【琵琶湖疏水の扁額一覧】疏水工事関与者・明治元勲の揮毫

明治維新後の東京奠都に伴って人口が激減した京の復興策として行われた巨大プロジェクトが琵琶湖疏水です。

明治22年(1889年)に水運・灌漑・上水道・水車動力の源泉として第1疏水が完成して京の復興に大きく寄与し、その後、この大成功を受けて延伸工事や第2疏水工事などが進められていきました。

これらの琵琶湖疏水が京経済に寄与した功績を讃え、疏水流域には、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が扁額として掲げられることとなりました。

現在では、疎水流域が散歩道となっていますので、歩きながら、また第1疏水を運行する観光船に乗りながらこれらの扁額を見ることができますので、以下、観光の一助として琵琶湖疏水の簡単な歴史と掲げられている扁額の位置及びその内容を紹介したいと思います。

琵琶湖第1疏水完成(1890年4月)

江戸時代末期になると、幕末の動乱によって京市中が戦火によって荒廃し、また明治維新後の東京奠都に伴い京の人口が激減します。

この人口減少により、京の産業も衰退して都市としての活力が失われていきました。

そんな中、第3代京都府知事に就任した北垣国道が、その荒廃ぶりを嘆き、京都府の事業として琵琶湖の水を京都まで引き込む水路を開設して、それによりもたらされる水運・灌漑・上水道・水車動力によって京都を活性化させようとする政策を立案します。

そして、北垣国道は、工科大学校学長・大鳥圭介から、工部大学校(後の東京大学工学部)で土木工学を専攻していた田辺朔郎を推薦を受けます。

田辺朔郎は、明治14年(1881年)に卒業論文である「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させ、海外雑誌に掲載されたりイギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与されたりするなどの評価を得ていた人物であり、この北垣国道と田辺朔郎との出会いによって琵琶湖疏水事業が動き始めていくこととなりました。

そして、明治16年(1883年)5月22日に田辺朔郎が京都府御用掛に採用され、弱冠21歳で琵琶湖疏水工事の主任技術者に抜擢されて琵琶湖疎水の設計・監督にあたることとなりました。

明治22年(1889年)2月27日、当時日本一の長さであった約2.4kmの第1トンネルが貫通し、明治23年(1890年)3月の通水試験を経て、同年4月9日に明治天皇と皇后の臨幸を仰いで竣工式が行われたのが現在に繋がる琵琶湖疎水です。

このとき完成した琵琶湖疏水(後の第2疏水と区別するため第1疏水と呼ばれます。)は、大津市三保ヶ崎から鴨川夷川出合までと、蹴上から分岐する疏水分線であり、これらを含めた総延長は1万0620間 (約19.307km)でした。

なお、第1疏水の前記区間の完成した3年後である明治25年(1892年)には、さらに鴨川合流点から伏見堀詰濠川までを繋ぐ鴨川運河が着工され、同区間もまた明治27年(1894年)に完成しています。

第1疏水の扁額一覧

前記のとおり、疏水流域には、琵琶湖疏水の完成を称えて中国の古典などから引用され、疏水工事関与者・当時の元勲によって書かれたありがたいお言葉が石に彫り込まれた扁額として掲げられているのですが、その多くは第1疏水のルート沿いにあります。

なお、この扁額は、東側(大津側)は文字を掘り下げた陰刻、西側(京都側)は文字が浮き出る陽刻とされており、デザインにも趣向が凝らされています。

第1トンネル

(1)第1トンネル東口

初代内閣総理大臣・伊藤博文筆

「気象萬千(きしょうばんせん) 」

→様々に変化する風光は素晴らしい

(2)第1トンネル内(隠し扁額)

第3代京都府知事・北垣国道筆

「寶祚無窮(ほうそむきゅう) 」

→皇位は永遠である

(3)第1トンネル西口

初代内務大臣・山縣有朋筆

「廓其有容(かくとしてそれいるることあり) 」

→疏水をたたえて悠然と広がる大地は、すべてを受け容れる器を有している

第2トンネル

(1)第2トンネル東口

初代外務大臣・井上馨筆

仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)

→仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ

(2)第2トンネル西口

初代海軍大臣・西郷従道筆

「隨山到水源(やまにしたがいて、すいげんにいたる) 」→山にそって行くと水源にたどりつく

第3トンネル

(1)第3トンネル東口

初代大蔵大臣・松方正義筆

「過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 」

→時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる

(2)第3トンネル西口

初代内大臣・三条実美筆

「美哉山河(うるわしきかなさんが) 」

→なんと美しい山河であることよ

ねじりまんぽ

「ねじりまんぽ」は、蹴上船溜から南禅船溜までの約36mもの水位差の区間について疏水船を台車に乗せてケーブルカーの原理で傾斜路を上下させる構造にて敷設されたのが蹴上インクライン(傾斜鉄道)の下を横断するためのトンネルです。

このねじりまんぽは、らせん状にレンガが積む形で築かれたトンネルであり、その東西出入口に北垣国道揮毫による扁額が掲げられています。

(1)ねじりまんぽ東口

第3代京都府知事・北垣国道筆

「陽気発処(ようきはっするところ) 」

→集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる

(2)ねじりまんぽ西口

第3代京都府知事・北垣国道筆

「雄観奇想(ゆうかんきそう) 」

→見事なながめとすぐれた考えである

第1疏水以外の扁額

蹴上合流トンネル北口

京都帝国大学理工科大学教授・田邉朔郎筆

「藉水利資人工(すいりをかりてじんこうをたすく) 」

→自然の水の力を人間の仕事に役立てる

第2疏水取水口

皇族・久邇宮邦彦王筆

「萬物資始(ばんぶつとりてはじむ) 」

→すべてのことがこれによって始まる

蹴上発電所

皇族・久邇宮邦彦王筆

「亮天功(てんこうをたすく) 」

→それぞれの職務に応じて天の仕事を助ける

扇ダム放水路出口

第23代京都市長・今川正彦筆

「楽百年之夢(ひゃくねんのゆめをたのしむ) 」

→琵琶湖疏水完成から百年、その夢をたのしむ

おまけ

琵琶湖疏水の生みの親である第3代京都府知事・北垣国道像が夷川水力発電所に、設計・工事責任者である田辺朔郎像が蹴上疏水公園にありますので、あわせて観光してみて下さい。

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