【弘前城(日本100名城4番)】東北唯一の現存天守と日本一の桜

日本一の桜の城と聞いてどこを思い浮かべますか。

多くの人は、青森県弘前市にある弘前城を思い浮かべるのではないでしょうか。

それほどまでに、弘前城の桜は有名です。

では、弘前城がなぜ桜の名所となっているのでしょうか。

以下、弘前城の歴史と共に、桜の由縁を見ていきましょう。

弘前城築城と初代天守消失

慶長8年(1603年) 戦国大名であり陸奥国弘前藩初代藩主でもあった津軽為信が、西の岩木川と東の土淵川に挟まれた鷹岡(後の弘前)の地を選んで築城を開始します(もっとも、津軽為信は、慶長12年(1607年)12月に、城の完成を待たずに死亡します。)。

慶長16年(1611年)、2代藩主となった津軽信牧の手によって弘前城が完成します。

弘前城は、本丸、北の郭、二の丸、三の丸、四の丸、西の郭という6つの郭で構成されており、東西約500m、南北約1km、総面積50ヘクタールにも上る巨大な城です。なお、このとき作られた初代の天守は、五層六階の巨大なもので、小藩の天守としては破格の大きさでした。

北の小藩にこのような分不相応な巨大な城と天守が築かれた理由は、幕府の意を酌む弘前藩と、周囲に点在して暮らすアイヌ民族との戦いが絶えなかったからです。

江戸時代は日本の中心部は平和であった時代なのですが、本州北端部は、日本民族とアイヌ民族との戦いが続く苦難の時代でした。

このアイヌの脅威を防ぐため、弘前藩には強力な拠点が必要とされたのです。

もっとも、弘前城天守は、 寛永4年(1627年)9月に、落雷で城の火薬庫に火が回り全焼しています。

天守再建に至る道

弘前藩は、天守喪失後、直ちに江戸幕府に天守の再建を申し出たのですが、幕府は長らくこれを認めませんでした。

そんな天守不在の期間は約200年にも及んだのですが、文化5年(1808年)9代藩主津軽寧親のときに、幕府の見解が一転し、ようやく天守(実際は櫓)再建の許しが出ました。

このとき、幕府が弘前藩に天守の再建を認めたのには、理由があります。

この頃、西の大国ロシアが、クロテンの毛皮を求めて極東へ進出し、カムチャッカ半島の領有権を主張し始めます。

そして、ロシアは、さらに当時国の専売品として高い値が付いていたラッコの毛皮を追って南下し、北方領土に迫って来ていたのです。

このロシアの動きに危険を感じた江戸幕府は、18世記後半から蝦夷地(北海道)の調査を進め、ロシアへの備えを始めます。

そんな中、ロシアは、文化3年(1806年)9月、樺太にあった松前藩居留地を、また翌文化4年(1807年)、択捉島箱館奉行管理地を攻撃するという事件が勃発します。

このときは、旧式装備の幕府軍では強力なロシア軍に全く歯が立たず、一方的な敗北で終わるという結果となりました。

その結果、ロシアの艦船は、蝦夷地のみならず、津軽海峡まで探索をし、様々な測量をしてくるに至ります。

弘前藩からこの事実を聞かされて煽られた江戸幕府は危機意識を高めます。

その結果、文化5年(1808年)12月、ようやく江戸幕府が、弘前藩の天守再建の許しを認めることとなったのです(実は、弘前藩は、天守再建ではなく、天守「櫓」移築という名目で請願をしています。)。

その結果、文化7年(1810年)、2年弱の工事期間を経て、本丸南東角部に、2代目天守が再建されています。なお,江戸幕府が出した再建許可は、天守についてのものではなく、櫓の建設というものでしたので、弘前城は、初代のような巨大なものではなく、わずか三層三階の小ぶりな天守を再建するにとどまりました(御三階櫓(ごさんかいやぐら)と呼ばれています。)。

お上には「櫓でいいので建てさせてくださいよ~」とお願いをして許可を得たにもかかわらず、藩士・領民には「天守再建許可が出た。」と説明し,櫓・天守のどちらともとれるような建物を建てる、何か何処かで聞いたような政治的な解決のようでモヤモヤしませんか。私だけでしょうか。

これが、現存12天守の1つに数えられる東北地方唯一の現存天守として残る現在の弘前城天守です。

現存天守を天守と呼ぶにはちょっとした疑問もありますが、城門や櫓などの築城当時の貴重な城郭建築物が極めて良い保存状況で残ることとも合わせ考えると、弘前城は歴史的価値の高い城と言えます。

