【現存12三重櫓】江戸時代から残る8城12基の三重櫓について

これまでに日本国内に2万とも3万とも言われる城が築かれました。

そのうち、現在、城址としてその名残が残っているのは僅かであり、さらに一般人が見学して楽しめるのは数百城程度しかありません。

また、このうち、江戸時代以前に建てられた三重櫓が現存しているのは、僅か8城12基しかなくとても貴重です。

本稿では、この現存する貴重な12の三重櫓について簡単に紹介していきたいと思います。

三重櫓の意義

三重櫓とは

櫓は、日本の城郭において、戦時の敵の監視や、平時の倉庫として使用された建物です。

三重櫓とは、この櫓のうち、屋根の数を基にした櫓の分類において3層の屋根で構成されている櫓を指します。

屋根の数が1層であれば平櫓・2層なら二重櫓といい、これらの櫓の場合にはシンプルな外観となることが多いのですが、三重櫓規模になると、他の建築物とは一線を画する特別な雰囲気を醸す巨大かつ複雑な建物となります。

そのため、三重櫓は櫓の中でも最高の格式を持つ特別な櫓ととされてきました。

小型の天守扱いと考えていただければイメージを持ちやすいと思います。

天守代用の御三階櫓

実際、天守を持たないもしくは持てない城においては、三重櫓が代用天守として用いられることもありました。

もっとも、三重櫓が代用天守とされる場合には、当該三重櫓は「御三階櫓(ごさんかいやぐら)」と呼ばれて現存十二天守の区分となるため、本稿で想定する現存三重櫓の区分からは除外されます(代用天守扱いの三重櫓=弘前城天守・丸亀城天守など)。

三重櫓の形式

三重櫓は、小型天守に匹敵する大きさであり、また3階層を持っていますので、天守と同じように望楼型と層塔型の2種類が存在しています。

(1)望楼型三重櫓

望楼型は、1~2階建ての入母屋造りの櫓の上に望楼を乗せた形をした櫓です。外から見ると長方形の上に日本家屋が乗るように2つの建造物にも見える形をしています。

初期の櫓に多い造りです。

望楼型は、技術的に易しい割に造りが頑丈というメリットがある反面、造り自体が2つの建物の複合型にになっているため築城コストが高いというデメリットもありました。

(2)層塔型三重櫓

他方、層塔型は、下の階から上の階に行くにしたがって段階的に小さくなるような形をした櫓です。

築城名人と言われた藤堂高虎が考案し、江戸時代以降に造られた櫓に多い造りです。

層塔型は、第1層から同じ形で段階的に小さくしていますので、正確な測量・設計、規格化された建材が必要となるなど技術的には難しいものがある物の、構造自体はシンプルなため築城コストが安いというメリットがあり江戸期に広く普及しました。

名称

櫓の名称は、①番号(一番櫓・いろはなど)、②方位角(艮櫓・巽櫓・坤櫓・乾櫓など)、③機能(太鼓櫓・富士見櫓など)、④保管物(具足櫓など)、⑤逸話(宇土櫓・天秤櫓など)など様々な由来があります。

このうち、方位角に基づくものは、以下の方位に即した命名がなされました。

現存12三重櫓の紹介

弘前城(3基)

弘前城の現存三重櫓は3つあり、いずれも二の丸隅櫓です。

この弘前城三重櫓は、現存する三重櫓の中で最小のものとなっており、その名については天守から見た方向を十二支で示した方角に基づいて付けられました。

なお、余談ですが、現存12天守の1つに数えられる弘前城天守は、元々は五層五階構造だったのですが、落雷で焼失した後に再築が認められなかったため、本丸隅櫓を改修して三層三階の代用天守とされたものですので、現存天守とするか本稿にいう現存三重櫓とするかは定義の問題にすぎません。

① 辰巳櫓(1611年・重要文化財)

弘前城辰巳櫓は、その名のとおり二の丸南東部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。

享保19年(1734年)に修復作業が行われています。

② 未申櫓(1611年・重要文化財)

弘前城未申櫓は、その名のとおり二の丸南西部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。

元禄12年(1699年)8月2日に修復作業が行われています。

③ 丑寅櫓(1611年・重要文化財)

弘前城丑寅櫓は、その名のとおり二の丸北東部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。

江戸城(1基)

① 富士見櫓(1659年)

富士見櫓は、慶長11年(1606)の本丸造営工事に際して創建された、江戸城本丸南端に位置する高さ約15.5mの三重櫓です。

櫓の上から富士山(及び秩父連山・筑波山・東京湾など)を臨むことができることからその名が付されました。

初代の富士見櫓は明暦3年(1657年)の明暦大火で焼失し、万治2年(1659年)に再建されました。

初層が外妻側に唐破風で石落出窓、外平側に切妻破風となり、櫓の脇には上埋門という構造となっており、どの方角から見ても同じ形に見えることから「八方正面の櫓」とも言われています。

明暦の大火で焼失後に再建を見送られた江戸城天守の代用として扱われた重要な櫓でもあります。

明治維新後には幾度かの改修を経た後、関東大震災で大破したため、主要部材に旧材を利用して再建されて現在に至っています。

名古屋城(1基)

① 西北隅櫓(1619年・重要文化財)

名古屋城御深井丸北西隅櫓は、その名の通り、名古屋御深井丸の西北隅櫓に建てられた三層三階の三重櫓です。

その立地から、かつては戌亥櫓と呼ばれていました。

昭和39年(1964年)の解体修理の際に、古い建物の木材を使用して元和5年(1619年)頃に建築されたものであることが明らかとなり、清州城天守の古材を転用した可能性があるとされたことから清洲櫓とも言われま。

