀る寺院が建築されていきます。

この結果、仏教導入当初である飛鳥時代の仏教寺院は、仏舎利の代用品を納めた塔が信仰対象として寺院の中心に配置される伽藍配置となっています(法隆寺・四天王寺など)。

なお、日本に現存する最古のストゥーパ(塔)は法隆寺五重塔なのですが、その心礎(心柱の礎石)に掘られた穴に仏舎利の代替品としてダイヤモンドでが納められていたとされています。

仏教における信仰対象が仏像に移る

石仏信仰

以上のとおり、当初は仏舎利(またはその代用品)やストゥーパを信仰対象としていた仏教ですが、紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王の遠征軍が到達してギリシヤの彫刻技法が伝わったことにより、インドにおいて次第に仏像が製作されるようになります。

当然ですが、このとき製作されることとなった仏像は、当初は加工が簡単な木造仏や石仏の形で形成されていきます。

この木造や石造りで形成される仏像の大きさは元の木や石の大きさに比例していくこととなるため、製造される仏像は次第に巨大化していき、断崖の石に掘り込むようになるととてつもなく巨大な仏像が製作されるようになっていきます。

そして、この石仏信仰は、中国(雲崗石窟など)、韓国(石窟庵など)を経て、仏舎利・ストゥーパから少し遅れて日本にも伝わり、日本においても石仏が製作されるようになります。

なお、現在残っている初期石仏としては、大分県臼杵市に存在する臼杵磨崖仏などが有名です。

金銅仏製造

また、世界における金銅(ブロンズ)技術の発展に伴い、仏像についても金銅での製造が始まります。

この結果、日本でも、仏舎利→石仏・木仏→金銅仏という信仰対象の変化が起こり、奈良時代以降の寺院では、その信仰対象がから仏像に変遷し、寺院の中心には仏像を納めた金堂(本堂)が配置されるようになります。

その結果、飛鳥時代までの寺院において信仰対象として中心に置かれていた塔が外側に配されるようになり、左右のバランスをとるためにその数もそれまでの1つから2つに増えたているのが通常です。

日本三大仏の成立と変遷

その後、仏教への国家的帰依が進み、その信仰対象である仏像の巨大化が図られていきます。

仏像は、大きければ大きいほどその力も大きいと考えられたためです。

そして、社会不安と疫病対策のため、聖武天皇治世に国家プロジェクトとして大仏建立(金銅仏の巨大化)という難事業がはじめられることとなりました。

もっとも、この大仏建立事業は当時の技術力からするととてつもない挑戦的計画でした。

なぜなら、常温で固体化している木や石を彫っていくのとは異なり、高温で溶けている金属を特定の形に造形する(いわゆる巨大な鋳物の製造)ことはとてつもなく困難だったからです。

具体的には、巨大金銅仏を製造するためには、まずは枠組みを造った上でその上に粘土を塗って本体を製造し、さらに外側も粘土で製造して本体と外側に隙間(実際には蝋で本体と外側とをくっつけます)を設けてそこに溶かした同を流し込んで銅の原型を完成させた上、余分な部分を削るなどして表面を仕上げた上、金メッキで全体をコーティングするという過程が必要となり、相当な技術的困難を伴いました。

いずれにせよ、これらの困難を乗り越えて最終的には巨大仏像(大仏)を完成させたため、以降、これを参考として全国で巨大な大仏が建立されていき、江戸時代頃までには日本三大仏という概念が出来上がります(なお、江戸時代以前に三大仏の概念があったかは不明です。)。

この点、日本三大仏という概念が出来た時点ですでに奈良大仏と鎌倉大仏が存在していましたので、これらが三大仏に含まれることに異論はありません。

もっとも、最後の3尊目の大仏については定説がなく、時代毎にその対象が異なりました(江戸時代では寛文7年(1667年)に再興された三代目の京の方広寺大仏が、寛政10年(1798年)に方広寺大仏が焼失した後は明治24年(1891年)に建立された初代神戸能福寺が大仏が3尊目の大仏として挙げられていました。)。

また、現在においても3尊目は確定しておらず、高岡大仏・岐阜大仏・2代目兵庫大仏などを挙げる説があります。

現在の日本三大仏(奈良・鎌倉+α)

