【智積院】京都東山にある根来寺

智積院(ちしゃくいん)は、現在の京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院です。

開山は玄宥僧正、山号は五百佛山(いおぶさん)、寺号は根来寺(ねごろじ)となっています。

京都の東山にある寺院であるにもかかわらず、根来寺という和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山寺院の寺号が付されているのには悲しい歴史的沿革があります。

本稿では、智積院観光が楽しめるよう、京都東山に建てられて真言宗智山派の総本山にまでなった歴史を踏まえ、智積院について簡単に解説していきたいと思います。

根来に智積院建立

覚鑁が高野山を下りる(1140年)

智積院は、弘法大師空海が開いた高野山の僧であった興教大師覚鑁から始まります。

20歳のときに高野山に上った覚鑁は、当時その力を失いつつあった高野山での信仰を取り戻そうと尽力し、この覚鑁の活動を見た鳥羽上皇が覚鑁に帰依して荘園を寄進するなど手厚く保護します。

この結果、覚鑁は、長承元年(1132年)に鳥羽上皇の院宣を得て、高野山内に学問機関である大伝法院や修禅の道場である密厳院を建立するなどして、空海の教えをさらに広めるよう努めます。

これらの活動が評価された覚鑁は、長承3年(1134年)に金剛峯寺座主に就任し、高野山を統轄する強大な権力を持つこととなり、このとき得た力を基に当時堕落していた高野山全体の大改革を進めていきます。

もっとも、この高野山の信仰を建て直し宗祖・空海の教義を復興しようとする覚鑁の改革案は、世俗化していた高野山内の衆徒の猛反発にあいます。

そして、保延6年(1140年)、改革反対勢力により、覚鑁の住房であった密厳院を含めた覚鑁一門の寺院が焼き討ちされるという事件に発展します(錐もみの乱)。

高野山での活動の限界を感じた覚鑁一門は、高野山を下りて大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にある根来山に活動の拠点を移します。

根来寺建立(1205年)

この当時の根来には、豊福長者が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵があり、この草庵に入った覚鑁は、これを建て直して豊福寺(ぶふくじ)と名付け、また学問所として「円明寺」を、住房として「密厳院」を建立します。

その後、康治2年(1144年)12月12日、覚鑁が49歳で入滅すると、大伝法院衆徒の一部が高野山に戻ったのですが、その後の正応元年(1288年)に大伝法院の学頭であった頼瑜僧正が高野山を下りて大伝法院の僧侶を率いて根来に移ってきます。

なお、根来寺という呼称は、元久2年(1205年)頃までに成立したものと考えられています。

このとき、大伝法院が根来に移され、またその後に山中に様々な堂宇が建てられて一山総称としての根来寺が形成されていきました。

そして、根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」として栄え、最盛期には6000人もの学僧を抱える一大宗教都市となります。

智積院建立(南北朝時代)

前記のとおり、根来寺内には大伝法院の外にも様々な塔頭寺院が建立されたのですが、智積院もまた、南北朝時代に真言宗の学問寺院とするべく塔頭の1つとして真憲坊長盛という僧により建立されました。

智積院は、いわゆる修行の寺ではなく、真言教学(密教)指導者が住職とする教学の府(学山智山)としての性格を有する寺として機能しました。

根来寺が豊臣秀吉と対立する(1584年)

次代を経るに従って巨大化していった根来寺は、室町時代末期の最盛期には450もの坊舎450を抱える一大宗教都市を形成し、また寺領72万石とその経済力を基にした1万人もの根来衆とよばれる僧兵軍団を擁する軍事都市ともなりました。

そして、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られた結果、根来衆に鉄砲隊が編成され、大大名クラスの力を持つようになりました。

室町時代末期になると、石山合戦に協力するなどして織田信長とは友好関係を築いたのですが、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いの際には徳川家康・織田信雄方に与して豊臣秀吉方の岸和田城やを襲うなどしたため、豊臣秀吉と対立することとなりました。

豊臣秀吉による紀州征伐(1585年)

豊臣秀吉は、天正13年(1585年)3月、小早川隆景に命じて毛利水軍を岸和田に展開させた上、木食応其を使者として根来寺に派遣して拡大した寺領の一部返還を条件に和睦を斡旋します。

この提案に根来衆の間で意見が分かれたのですが、反対派が夜中に木食応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけ、木食応其が京に逃げ帰る事態に発展します。