現存する櫓としては熊本城宇土櫓に次ぐ大きさを誇り、弘前城天守・丸亀城天守・宇和島城天守を上回る高さ・容積を誇っています。

彦根城(1基)

① 西の丸三重櫓(慶長年間?・重要文化財)

彦根城西の丸三重櫓は、西の丸の西角に建てられた三重櫓であり、東側と北側に1階層の続櫓を付設しています。

本丸西側にある西の丸の西北隅に位置しており、その西側に位置する出曲輪との間に設けられた大堀切を通る敵兵(西搦手方面から進軍してくる敵兵)を上空から攻撃できる構造となっています。

この西の丸三重櫓は、築城当初、井伊家家老であった木俣土佐に預けられていたのですが、同人が1万石を領しながら陣屋を持っていなかったため、毎月20日に亘って同櫓で執務を行っていたとされています(井伊年譜)

なお、彦根城には、山崎曲輪にもう1つの三重櫓が山崎曲輪内に存在していたのですが、明治元年(1868年)に取り壊されて失われています。

明石城(2基)

往時の明石城は、本丸の四隅にそれぞれ三重櫓が建てられ、また城全体6基の二重櫓・10基の平櫓が建てられ、合計20基もの櫓が建つ壮観な城でした。

このうち、明石城では、本丸巽櫓と坤櫓の2基の三重櫓が現存しています。

なお、築城当初、坤櫓と巽櫓との間は多聞櫓で結ばれていたのですが、寛永8年(1631年)の家裁により本丸と多聞櫓が消失したため、それ後は土塀として修復されています。

① 巽櫓(1620年)

明石城巽櫓は、明石城築城時に船上城から移築された桁行5間(約9.03m)・梁間4間(約7.88m)・高さ7間1寸(約12.53m)の三重櫓です。なお、この大きさから船上城では天守であった可能性も指摘されています。

巽櫓の構造は入母屋造で妻部は東西に向いており、各階の高さは3m弱となっています。

② 坤櫓(1620年)

明石城坤櫓は、明石城築城時に伏見城から移築された桁行6間(約10.94m)・梁間5間(約9.15m)・高さ7間2尺9寸(約13.28m)の三重櫓です。

坤櫓の構造は、入母屋根造で妻部は南北に向いており、各階の高さは3m強となっています。

南側に建てられた坤櫓(南西側)と巽櫓(南東側)を比べると、坤櫓の方が僅かに大きい構造となっています。

これは、明石城が西国大名を監視し、威風を示すために築城された城であるため、あえて西側の櫓を大きく造ったと言われています。

また、明石城には天守が存在しないために坤櫓が天守の代用となっており、坤櫓は、櫓ではあるものの国内にあった多くの城の天守よりも巨大なものとなっています。

福山城(1基)

① 伏見櫓(1622年・重要文化財)

福山城伏見櫓は、元和8年(1622年)、水野勝成により福山城が築城された際、伏見城・松の丸に配されていた櫓を移築したものです(昭和29年/1950年の解体修理の際に伏見櫓の2階梁に「松ノ丸ノ東やくら」という刻印が発見されたことから、伏見城の遺構であることが明らかとなっています。)。

伏見櫓の構造は、3層3階・本瓦葺構造となっており、1階と2階は同幅員の矩形8間4分・4間5分・3階のみ4間2分と3間7分の正方形に近い形をする望楼型で、南北棟の入母屋造りとなっています。

高松城(2基)

① 月見櫓(1676年・重要文化財)

高松城月見櫓は、延宝4年(1676年)築の高松城三の丸北端に建てられた三重三階隅櫓・入母屋造・本瓦葺・南面続櫓一重櫓・南端入母屋造・本瓦葺の三重櫓です。

高松城は、その北端に設けられた月見櫓は、続櫓・水手御門・渡櫓とで1つの構造をなし、海に面していた三の丸北側から直接海に出られる海の大手門)を構成していました。

そして、藩主が参勤交代のための出入りのために船に乗り降りする際に用いられ、また瀬戸内を航行する船の出入りを監視する極めて重要な役目を持っていた櫓であり、高松城の海の天守とさえ言い得る櫓です。

そのため、「月見」櫓と言われていますが、実際は「着見」櫓として機能していました。

海の大手門となっていたため、凝った美しい構造をしており、1階が5間四方・2階が4間四方・3階が3間四方と規則正しく逓減する層塔型構造となっています。

② 艮櫓(1677年・重要文化財)

高松城艮櫓は、延宝5年(1677年)、東ノ丸の北東隅櫓として建てられた三重三階隅櫓・入母屋造・本瓦葺の三重櫓です。

高松城東ノ丸の北東に位置することから艮(丑寅)櫓と名付けられました。

熊本城(1基)

① 宇土櫓(1601〜1607・重要文化財)

熊本城宇土櫓は、熊本城平左衛門丸の北西角部に存在する三層五階櫓・地下一階付・続櫓一重櫓・一部二階・総本瓦葺構造の櫓です。

加藤清正が熊本城の慶長年間造営時に、小西行長が築城した宇土城天守を移築して設けた櫓との説もあります(もっとも、昭和2年/1927年の宇土櫓を解体修理に付随して行われた調査では宇土櫓に移築の痕跡が見られなかったため、否定説も有力です。)。

なお、宇土櫓は、現存する12の三重櫓の中で最大のものとなっています。

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