【岡山城(100名城70番)】超大国毛利家に備える宇喜多直家・宇喜多秀家の城

中国地方にある名城岡山城は、織豊時代の遺構を残す珍しい城です。

天守の黒さ、珍しい不等辺五角形の天守台,大きく東に寄った本丸,対岸の後楽園の歴史など、その独特さで歴史ファンの心を鷲掴みにしています。

本稿では、そんな岡山城を簡単に説明したいと思います。

岡山城築城

金光氏の岡山城

岡山城は、備前国御野郡岡山(現在の岡山市北区)にある,旭川が大きく蛇行する地点にある丘の上に建てられています。

築城の始まりは、南北朝時代の1350年ころとされているようですが、築城者が誰であるかは明らかとなっていません。

その後、1521年ころ、金光氏が岡山城を居城として使用していたと記録されています。

宇喜多直家・宇喜多秀家親子による岡山城大改修

元亀元年(1570年)、浦上宗景の下で勢力を高めていた宇喜多直家が,将来自身が備前一帯に勢力を伸ばすことを見据えて、瀬戸内に面した立地条件のいい場所を欲したため,当時自身に従属していた金光宗高を謀殺し、当時の石山城を接収したのが、現在の岡山城の始まりと言えます。

天正元年(1573年)、宇喜多直家は、それまでの居城であった亀山城(沼城)から岡山の地に本拠を移し、城の改築と城下町の形成を始めました。

天正3年(1575年)、宇喜多直家は、主君である浦上宗景を放逐して下克上を達成し、備前・美作・播磨・備中へとさらに勢力を拡大していきます。また、勢力拡大とともに岡山城の増改築を本格化させていきます(旭川の流れを変え,また天守の位置を移動させています。)。

天正9年(1581年)、宇喜多直家が病死したため、その子である宇喜多秀家が家督を継いだのですが、このとき宇喜多家は備前・美作・備中半国・播磨三郡計47万石(一説には57万4000石とも言われています。)を治める大大名となっていました。

また、宇喜多秀家は、豊臣政権下において厚遇され、五大老の1人に任ぜられるなど、絶大な政治力も有していました。

1590年、宇喜多秀家は、大領宇喜多家の居城にふさわしい城とするため、岡山城の更なる大改修を開始し、 慶長2年(1597年)に完成しています。

池田家の城としての岡山城

もっとも,宇喜多秀家は、慶長5年(1600年)に発生した関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦って敗北し、宇喜多家は改易されました(宇喜多秀家は、慶長11年八丈島に流刑となっています。)。

そして、岡山城には、備前・美作52万石を与えられた小早川秀秋が入城することとなりました。

小早川秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行っています(この外堀工事に農民だけでなく武士も使役し20日で完成したため、「廿日堀、二十日堀(はつかぼり)」と呼ばれています。)。

慶長6年(1601年)には、中の段南隅に大納戸櫓と呼ばれる沼城天守を移築したとされ、これは岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓でした。

もっとも、小早川秀秋は慶長7年(1602年)10月に急死し、嗣子がなかったため小早川家は断絶しています。

その後,慶長8年(1603年)に、わずか5歳の池田忠継に備前28万石が与えられ、池田忠継は、大人になるのを待って、1613年(慶長18年)に岡山城に入城しています。

慶長20年(1615年)、池田忠継が死亡し、池田忠雄が淡路より31万5000石で入封し、岡山城のさらなる改築が行われました。

岡山城の縄張り等

岡山城の縄張を知るためには、宇喜多直家・宇喜多秀家による大改築が行われた当時に宇喜多家が置かれていた勢力図を頭に入れておかなければなりません。

宇喜多直家が治めた岡山城のある備前の国は、東側は天下人に近い織田家(後の天下人豊臣家)が、西側は超大国毛利家が君臨するという、強者に挟まれた極めて危険な場所でした。