前記のとおり、奈良大仏と鎌倉大仏が日本三大仏に挙げられることに争いはありません。

そこで、以下、この2尊について簡単に説明をした上で、残る3尊目の候補を紹介していきます。

奈良の東大寺大仏

このうち、東大寺大仏は、奈良市内にある東大寺金堂(大仏殿)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)です。

日本で最も有名な大仏であり、一般に東大寺大仏・奈良の大仏などと呼ばれます。

日本で最も古い時期に建立された大仏なのですが、戦乱により2度焼失しているため、現存しているのは元禄4年(1691年)に再建された3代目です。

以下、東大寺大仏について、その建立に至る経緯から簡単に説明します。

(1)大仏造立の詔(743年10月15日)

聖武天皇治世に、皇太子の死(神亀5年/728年)・長屋王の変(天平元年/729年)・天然痘流行(天平9年/737年)・藤原広嗣の乱(天平12年/740年)などが発生し、その他にも地震や日食が起こるなど災難・社会不安が度重なりました。

聖武天皇は、この数々の国難を仏教の力で救済して国家を守るという鎮護国家思想を持ち、天平13年(741年)に国分寺・国分尼寺の建立の詔を出し、また、天平15年(743年)10月15日にはときの都であった近江国甲賀郡・紫香楽宮(現在の滋賀県甲賀市)で大仏造立の詔を出します(続日本紀)。

(2)初代東大寺大仏の完成(752年)

そして、当時の都であった紫香楽宮で大仏の造立が始められたのですが、間もなく都が平城京に戻されることとなったため、新たに奈良で大仏を造立し、これを本尊とする東大寺が造営されることとなりました。

このとき造立されることとなった大仏は、華厳経の教理で釈迦如来と同一の存在とされ、華厳宗の教主でもある一切万物を救済する仏毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)に決まります。

もっとも、大仏造立という一大事業は、聖武天皇や国家の力をもってしても難事業であったため、行基が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めるところから始まりました。

そして、官民一体となって事業を進め、天平19年(747年)から大仏造立を開始し、ついに天平勝宝4年(752年)に大仏が完成し、菩提僊那を導師として大仏開眼供養会が盛大に行われました。

なお、開眼供養(かいげんくよう)の時点では大仏の仕上げはまだ完了しておらず、鋳加作業が天平勝宝2年正月(750年)から天平勝宝7年正月(755年)まで掛かってようやく終了したとされています(東大寺要録・延暦僧録)。なお、光背に至っては、天平宝字7年(763年)に作業を着手し、宝亀2年(771年)に完成したとされています。

(3)初代東大寺大仏焼失(1180年12月28日)

完成の数十年後から亀裂や傾きが生じたり、斉衡2年(855年)の地震で首が落下したりしながらも修理を重ねて維持されていた初代東大寺大仏でしたが、治承4年(1180年)12月28日の南都焼き討ちにより焼失します。

具体的には、反平家の立場に立った興福寺を制圧するために南都に進行した平家軍が奈良坂と般若坂に布陣したのですが、その夜に灯りを得るために、付近の民家に火を放ったところ、折からの強風に煽られて放たれた火が延焼して南都一帯に広がり、北は般若寺から南は新薬師寺付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は佐保辺りにまで及び、現在の奈良市内の大半部分にあたる地域を焼き尽くす大火災に発展します(平家物語)。

このときの興福寺や東大寺の被害は特に大きく、東大寺では、金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東塔・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どや、多くの仏像・仏具・経典などが失われ、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門および正倉院などごく一部という事態に陥ります。

また、大仏殿は数日にわたって燃え続け、初代大仏もまたほとんどが焼け落ちたといわれています。

(4)2代目東大寺大仏の完成(1185年)

その後、東大寺の再建の動きが始まり、治承5年(1181年)3月に南都の被害状況を視察に来た藤原行隆に対して俊乗房重源が東大寺再建を進言し、それに賛意を示した藤原行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就き、東大寺の再建が始まりました(まず、大仏の修復から進められることとなりました。)。