弘前城の構造

では、以下、以上の歴史を踏まえ、弘前城の構造について説明します。

縄張

弘前城は、梯郭式(ていかくしき)平山城で、別名鷹岡城、高岡城とも呼ばれています。

梯郭式とは、一方又は二方を崖や川などの天然の障害を守りに利用している造りをいいます。天然の障害で守れない部分を郭で守る構造です。

弘前城の西側は、本丸のすぐ西側に高さ20mもの急峻な崖を利用した数kmにも及ぶ障害物が構築され、さらにその西側は川によって守られるという、万全の守りとなっています。

また、これに加えて、西側にも郭を1つ配置し、万全の防御態勢が敷かれています。

他方、北・南・東側は、天然の傷害がないために人工物による防御の必要性が高くなっいるため、弘前城は、この3方向の備えを重視して造られています。

まず、東側と南側の守りには、本丸を守りの固い西側に寄せて配置し、それを取り囲むように東側と南側に逆L字型に二の丸が配置されています。そして、二の丸から中堀を挟んださらに東側と南側に、さらに逆L字型に三の丸が配置しています。

そして、本丸の北側には、四ノ丸と北の郭が配置してあります。

以上をみると、弘前城が、天然の障害物を利用しつつ、本丸を中心に幾重にも掘りを巡らし、二の丸、三の丸の順に階層的な防御がなされていることがわかります。

この城を攻めることの困難さを考えると、弘前城は、日本の近世城郭の完成形と言える仕上がりです。

なお、余談ですが、弘前城の南側には開けた土地があり、ここが弘前城の弱点となりうるのですが、ここには33もの禅宗の寺を集めて出城的な役割を果たさせ(通称、禅林街)、防御ラインを構築してその弱点を補っています。この地域への入り口に升形道路を造り、土塁で覆っていることからもその意図がはっきりと見えます。

城郭内の各種構造

次に、城郭内の各種構造を見ていきましょう。

大手門(追手門)

弘前城の入り口ともいえる大手門(重要文化財)は、城の南側にあります。

大手門は、小さめに作られた城の入り口(虎口)の右側に配置されています。

虎口が小さく造られているのは城門を破るための開門兵器を使いにくくするためであり、また門が小口の右側に造られているのは攻めてきた敵を城の内部や門の上から弓・鉄砲などで攻撃するためです。

なお、弘前城の大手門は、他の地方の城門と比べて、その高さが高いことが注目点です。

これは、津軽地方は、積雪量が多く、当然門の付近にも雪が積もります。そこで、雪が積もっても人が出入りすることができるようにするため、予め門の高さを高くしているのです。

また、大手門の瓦が、雪が積もって割れたりしないよう、同で造られているのも特徴です(天守の屋根も同様です。)。

余談ですが、大手門は、築城当時は搦手門であり、これが大手門になったのは参勤交代で江戸に向かう際に都合がよかったからであり、防衛上の理由ではありません。

三の丸

大手門を抜けると三の丸です。

三の丸に入ってそのまままっすぐ北上すると、目の前に辰巳櫓(重要文化財)が見えてきます。

そのまま三の丸を抜けて二の丸に向かうには、真っ赤な杉の大橋を渡ることとなります。

杉の大橋は、築城当時はその名のとおり杉で造られており(今は、鉄の橋となっています。)、敵が攻めてきた場合には、簡単に壊したり燃やしたりしてすることができる構造となっていました。

そして、二の丸に入るためには、南内門をくぐる必要があります。

南内門も、大手門同様左に曲げて門が配置されています。

二の丸

南内門を抜けると二の丸です。

二の丸の南西部には、南西を意味する未申櫓(重要文化財)が、また、南東部には、辰巳櫓(重要文化財)が建っています。

そのまま進むと、南側から本丸に向かう赤い下乗橋が見えてきます。江戸時代には、本丸に入る際にこの前で馬から降りていたためにこの名がつけられたと言われています。

なお、本丸には北側にも橋がかけられていますが、この下馬橋から本丸を仰ぎ見ることができる構造となっているため、圧倒的にこの橋のほうが有名です。

下馬橋と本丸の間には、馬出しが設けられています。

これにより、攻め込んできた敵を馬出しに引きつけ天守から攻撃することも、攻め込んできた敵に対して打って出る拠点とすることもでき、効果的な防御が可能な造りとなっています。

