【豊国廟】563段の石段の先にある豊臣秀吉の墓

豊国廟(ほうこくびょう)は、豊国神社の境外地となった京都市東山区今熊野北日吉町にある豊臣秀吉のお墓です。

阿弥陀ヶ峰の山頂に麓から563段の石段を登ったところに石造五輪塔が建てられ祀られています。

後の天下人となった徳川家康が久能山(静岡市清水区)に葬られたことと比較すると、一見、質素かつマイナーであるかのように感じますが、その理由は、徳川家康が豊臣家滅亡後に行った豊臣家の痕跡抹消政策によるものです。

本稿では、豊臣家と徳川家の勢力争いをからめつつ豊臣秀吉の墓である豊国廟について簡単に説明したいと思います。

豊国廟設置の経緯

豊国廟の立地

豊国廟は、阿弥陀ヶ峰の山頂部(現在の京都市東山区今熊野北日吉町)に位置するのですが、豊臣秀吉の墓がなぜここにあるのかを考えるためには当時の情勢を理解する必要があります。

方広寺創建(1588年着工)

松永久秀・三好義継と、三好三人衆・筒井順慶・池田勝正とが大和東大寺周辺で半年間に亘って繰り広げた市街戦により、永禄10年(1567年)10月10日、東大寺が焼失し大仏までもが失われていたのですが(東大寺の戦い、多聞山城の戦い)、その後、天下統一事業を進める豊臣秀吉が、東大寺大仏の再建ではなく、これに代わる大仏の造立を考え、天正16年(1588年)、蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に大仏と大仏殿(方広寺)の造立を決めます。

そして、文禄4年(1595年)、現在の方広寺境内に加え、現在の豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大な敷地を有する方広寺を完成させ、その境内(現在の豊国神社のある位置だそうです。)に、豊臣秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した高さ約49m、南北約88m、東西約54mという壮大な大仏殿が造立します。

その上で、高さ約19 mもの木製金漆塗坐像大仏が、大仏殿に安置されました。

西本願寺移転(1591年)

また、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)、浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世である顕如に対し、京都堀川六条の寺地を寄進し、大坂天満から本願寺を同地に移転させます(これが現在の西本願寺です)。

祥雲禅寺創建(1593年)

天正19年(1591年)8月5日、豊臣秀吉の子である鶴松(捨)が3歳で亡くなると、老いて出来た待望の我が子を失った豊臣秀吉は嘆き悲しみ、その菩提を弔うために方広寺の東側に臨済宗寺院の祥雲寺(祥雲禅寺)の建立を決め、同寺は文禄2年(1593年)に竣工します。

なお、このときの祥雲禅寺の立地は、すぐ西側に方広寺、さらにその西側先に西本願寺が配される位置関係にあったため西方浄土を意識した配置であると考えられます。

そして、南化玄興を開山として迎え入れ、同寺は棄丸人形像(豊臣鶴松像)を祀る菩提寺となりました。

もっとも、鶴松死後に創建された方広寺とそこに納められた大仏は、文禄5年(1596年)閏7月13日に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震(慶長伏見大地震)により被害を受け、大仏殿は倒壊を免れたものの大仏は開眼法要前に倒壊してしまいました。

豊臣秀吉死去(1598年8月18日)

その後、豊臣秀吉が、慶長3年(1598年)8月18日、京の方広寺の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬した上で神として祀るようにとの遺言を残して死去します(奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣って自身を「新八幡」として祀るように遺言しました。)。

豊国廟建立(1599年4月)

そのため、豊臣秀吉の死亡後まもなく、阿弥陀ヶ峰の麓に北野社に倣った八棟造りの廟所の建築が始まります(義演准后日記・慶長3年9月7日条)。

豊臣秀吉の遺命に従い、豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内にしばらく安置された後、慶長4年(1599年)4月13日、高野山の木食応其による廟所建立を待って方広寺大仏の東方に位置する阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました(義演准后日記・戸田左門覚書)。

豊臣家の聖地となった豊国廟・豊国社

阿弥陀ヶ峰中腹に豊国社創建(1599年)

阿弥陀ヶ峰山頂に豊国廟を建立して豊臣秀吉を祀ったため、方広寺と阿弥陀ヶ峰山頂との中間地となる中腹阿弥陀ヶ峰中腹部に豊臣秀吉を神として祀る神社が創建されることとなりましまた。

そして、慶長4年(1599年)4月16日に朝廷から豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)の神号が与えられた(押小路文書・宣命)豊臣秀吉を祀る神社とし、阿弥陀ヶ峰の中腹に30万坪(100万㎡)もの規模を誇る豊国社が創建されました。