実際、織田家・豊臣家と毛利家は、戦を繰り返していました。

そんな中、宇喜多家は、西の毛利家ではなく、東の織田家・豊臣家と結ぶ選択をしました。

そのため、宇喜多家は、毛利家を想定敵国として、岡山城の大改修を行っているのです。もっと言えば、岡山城は毛利家と戦うために改築した城なのです。

そのため、岡山城の城郭は、毛利家が攻めてくるであろう西側を重点防衛ポイントとして、西側に堀と郭による十重二十重の防御が作られました(なお,残念ながら,この時整備された西側の郭は,現在住宅街となっています。)。

また,宇喜多直家の時代には石山に天守が置かれていたのですが、宇喜多秀家はこれを少し西に移して現在の位置である岡山に本丸を築き、元々本丸のあった石山を二の丸に、さらにその西側を三の丸としています。

その反面、味方である織田・豊臣側がいる東側には川があるだけで特段の防御施設はなく、本丸の西側の守りは前記のとおり旭川に一任するという極端に西側を重視した梯郭式(ていかくしき)平山城となっています。

なお、梯郭式とは、一方又は二方を崖や川などの天然の障害を守りに利用している造りをいいます。天然の障害で守れない部分を曲輪で守る構造です。

外曲輪

現在、岡山城の外曲輪は現在住宅地になっていますので、ほぼ遺構は残存していません。

内曲輪

岡山城の中心となる本丸は、標高の高い順に、東側の本段(天守のある天守曲輪)、西側の中の段(表向、本丸御殿のあった表書院)、南側の下の段(高い石垣が積まれた本丸帯曲輪)の3つの段で構成されています。

そのため、南側から本丸に入っていくと、下の段→中の段→本段の順に進んでいくこととなりますので,この順に説明します。

下の段

本丸の南側に架けられた目安橋を通って内下馬門から北向きに下の段に入ります。

門を抜けると東に向かって進んでいき、虎口を通過して,西向きに階段を上ると、鉄門があります。

この鉄門をくぐると、そこから中が表向(表書院跡)です。

中の段(表向)

中の段にあった表書院は、残念ながら現存していませんが、当時は、公式式典を行う表書院と、城主が政務を行う中奥部分とに分けられていました。その跡地からは金箔瓦が数多く出土しています。

また、表書院西北角には、月見櫓(外側からは2層、城内からは3層に見える造りとなっています。)があり、その3階部分は、吹き放し構造で、壁が存在しない独特の構造となっています。

月見櫓は、岡山城内の建築物の中で、唯一第二次世界大戦下のアメリカ空襲でも消失することなく耐え、当時の姿を残しており、重要文化財に指定されています。

月見櫓の石垣は、石の打込みはぎ石垣で、加工された石で工夫して隙間を埋めるという方法で積まれています。また、角部は長方形に加工された石を互い違いに組み上げた算木積みで積まれています。

これらの石垣の積み方の技術から、月見櫓は、宇喜多家の時代のものではなく、後世の池田家時代ものであることがわかります。実際、月見櫓は、1620年代に池田忠雄により建てられたようです。

表書院の先には城主の私的生活の場である天守曲輪の本段があり、表書院と本段とは、石垣と土塀で区分され、高さも本段が一段高くなっています。

表書院から本段へ向かうと、その入り口には不明門があります。

不明門は、通行ができないよう常に門が閉められていたため、開かずの門とも呼ばれていました。

本段(本丸)

開かずの不明門をくぐると、いよいよ天守のある本段(本丸)です。

本段の奥、北東角に天守が鎮座しています。

前記のとおり、岡山城は、西側から攻めてくる毛利軍と戦うための城ですので、本丸はもちろん天守も最も東側(北東部)に建てられています。

宇喜多氏により建てられた岡山城天守は第二次世界大戦による戦災で焼失してしまったため、現在の天守は昭和41年(1966年)に外壁を当時のものを模したコンクリート建築となっていますが、外観上は当時の美しさを忠実に再現しています。なお、復元に際しては、直家時代のものではなく、秀家時代のものを再現したとされています。