もっとも、東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難がありました。

まず、財政面では、勧進活動によって再興に必要な資金を集めたり、西行に奥羽への砂金勧進を依頼したりするだけでなく、重源自ら後白河法皇・九条兼実・源頼朝などに浄財寄付を依頼し、その工面をしています(文治2年/1186年には周防国が東大寺造営料所とされたため、以降、同国の税収を再建費用に充てています。)。

また、技術面では、重源自ら中国で建設技術・建築術を習得するなどし、また、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導しています。その上で、周防国から巨木を運び出したり、伊賀国・紀伊国・周防国・備中国・播磨国・摂津国に別所を築いたりするなどして信仰と造営事業の拠点とするなど、幾多の困難を克服していきます。

そして、文治元年(1185年)6月に大仏の修復が完了して同年8月28日に大仏の開眼供養が行われました。

また、建久6年(1195年)には大仏殿を再建して後白河上皇や源頼朝列席のもとで落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203年)には、総供養を行われています。

(5)2代目東大寺大仏の消失(1567年10月10日)

もっとも、鎌倉時代に再建された2代目東大寺大仏もまた、戦国時代に焼失します。

きっかけは、室町幕府第13代将軍・足利義輝が殺害されるという永禄の変の後、「三好政権の中心にいた三好三人衆」と「三好義継を支えて政権運営を行なっていた松永久秀」とが三好政権の主導権を巡って対立し、三好義継が、松永久秀が治める信貴山城に保護を求めてきたことでした。

このときの三好家の当主という地位は、実質上の力はなかったものの、劣勢下にあった松永久秀に大義名分を与える効果はあったため、大義名分を得た松永久秀が、本拠地大和国において勢力の回復に取り掛かります。

これに対し、松永久秀の動きを見た三好三人衆が、京から兵を率いて大和国へ攻め入ってきたため交戦状態となり、東大寺にほど近い多聞城に本拠を置く松永久秀軍に対し、三好三人衆は東大寺に本拠に置いて対陣し、永禄10年(1567年)4月18日から、松永久秀及び三好義継と、三好三人衆、筒井順慶、池田勝正らが東大寺周辺で、半年間に亘って市街戦を繰り広げます(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)。

この戦いは、決定打がなかったために膠着していたところ、戦局を打開すべく、松永久秀・三好義継連合軍は、同年10月10日、三好三人衆が本陣を置く東大寺を奇襲したのですが、その際に大仏殿に火の手が上がり、大仏殿がそのまま焼失しています。なお、大仏殿の消失については、松永久秀が故意に焼き払ったという説もありますが、最近の研究では戦の最中の不慮の失火説が有力なのだそうです。

そして、大仏殿に発生した火は、次々と東大寺内に燃え広がり、僅かに二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・鐘楼などを残して、その他の建物を焼き尽くしてしましました。

当然、大仏殿の中にあった大仏も崩れ落ちています。

(6)進まない東大寺大仏再建

焼失した大仏及び大仏殿の再建を目指し、永禄11年(1568年)、山辺郡山田城城主・山田道安が中心となってこれらの修理が試みられたのですが、その費用を考えると、一領主の手におえる代物ではありません。

これについては、織田信長なども勧進許可を出しているのですが、戦国時代においては、これらの再建は後回しにされ、長期間に亘り、木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態にて雨ざらしの状態で放置され続けました。

(7)方広寺大仏による代替時代

また、天正14年(1586年)ころになると、天下の覇権は、徳川家康を臣従させた豊臣秀吉に移っていったのですが、豊臣秀吉は、消失した東大寺(及び東大寺大仏)の再建ではなく、これに代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に新たな大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。

そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社・京都国立博物館・妙法院・智積院そして三十三間堂をも含む広大な敷地を有する方広寺を完成させ、その境内に、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大な大仏殿が造立され、その中に高さ約19 mもの木製金漆塗坐像大仏(初代方広寺大仏)が、大仏殿に安置されました。

(8)方広寺大仏焼失

ところが、文禄5年(1596年)閏7月13日、山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で大地震が発生し(慶長伏見大地震)初代方広寺大仏が開眼法要前に倒壊してしまいました。

その後、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉は死去し、その後、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われ、慶長4年(1599年)、豊臣秀頼は、父豊臣秀吉が行っていた大仏造立事業を引継ぎ、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図ります。