これら一連の根来衆の対応に激怒した豊臣秀吉は、自ら10万人とも言われる兵を率いて陸路及び海路から紀州侵攻を開始します。

これに対し、根来衆と雑賀衆が団結し、沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に計約9000人の兵を配して迎撃を試みたのですが多勢に無勢で勝負にならず、連戦連敗を続けます。

根来寺焼失

そして、根来衆の本拠地であった根来寺に到達した豊臣秀吉軍は、根来寺の略奪を開始し、その一環として放たれた火によって根来寺は大師堂、大塔など数棟を残して焼け落ちてしまいました。

なお、豊臣秀吉は、このとき焼け残った大伝法堂を織田信長の廟所として京の船岡山に建立する予定であった天正寺の本堂にしようと考えて解体し持ち去ったのですが、

天正寺が建立されることはなく、持ち帰った部材は大坂の中津川沿いに持ってきたまま放置されました。諸説ありますが、これが、現在の大阪市此花区伝法の由来の1つと言われています。

智積院焼失

豊臣秀吉による紀州征伐当時の根来寺智積院住職であった玄宥は、根来寺攻めが行われる前に弟子たちを引き連れて高野山に逃れていたため無事だったのですが、根来時に放たれた火によりその塔頭であった智積院もまた焼失して失われてしまいました。

そのため、紀州征伐によって本拠地を失った玄宥は、以降、智積院の再興を志して活動を続けることとなりました。

京都東山に智積院再興

智積院再興(1601年)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、全力で豊臣家の権威の低下政策を進めていきます。

その一環として行われたのが、京・東山における豊臣系寺院の影響力低下政策でした。

この頃の京・東山の地は、阿弥陀ヶ峰山頂に建立された豊臣秀吉の墓である豊国廟を頂点(最東端)としてそこに豊国秀吉を神として祀る豊国社を配し、そこから西に向かって参道が設けられ、その参道に祥雲禅寺・方広寺などを配した一大豊臣系寺社仏閣都市となっていました。

徳川家康は、この豊臣系巨大宗教都市に楔を打ち込むため、慶長6年(1601年)に豊国社の参道に位置する豊国社付属寺院の土地建物(現在の密厳堂エリア)を根来寺智積院住職であった玄宥に与え、同地において智積院を再興させます。

玄宥にとっては念願の智積院再興だったのですが、その再興場所が、根来を焼いた豊臣秀吉を祀る豊臣系寺院のど真ん中というとんでもない政策であり、玄宥の心中を察すると気の毒でしかありません。なお、上図の青字部が智積院、赤字部が豊臣系神社・寺院です。

祥雲禅寺の寺域を吸収(1615年)

その後、徳川家康は、慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家を滅ぼすと、豊国系寺院が集中していた豊国神社近辺の豊臣系神社及び寺院解体を始めます。

このとき、この1つとして行われたのが豊臣秀吉が鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺の廃寺であり、これについては祥雲禅寺の寺域を智積院(第3世・日誉僧正の代)に寄進する方法で行われました。

智積院は、臨済宗寺院であった祥雲禅寺の寺域を取り込み、現在につながる大寺院に拡大発展します。この結果、山号を五百佛山(根来に名を残す山)・寺号を根来寺智積院と改めました。

そして、祥雲禅寺を取り込んだ智積院は、祥雲禅寺をそのまま活用することとしたため、現在の智積院には祥雲禅寺の名残が数多く残存しています。

例えば、祥雲禅寺が築城名手であった加藤清正が造営奉行を努めて建立された寺であったところ、加藤清正が調度類に桔梗紋を使用していたことにちなんで桔梗紋を寺紋としていました。

そして、智積院が祥雲禅寺を吸収した際、同寺が使用していた桔梗紋をもあわせて使用することとなったため、智積院の寺紋も桔梗紋とされることとなりました。

また、祥雲禅寺客殿も接収し、ここに残されていた長谷川等伯一門による障壁画や、利休好みと伝わる名勝庭園をも引き継いでいます。

その後、第7世・運敞僧正の代に智山教学が確立し、真言密教の正統のみならず幅広い知識を学ぶ学問寺院として多くの学僧が集まるようになります。

真言宗智山派総本山となる(1900年)

