【大阪「鶴橋」の由来】文献上に残る日本最古の橋の名残

大阪市生野区「鶴橋」や、近畿日本鉄道(近鉄)・西日本旅客鉄道(JR西日本)・大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の「鶴橋」駅の由来をご存じですか。

これらは、旧自治体名の東成郡「鶴橋」町由来するのですが、この行政区画がその名のとおりの「つる」の「はし」に由来し、さらにはその前の猪甘津の橋にまで遡ります。

本稿では、この「鶴橋」という地名の由来について、簡単に説明していきたいと思います。

「猪甘津の橋」架橋(326年11月)

鶴橋の由来となった「つるのはし」は、さらには記録が残る最も初期まで遡ると、猪甘津(後の猪飼野・現在の桃谷3丁目を含む一帯)の橋の古跡に行きつきます。

この「猪甘津の橋」は、日本書紀の仁徳天皇14年(326年)の条に、冬11月に「為橋於猪甘津即号其処曰小橋也(猪甘の津に橋わたす、すなわちその処を号けて小橋という)」と記された、文献上に残る最古の橋として有名です。なお、猪甘津の地名にいう「猪」とは、百済人が持ち込んだ豚のことであり、同地で朝廷に献上するための養豚が行われたことからその名が付されることになりました。

この猪甘津の橋が架けられた4世紀頃は、上町台地の難波高津宮に都が置かれ、その東側には巨大な河内湖が存在していました。

そして、この河内湖以南に旧平野川(旧大和川の支流であり、古くは百済川と呼ばれていました。)が流れており、猪甘津の橋は、この旧平野川に架けられた橋でした。

かつては瀬戸内から飛鳥方面に向かう場合、上町台地の北端にある難波津で上陸するか、または河内湖に入って猪甘津の橋の北の「小橋の江」(現在の大阪市東成区東小橋辺り)と呼ばれた入江で上洛し、その後に陸路を行くのが一般的でした。

そのため、瀬戸内から飛鳥に向かうためには必ず旧平野川を渡河する必要があり、そのために架けられたのが猪甘津の橋だったのです。

また、仁徳天皇治世に都が難波高津宮(現在の大阪市中央区)に移されたところ、同都から旧都となった飛鳥までの間に官道が繋げられたため、難波高津宮と大和国との間の交通路としても重要な役割を果たしました。

「つるのはし」に改名

「つるのはし」と呼ばれるようになる

その後、淀川を流れてくる土砂が溜まっていくことにより河内湖が次第に埋め立てられていったのですが、旧平野川が堰き止められることはなく、「猪甘津の橋」がなくなることもありませんでした。

もっとも、淀川から流れ込んでくる土砂により河内湖周辺は葦が生い茂る一大湿地帯となったため、「猪甘津の橋」の近辺に鶴が頻繁に飛来するようになります。

その結果、いつの時期かは不明ですが、「猪甘津の橋」が「つるのはし」と呼ばれるようになっていきました(摂陽群談)。

公儀橋として

そして、江戸時代頃になると、同橋は、河内大和への街道筋に架けられた橋として重要視され、全長20間(36.4m)・幅7尺5寸(2.3m)の板橋の公儀橋として江戸幕府の費用で維持管理がなさることとなりました(猪飼野村明細帳・御幸森天神宮所蔵)。

なお、文久3年(1863年)作成の改正増補国宝大阪全図では「ツルノハシ」と記載され、橋の東端(猪飼野村側)には高札場が置かれていたことが描かれています。

また、江戸時代後期から明治にかけて活動した浮世絵師の長谷川貞信作の「猪飼野つるのはし」の右隅に「つるのはし」が描かれており、この当時の橋が橋脚の上に板を乗せた桁橋あったことがわかります。

石橋に架け替え(1874年)

その後、明治7年(1874年)、旧平野川を深く掘り直すという土木事業が行われ、その際に「つるのはし」もまた石橋に掛け替えられました。

なお、石橋となった「つるのはし」は、明治32年(1899年)、国庫補助により欄干付・長さ7間(12.7m)・幅1間(1.8m)の石橋に改修されています。

行政区画割

鶴橋村(1889年)・鶴橋町(1912年)発足

明治22年(1889年)4月1日の町村制施行により、東成郡小橋村・東小橋村・木野村・猪飼野村・岡村が合併して鶴橋村が発足し、また、(大正元年)1912年10月1日、鶴橋村が町制を施行して、鶴橋町となりました。

近鉄鶴橋駅設置(1914年4月30日)

大正3年(1914年)4月30日に近鉄鶴橋駅が設置され、当時の町名から鶴橋駅と名付けられました。

鶴橋町の大阪市編入(1925年4月1日)

大正14年(1925年)4月1日、鶴橋町全域が大阪市に編入され、東成区東小橋町・鶴橋木野町・猪飼野町・岡之町・鶴橋天王寺町となりました。なお、昭和18年(1943年)に東成区から生野区が分離した際、鶴橋の地名もまた生野区側に移されています。

その後、昭和7年(1932年)9月21日に国鉄(現存のJR西日本)駅が、昭和44年(1969年)7月25日に大阪市営地下鉄(現在の大阪市高速電気軌道 ・Osaka Metro) 千日前線駅が設置されたのですが、既に近鉄駅が鶴橋駅としていたため、それに倣っていずれも鶴橋駅とされました。

以上が、「鶴橋」という地名と、「鶴橋駅」の由来です。

つるのはし廃橋

つるのはし廃橋(1940年)

その後、旧平野川の付け替え工事が行われた結果、昭和15年(1940年)に同川に架かっていた「つるのはし」も廃橋となりました。

廃橋の経緯は以下のとおりです。

旧平野川は、曲がりくねった流路をとっていたため、大雨が降るたびに氾濫し洪水をひき起こすという問題がある川でした。

そこで、大正年間に平野川を直線化し周囲を区画整理するという事業が始められます。なお、この工事の過程で、工事に従事した朝鮮人が古くから朝鮮人が多く住む猪飼野に移り住んで朝鮮人街を形成していきました。

そして、大正12年(1923年)に新平野川が開削され、他方で不要となった旧平野川が昭和15年(1940年)に埋め立てられた結果、役目を終えた「つるのはし」が廃橋とされ失われたのです。

つるのはし跡公園

以上のとおり、昭和15年(1940年)に失われてしまった「つるのはし」ですが、文献上最古の橋という由緒ある橋名を後世に伝えるため、昭和27年(1952年)、同橋があった場所に記念碑が建てられ、かつての親柱4本が保存されることとなりました。

なお、つるのはし跡公園は旧平野川の流路の上に位置しており、「つるのはし」自体は公園入口前の道路上にありました。

また、余談ですが、「つるのはし」の最寄駅は前記鶴橋駅ではなくJR環状線桃谷駅ですので、個人的には駅名の命名ミスではないかとも思っています。

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