もっとも、慶長7年(1602年)に流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏もろとも大仏殿が全て焼失してしまいました。

その後、豊臣家の弱体化を志向するために豊臣家の財力を減らしていこうと考えた徳川家康が、その手段の1つとして豊臣秀頼に多くの寺社の再建を提案し、その一環として、方広寺大仏造立を唆します。

徳川家康に、亡関白殿下の悲願ですからとかなんとか言われて造立を勧められた豊臣秀頼は、あらためて片桐且元を奉行に任命して、再び方広寺と大仏造立事業を再開し、莫大な費用をかけて、慶長17年(1612年)に2代目方広寺大仏と同大仏殿が完成させます。

もっとも、2代目方広寺大仏は、寛文2年(1662年)の寛文近江・若狭地震で大破してしまったため、寛文7年(1667年)に木造での再建がなされました(3代目方広寺大仏)。

江戸時代には、この3代目方広寺大仏が日本三大仏の1尊に数えられていたのですが、3代目方広寺大仏は、寛政10年(1798年)の落雷による火災で焼失し、天保年間に4代目が再建されたのですが、この4代目方広寺大仏は上半身のみのものである上に像容が良くなかったために見劣りするという理由で三大仏から外された後、昭和48年(1973年)の火災により大仏殿と共に焼失しています。

(9)3代目の東大寺大仏再建(1684年~)

他方、少し時間を遡り、江戸時代初期に豊臣家が滅亡して方広寺への資金流入も止まると、代わって荒廃していた東大寺の復興運動が始まります。

貞享元年(1684年)、公慶が中心となって江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、大仏の修理のために勧進を始めます。

そして、江戸や上方などで大仏縁起の講談と宝物の拝観を行い、大仏の現世利益・霊験を期待する民衆の信仰心をつんで多額の喜捨を集め、大仏修理の費用を集めていきます。

また、大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所としての龍松院が建てられ、東大寺の復興事業が本格的にスタートしていきます。

これらの資金を基にして、貞享3年(1686年)ころから東大寺大仏の修理が始められて、元禄4年(1691年)にこれが完了し(高さ約14.7m・基壇の周囲約70m)し、その翌年である元禄5年(1692年)に大仏開眼供養が行われました。

また、その後も公慶による勧進が続けられ、さらに江戸幕府主導による国家事業としてその債権が進められ、宝永6年(1709年)には東大寺大仏殿も落慶しています。

この結果、3代目の東大寺大仏建立により、この時点では、東大寺大仏・鎌倉大仏・方広寺大仏が日本三大仏に数えられるようになり、以降現存する東大寺大仏がこれに含まれることに異論がでることがなくなります。

なお、前記のとおり、現存する東大寺大仏は、2度に亘る焼失部分を補填して建立された3代目のものであるため、大部分が天平当初のものではありません。

どの範囲で当初のものが残存しているかについては資料によって小異があり、正確なところは不明です。

鎌倉の高徳院大仏

(1)初代鎌倉大仏(木造仏・1243年)

鎌倉の高徳院大仏は、浄土宗寺院である高徳院(神奈川県鎌倉市長谷)の本尊であり、鎌倉のシンボルともなっている大仏です。

もっとも、高徳院の開山、開基は不明であり、草創時期も不明です。

元々は真言宗寺院であったために密教系の僧が住持となっていたのですが、後に臨済宗に属して建長寺の末寺となった後、正徳年間(1711年~1716年)に江戸・増上寺36世法主であった祐天上人による再興により浄土宗に属し、以降、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっています。

なお、「高徳院」の院号を称するようになったは浄土宗に転じた称徳年間以降です。

大仏の造像の経緯についても史料が乏しく正確なところはよくわかっていないのですが、鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡に、暦仁元年(1238年)に深沢の地(現在の鎌倉大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、寛元元年(1243年)に開眼供養が行われたという記述があり、また同時代の紀行文である東関紀行では、仁治3年(1242年)に完成前の大仏殿を訪れたところ木造大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたと記されていることから、初代鎌倉大仏はこのころに建立されたものと考えられます。

(2)2代目鎌倉大仏(金銅仏・1252年)