その後、幕末から明治期にかけて全国に広がった仏教排斥運動により真言宗智山派の存続の危機がおとずれると、明治33年(1900年)に全国約3000余の同派寺院が結集し、智積院を真言宗智山派の総本山とすることでこれらの困難に立ち向かうこととなりました。

この結果、智積院は、真言宗智山派の序列のトップとなり、以下の各寺院や末寺に至る3000余寺院の頂点に君臨することとなりました。

(1)総本山

智積院(京都市東山区)

(2)別院

愛宕薬師真福寺(東京都港区)

(3)大本山

成田山新勝寺(千葉県成田市)

金剛山平間寺(川崎大師・神奈川県川崎市川崎区大師町)

高尾山薬王院(東京都八王子市高尾町)

(4)別格本山

高幡不動金剛寺(東京都日野市)

大須観音宝生院(愛知県名古屋市中区)

智積院の境内

山門

① 総門

智積院総門は、智積院の西側(七条通りと東大路通りの交差点)に位置する山門です。

東福門院の旧殿の門を移築したものと言われています。

一般の通行に要する門ではなく、住職の晋山(就任)と退山の際に使用される門とされています。

② 北門

智積院総門は、智積院の北側(女坂沿い)に位置する山門です。

法務所エリア

① 法務所(本坊)

② 宸殿(1958年再建)

宸殿は、智積院の能化(住職)が賓客を迎えるための建物です。

現在の建物は、昭和33年(1958年)に再建されたものです。

内部には、国宝・松に黄蜀葵及菊図(まつにとろろあおいおよびきくず)や、堂本印象の障壁画などが各部屋に配されています。

③ 奥書院

外郭エリア

① 宗務庁(1926年建立)

宗務庁は、大正15年(1926年)に建てられた建物であり、かつては京都市立芸術大学の校舎として使用されていました。

② 専修学院

③ 智山書庫

④ 宝物館(2023年再建)

宝物館は、令和5年(2023年)春、弘法大師空海ご誕生1250年を記念して建てられた智積院宝物の展示収蔵庫です。

智積院が保有する8万点の収蔵品を順次展示すると共に、天正19年(1591年)に長谷川等伯一門により祥雲禅寺(豊臣秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺)客殿の障壁画として描かれ、智積院に引き継がれた国宝の障壁画が常設展示されています。

⑤ 智積院会館(2020年9月1日再建)

智積院会館は、予約すれば誰でも宿泊・休憩に利用できる宿坊です。

昭和41年(1966年)に建てられた以前の会館が老朽化のために取り壊され、令和2年(2020年)9月1日に再築されています。

密厳堂エリア

密厳堂エリアは、慶長6年(1601年)に玄宥僧正が徳川家康から与えられて智積院が東山に再興するに至った際の最初の寺域となった場所です。

後に拡張された西側より高地にあることから「上之寺」と呼ばれたりもしています。

① 運敞蔵(1673年建立)

運敞蔵は、延宝元年(1673年)に第7世化主・運敞僧正により建立された蔵です。

運敞僧正の著作をはじめとして、その他の研究書物資料などを収蔵しているためにその名が付されました。

② 求聞持堂(1851年建立、護摩堂)

求聞持堂は、嘉永4年(1851年)に建立された堂宇です。

文殊堂とも呼ばれます。

③ 拝殿(京都府指定有形文化財)

④ 三社壇

三社壇は、寛文7年(1667年)に勧請された根来寺大伝法院以来相承の守護神である3つの三部権現(三部権現社・春日大明神社・九社明神社)であり智積院の総鎮守とされています。

中央に三部権現社(京都府指定有形文化財) 、右に春日大明神社(京都府指定有形文化財)、左に九社明神社(京都府指定有形文化財)が配されています。

⑤ 愛宕大権現・天満宮・白山大権現・藤森天王社

⑥ 僧坊

⑦ 密厳堂(1667年建立、開山堂、京都府指定有形文化財)

密厳堂は、寛文7年(1667年)に建立された、真言宗中興の祖であり新義真言宗の開祖でもある興教大師覚鑁の尊像を祀る堂宇です。

正面に掲げられた「密厳堂」の扁額は、運敞僧正の筆とされています。

大師堂エリア

① 弘法大師像

② 大師堂(1789年再建、京都府指定有形文化財)