天守

岡山城天守は、とても個性的な形をしています。

岡山城以外の城のほとんどは四角形(正方形又は長方形)の形状をしていますが、岡山城はそれらとは異なって、天守台が不等辺五角形で、北側と西側に大きく歪んだ造りとなっています。

天守の基礎となる石垣の石積み技術が未発展の時期に造られたため、天守北東部の石垣(鬼門方向)は野面積みで積まれており、技術不足からやや歪な平面となっています。なお,野面積みは,自然のままの丸みを帯びた石を加工することなくそのまま積み上げた造りであり、表面に凹凸ができていますので、敵兵が簡単に上ることができ,防御力は後世のものと比べると見劣りします。また、余談ですが、石垣の表面をよく見ると赤茶色に焼けて割れた跡が見られ、1945年6月29日の岡山大空襲の傷跡がしのばれます。

次に、天守本体について見ていきます。

天守は,その西側に塩櫓と呼ばれる付け櫓がついた複合的天守です。

大入母屋(おおいりもや)を二重に組み、その上に望楼を乗せた五層六階の造りで,屋根には、秀吉が愛した金箔の貼られた金の鯱が付けられています。岡山城の城主であった宇喜多秀家が、天下人豊臣秀吉からいかに愛されていたかを物語っているようです。

前記のとおり、天守台が不等辺五角形となっていますので、天守自体も、1階の唐破風(からはふ)の下の部分が折れた不等辺五角形となっています。これは極めて珍しい形です。

一説には、不等辺多角形で造られた織田信長の安土城を真似たと言われていますが,真実はわかりません。宇喜多秀家の正室が,織田信長の重心である前田利家の娘であったために、岡山城が安土城に似せて造られていると言われているところにロマンを感じますね。

天守外壁の下見板には漆が塗られて(当時は,焼き板であった可能性もあります。)、岡山城は,織豊時代の城の特徴として黒くなっています。なお、江戸期以降の城は、壁に漆喰が塗られていますので白いのが特徴です。

また、天守には、明かり取りの格子窓が数多く付けられており、その白さが,外壁の黒さとのコントラストで映え,美しい西洋の石造り窓を想起させる造りとなっています。なお,この造りも、安土城を参考にしたとも言われています

岡山城は,この外観の黒さと、その美しいシルエットから、烏城(うじょう)と称されています。

岡山城の出城としての後楽園

ここで、岡山城の北東部の旭川の対岸にある後楽園に目を向けてみましょう。

後楽園は、日本三大名園の1つとしてとても有名で、天守望楼からもよく見える位置にあります。

この後楽園は、表向きは江戸時代に岡山を治めた池田氏の大名庭園ですが、実質は岡山城の出城です。

前記のとおり、岡山城は、元々毛利家に対する防衛のために造られたものであったため、西側防御を重視する構造となっており、本丸は極端に東に寄り、また天守も本丸の北東角部に造られています。

そのため、宇喜多家時代の岡山城は、東側からの防御がとても脆い構造となってしまってです。このことは、その後入城した小早川秀秋、池田家も痛感していたはずです。

ところが、池田家(小早川家も同様)の統治時代は,徳川将軍家が目を光らせており,城の増改築はほぼ認められず,この脆さを是正することができませんでした。

そこで、岡山城に入城した池田家は、一計を案じ、城の北東角部に大名庭園の名目で川を掘ったり,起伏を設けたりするなどして、戦時には簡単な手直しで出城・郭を作ることができるように整備し、防衛拠点を確保したのです。

徳川家ににらまれることなく岡山城の東側の守りを固めることとする、これが、わざわざ後楽園が岡山城のすぐ北東に造られた真の目的です。

後楽園は、単なる大名庭園ではないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です