その後、吾妻鏡には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたと記録されているところ、ここに記された像が現存する鎌倉大仏であると考えられています。なお、現存する鎌倉大仏は阿弥陀如来像ですので、吾妻鏡に記された釈迦如来とは阿弥陀如来の誤記であると解釈されています。

以上の経過から、寛元元年(1243年)に建立された木造仏が何らかの理由により喪失した後、建長4年(1252年)に金銅造で大仏が建立されたと考えられています。

なお、吾妻鏡では浄光という僧が建立したと記されているのですが、一僧侶によって大仏が造立されたと考えるのは不自然なのですが、吾妻鏡には銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記していないため詳細は不明です。

(3)大仏殿倒壊(1369年)

また、2代目鎌倉大仏の周囲には、大仏殿の礎石の跡とみられる巨大な石が53個存在していますので、かつては大仏殿が存在し、鎌倉大仏は当該大仏の中に存在したと考えられ、このことは平成12年~13年(2000年~2001年)に実施された発掘調査によっても確認されています。

もっとも、大仏殿は、建武2年(1335年)に強風によって倒壊したとされ(太平記)、また応安2年(1369年)にも倒壊したとされています(鎌倉大日記)。

そして、発掘調査の結果、応安2年(1369年)以後に高徳院大仏殿が再建された形跡は見出されなかったことから、鎌倉大仏は、同年以降は露坐状態となっていたと考えられます。

このことは、文明18年(1486年)に禅僧であった万里集九が鎌倉を訪れた際、大仏が「無堂宇而露坐」であったと記していることとも整合しています(梅花無尽蔵)。

(4)浄土宗・高徳院本尊として復興

露坐となり荒廃が進んだ鎌倉大仏でしたが、正徳年間(1711年~1716年)に、浄土宗大本山増上寺36世法主であった祐天が、浅草の商人野島新左衛門の喜捨を得て復興をすすめていきます。

このとき祐天上人は、建長寺の末寺となるも荒れ果てていた寺院をも復興させ、「清浄泉寺高徳院」と称して浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけました。

その後、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で基壇が壊れ1m沈下したりするなどした後、昭和34年~昭和36年(1959年~1961年)には基壇の免震工事・本体補強などが行われ、平成29年(2017年)にも保存修理が行われ、現在に至っています。

鎌倉大仏は、そのほとんどが後世の補修による奈良大仏とは異なり、ほぼ造像当初の姿を保っている貴重な大仏です。

角張った平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部が大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示した鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されています。

像高は約11.39m(台座を含めた高さは約13.3m)・面長2.35m・眼長1m・眉長1.24m・口広0.82m・耳長1.9メートル・重量約121t、鋳造は体部が7段・頭部は前面が5段・背面が6段に分けて行われた青銅造(銅、錫、鉛等の合金)となっています。また、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされ、現在でも右頬に金箔の跡が確認できます。

見解が分かれる3尊目

以上のとおり、現在の日本三大仏として奈良の東大寺大仏と鎌倉の高徳院大仏が含まれることに争いはありません。

もっとも、残る1尊にあたる現在の大仏が何かについては争いがあります。

以下、有力候補といわれる大仏を列挙していきます(なお、それぞれが残る1尊であると主張しています。)。

(1)高岡の大佛寺大仏

高岡大仏(たかおかだいぶつ)は、富山県高岡市大手町の大佛寺にある銅製阿弥陀如来坐像です。

元々は、承久3年(1221年)に源義勝によって初代木造大仏が二上山の麓に建立されたことに由来します。

その後、慶長14年(1609年)に前田利長によって大仏が城下に移転され、その頃に前記大仏を本尊とする寺として大佛寺が建立されたものと考えられます。

もっとも、大佛寺の木造大仏はその後に焼失したため、延享2年(1745年)に坂下町の極楽寺の第15代住職である等誉上人によって高さ約9.7mの金色の2代目木造大仏が再建されたのですが、これもまた文政4年(1821年)に焼失します。

さらに、天保12年(1841年)に3代目大仏が再建されたのですが、これもまた明治33年(1900年)に発生した高岡大火により焼失してしまいます。

北陸地方では、気流が山の斜面にあたったのちに風が山を越え、暖かくて乾いた下降気流となってその付近の気温が上がるフェーン現象により火災が起こりやすく、度重なる木造大仏の消失を経験した高岡の地では火に強い大仏の再建を望む声が高まります。