大師堂は、真言宗愁訴弘法大師空海の尊像を祀る堂宇です。

寛政元年(1789年)に、6間に6間半・坪数48坪規模で再建されています。

講堂エリア

講堂エリアもまた、慶長20年(1615年)に祥雲禅寺の寺域を吸収したことにより拡張されたエリアです。

① 大玄関

② 唐門

③ 名勝庭園

名勝庭園は、池泉鑑賞式庭園であり、千利休が好みそうという理由から利休好みの庭園といわれ、国の名勝に指定されている。

石橋より奥は禅寺・祥雲寺の時代に造られたものであり(滝がある正面は江戸時代に修築されたものとされています)、庭園内の築山は中国の「廬山」を、池は「長江」に模して造られています。

なお、長江を模すために池の底に粘土を敷き詰め、意図的に長江の濁った水を再現しています。

④ 大書院

⑤ 講堂(旧方丈、1995年再建)

元々の智積院講堂は、元々祥雲禅寺客殿であった建物です。

また、現在智積院宝物館に収蔵されている長谷川等伯一派作成の国宝・障壁画は、この祥雲寺の客殿に飾られていたものでした。

この祥雲禅寺客殿は、天和2年(1682年)7月の火災で全焼してしまったのですが、障壁画は大部分が助け出されたために現存しています(もっとも、現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があり、これらは火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたものであると推定されています。)。

その後、祥雲禅寺客殿跡地には、貞享元年(1684年)、東福門院の旧殿・対屋を基にして建物の再建がなされたのですが、この再建建物もまた昭和22年(1947年)の火災により焼失してしまいました。なお、昭和22年(1947年)の火災により当時国宝に指定されていた宸殿障壁画のうちの16面が焼失しています。

その後、講堂の再建が行われることとなり、工事に先立って平成4年(1992年)に発掘調査が行われたところ、講堂跡地の下から祥雲寺客殿の遺構が検出されました。

このとき発見された祥雲寺客殿跡により、同寺が、当時の日本最大規模の壮大なものであったことが裏付けられました。

そして、これらの発掘調査を終え、平成7年(1995年)10月に再建されたのが現在の講堂です。

金堂エリア

① 冠木門

冠木門は、昭和59年(1984年)3月1日、智積院檀徒の寄進により設置された門です。

② 鐘楼堂

鐘楼堂は、元々寛文7年(1667年)に豊国社の末寺に建立されたものを、平成10年(1998年)に旧宗立智山専門学校同窓生が作る智専会によって鐘と共に寄進されたものです。

また、このとき寄進された梵鐘は元和2年(1616年)に鋳造された鐘であり、「智専の鐘」と呼ばれています。

③ 興教大師覚鑁像

④ 仏足石

⑤ 明王殿(不動堂)

明王殿は、智積院の護摩道場・祈祷所であり、不動明王を本尊とするために不動堂とも呼ばれます。

本尊の不動明王は、根来寺より伝来したものと言われており、麦つき不動とも呼ばれます。

また、建物は、江戸時代に四条寺町にあった浄土宗寺院である龍池山大雲院(現在の京都市東山区祇園町)の本堂として建てられたものだったのですが、智積院旧本堂が焼失した後に大雲院より譲られて現在講堂がある場所に移築されたものです。

その後、智積院講堂の再建に先立ち、平成4年(1992年)に現在地に移築され、現在に至ります。

なお、明王殿は、京都十三佛霊場第一番、近畿三十六不動尊霊場第二十番札所となっています。

⑥ 金堂(1975年再建)

金堂は、本尊を安置する寺院の中心となる堂宇です。

かつての金堂は、元禄14年(1701年)3月に第10世専戒僧正の発願により徳川綱吉の母である桂昌院から与えられた金千両と学侶からの寄付金を基に工事を開始し、宝永2年(1705年)春に建立された堂宇でした。

もっとも、当初の金堂は、明治15年(1882年)の火災で焼失し、失われてしまいました。

その後、昭和50年(1975年)に宗祖弘法大師空海生誕1200年記念事業の一環として金堂(鉄筋コンクリート造・入母屋造・瓦葺)が再建され、現在に至っています。

なお、智積院金堂では、本尊として金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来を祀っています。

⑦ あじさい園

⑧ 光明殿(納骨堂)

⑨ 学侶墓地

学侶墓地は、江戸時代に智積院内で修業するも志半ばで亡くなった学僧を祀った墓地群です。

現在の学侶墓地は、平成3年(1991年)に地厳山から墓石群を移転の上で整備されたものです。

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