この造りからも、弘前城が、江戸時代に造られたとはいえ、単なる飾りの城ではなく、戦う城であったことがわかります。

本丸

眼前の天守を眺めつつ、下馬橋を渡ると、いよいよ天守のある本丸です。

現存12天守のうちの1つである弘前城天守が鎮座しています。

前記のとおり、弘前城天守は、櫓の移築として許可されていますので、弘前藩にとっては天守ですが、幕府にとっては櫓でした。

そのため、弘前城の再建天守は、本丸南東角部に造られ、サイズも三層三階の小ぶりなものとなっています。

再建場所が南東角である理由は、1つには櫓であるためとされますが,もう1つには200年もの間再建が目止められずに辛い思いをした弘前藩士達の悲願成就の証として、下馬橋を通って本丸に入る際、一番最初に目が行く場所で仰ぎ見ることができるようにするためとされています。

また、弘前城は、違う方向から見ると違う見え方がします。

詳しいことはわかりませんが、一方から見ると天守に見え、一方から見ると櫓に見えるという弘前城天守の不思議な造りは、天守兼櫓であったからかも知れませんね。

なお,余談ですが,大手門と同様,天守も積もった雪で破損しないように屋根には瓦ではなく銅が葺かれています。

北の郭

大手門から本丸まで行ってしまいましたが、見落としている北側を見るため、さらに天守から北の門まで向かいます。

天守から北へ向かい、天守にかかるもう一本の橋である鷹丘橋を渡ると、北の郭です。

北の郭から右に向かうと再度二の丸に入り、丑寅櫓(重要文化財)が見えます。

四の丸

右に行かずに緑色の橋である亀甲橋(かめのこばし)を渡ると、その先には四の丸を経て,最北端に郭亀甲門(重要文化財)があります。ここの虎口と門の構造は、大手門と同様です

なお、余談ですが、築城当時の大手門は、この郭亀甲門であり、現在の大手門が搦手門であったようです。

明治期以降の弘前城

250年以上もの長きに亘って弘前藩・津軽家の居城とされた弘前城ですが、1871年の廃藩置県により、津軽家が弘前城を出ることとなります。

その結果、明治維新政府が弘前城を引き継ぎ、陸軍において使用されることとなったのですが、陸軍によって城自体の維持に力を入れられることはなく、以降、弘前城は荒れていく一方となりました。

これを見兼ねた元弘前藩士、菊池楯衛が動きます。

菊池楯衛は、廃藩置県後、リンゴを中心とする果樹栽培で生計を立てていたのですが、荒れていく弘前城を嘆き、往時の繁栄を取り戻すべく、1882年(明治15年)、弘前城内の天守が見える場所を中心に、1000本ものソメイヨシノの苗木を植えていきます。

まさに、「花は桜木、人は武士」ですね。

最初の植樹は、他の元弘前藩士の反感を買って荒らされたりもしたのですが、1894年(明治27年)、日清戦争にて戦死した青森出身兵士を慰霊するという目的で、市の事業として再度100本の桜の苗木が植えられます。

また、日露戦争の頃にも、同様の理由で追加の植樹が行われました。

このとき植えられた桜が、今も弘前城を彩り、訪れる人の目を楽しませ、現在に至る桜の城としての評価を得ていくこととなったのです。

補足(修復工事)

天守再建後の弘前城も、その後の時間の経過によって徐々に劣化が進みます。

特に本丸東面の石垣には多数のふくらみが確認され、崩落の危険が指摘されていました。

そこで、2015年(平成27年)から、曳屋にて天守を西側にずらして移動させることにより、天守を解体することなく、その土台である本丸東面石垣の修復工事がはじめられました。

なお、この修復工事の過程で、弘前城に優れた技術が使われていたことが明らかとなりました。

天守のあった本丸東部は、元々地盤の緩かった場所なのですが、そこに建てられた再建天守を支える石垣の角石(すみいし)にイカの形をした細長いものが置かれ、その角石に2箇所穴が開けられて2本の天守の柱をはめ込んで、沈下を防ぐという技術が使われていたことが明らかとなりました。

また、角石と隣り合う石垣の石を鉛の金具で繋ぎ、ズレたり外れたりするのを防ぐ工夫もなされていたようです。

石垣を一度解体して、再度忠実に再現するという難工事の過程で、かつての進んだ土木事実を知るというのも、面白い発見です。

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