そこで、明治40年(1907年)に松木宗左衛門の発願により、高岡銅器の職人の協力を得た上での大仏の建立が始まります。

そして、昭和8年(1933年)5月に新大仏が完成し開眼供養が行われました。なお、このころに高岡を訪れた歌人の与謝野晶子は、高岡大仏を見て「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わるほどの端正な顔立ちの大仏と言われます。

その後、昭和33年(1958年)9月に円光背が取り付けられ、昭和55年(1980年)に補修の上で約11m後退させて現在地に鎮座して現在に至ります。

なお、台座の内部には回廊があって地獄絵などが展示され、また、その中央の部屋には明治33年(1900年)に焼失した木造大仏の頭部が鎮座しています。

(2)岐阜の正法寺大仏

岐阜大仏(ぎふだいぶつ)は、岐阜県岐阜市大仏町の黄檗宗金鳳山正法寺にある釈迦如来坐像(乾漆仏)です。

岐阜大仏の起源は、江戸時代後期の寛政期に金鳳山正法寺の第11代であった惟中和尚が、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために大釈迦如来像の建立を計画したことに始まります。

惟中和尚は、寛政3年(1791年)頃から各地を托鉢して資料集めなどを行い、寛政12年(1800年)までに大仏頭部と堂を完成させます。

その後、文化12年(1815年)に惟中和尚が亡くなったのですが、第12代となった肯宗和尚がその後を継ぎ天保3年(1832年)4月に完成させたのが岐阜大仏(大釈迦如来像)です。

岐阜大仏は、塑像漆箔で造られた日本最大級の乾漆仏であり、像高約13.63m・顔の長さ約3.63m・目の長さ約0.66m・耳の長さ約2.12m・口幅約0.70m・鼻の高さ約0.36mとなっており、周囲6尺(約1.8m:直径約57cm)のイチョウの木を真柱として木材で骨格を組み竹材を編む形で形成されています。なお、籠を編むように造られたことから、籠大仏(かごだいぶつ)とも言われています。

その上で、竹材の上に粘土を塗り、四万巻にも上ると言われる経典(一切経・阿弥陀経・法華経・観音経等)が書かれた美濃和紙を張り付けて漆を塗り、金箔が張られています。

また、岐阜大仏には、胎内仏として薬師如来像(室町時代に革手城(美濃国厚見郡革手・現在の岐阜市正法寺町)城下町にあった、霊正山正法寺(土岐氏の氏寺・現在廃寺)の本尊)

が安置されています。

(3)兵庫の2代目能福寺大仏

2代目兵庫大仏(ひょうごだいぶつ)は、兵庫県神戸市兵庫区にある天台宗の寺院である宝積山能福寺(のうふくじ)の本尊である阿弥陀如来像です。

寺伝によると、能福寺は、延暦24年に最澄(伝教大師)により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化霊場と称しています。

また、治承4年(1180年)の福原京遷都の際に平家一門の祈願寺に定められたことで大伽藍が建設され大いに栄えました。

その後、興国2年/暦応4年(1341年)に兵火によって七堂伽藍の全てが焼失したのですがが、慶長3年(1599年)に長盛法印によって再興され、江戸時代においても、その寺格は京都青蓮院門跡の院家(門跡不在時の代理を務める格式の寺)となっていました。

そんな格式高い能福寺に、明治24年(1891年)5月に豪商であった南条荘兵衛の寄進により建立されたのが初代兵庫大仏です。

この初代兵庫大仏は、明治時代から太平洋戦争時までにわたって奈良東大寺大仏・鎌倉高徳院大仏と並ぶ日本三大仏の1つに数えられていました。

もっとも、初代兵庫大仏は、太平洋戦争の戦局が思わしくなくなった昭和19年(1944年)5月に金属類回収令に基づいて解体され、国に供出されたことにより失われてしましました。

その後、平成3年(1991年)5月9日に、像重量約60t・像高11m・蓮台と台座を含めると高さ18mになる毘廬舎那仏(光明遍照)座像である2代目兵庫大仏として再建され、現在に至っています。

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