なお、豊国社の創建に伴い、豊臣秀吉の墓は、西に向かって、豊国社・方広寺・西本願寺が配される位置関係となり、強く西方浄土を意識した配置となります。

この結果、豊臣秀吉を祀った豊国廟を最東端として、その参道に豊国社・祥雲禅寺・方広寺などが配され、さらにはその西側に西本願寺が存するという豊臣系の大寺院が集まる地となったのです。

高台寺創建(1606年)

また、豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)が、慶長11年(1606年)に豊国秀吉の冥福を祈るために豊国社の北側約2kmの位置(応仁の乱で焼失していたかつての黄金八丈の阿弥陀如来像/大仏を安置する雲居寺の跡地)に高台寺を建立します。なお、高台寺の寺号は、慶長8年(1603年)北政所が後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されていたことにちなんでいます。

ねねが創建した高台寺には、豊臣秀吉と北政所(ねね)の位牌を納める霊屋が設けられたのですが、この霊屋は豊臣秀吉の遺体が眠る阿弥陀ヶ峰の方向(南)を向くように建てられました。

この高台寺の完成により、豊国廟を北から見守るねねの寺までが加わり、周囲は豊臣系の大寺院で占められることとなりました。

豊国廟の荒廃

豊臣秀吉の神号剥奪(1615年)

ところが、慶長20年(1615年)、大坂の陣に勝利して豊臣宗家を滅亡させた徳川家康が、京中から豊臣家の痕跡を徹底的に消し去るべく動き出します。

まず手始めとして、後水尾天皇の勅許を得ることにより、豊臣秀吉から豊国大明神の神号を剥奪します。

徳川の時代に、豊臣秀吉を神として祀る必要ないということです。

この結果、神ではなくなった豊臣秀吉に対しては、国泰院殿雲山俊龍大居士という仏教式の名が付され、その霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:豊国神社宝物館の後方)に遷されました。

なお、このとき豊臣秀吉の遺体は、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟にそのまま放置されました。

豊国社の物理的破却断念

次に、徳川家康は、豊臣秀吉を祀る豊国社の廃絶に動きます。

ここで、徳川家康は、一旦は豊国社を物理的に破却するよう命じたのですが、神道家であり豊国廟の社僧でもあった神龍院梵舜(吉田兼見の弟)が、徳川家康のブレーンとなっていた金地院崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うなど豊国社維持の為に東奔西走します。

また、豊臣秀吉の正室であった北政所もまた、徳川家康に対して豊国社の取り壊しを止めるよう嘆願をします。

豊臣恩顧の大名に影響力を持っていた北政所の意向を無視できなかった徳川家康は、豊国社の物理的破却を諦め、豊国社社殿の修理を禁止して崩れ次第とする妥協案で手を打ちます。

この結果、修理が許されずに放置されるがままとなった豊国社とその上にある豊国廟は、時間の経過とともに朽ち果てていきました。

豊国社の記憶風化策

さらに、徳川家康(及びその後の江戸幕府)は、人々から豊臣秀吉の記憶を忘れさせるために施策を次々と実行していきます。

具体的な例としては、主なものだけでも以下のようなものが挙げられます。

①  豊国社の前面を徳川系寺院に入れ替える

豊国社の参道入口南側には、豊臣秀吉の子である鶴松の菩提寺である祥雲禅寺があったのですが、徳川家康は、同寺の敷地をかつて豊臣秀吉と対立した根来寺の僧・玄宥に与えます(なお、玄宥は、慶長6年/1601年に徳川家康の援助を受けて祥雲禅寺の東側に真言宗寺院である智積院を開山していました。)。

祥雲禅寺を譲り受けた玄宥は、智積院の敷地として吸収してしまいます。

この結果、鶴松の菩提寺であった祥雲禅寺は廃寺となりました。

祥雲禅寺の廃寺に伴って棄丸人形像は南化玄興ゆかりの妙心寺塔頭隣華院へ移され供養が続けられ、現在も妙心寺の鶴松霊廟(祥雲院霊廟)は玉鳳院の傍らに置かれています。

② 方広寺の改造

また、豊国社の参道入口北側には妙法院があったのですが、当時の妙法院門主であった常胤法親王が、豊臣家滅亡後の江戸幕府の政策に積極的に協力し、徳川系寺院として行動します。

具体的には、豊国社に保管されていた豊臣秀吉の遺品や、豊国社別当であった神龍院梵舜の役宅であった神宮寺の横領を行います。

また、妙法院は、豊臣系寺院であった方広寺の管理権を獲得し、以降、同寺を徳川系寺院として改造利用を行うことによって大きな力を獲得します。

③ 豊国社参道の封鎖(1640年)

さらに、江戸幕府は、寛永17年(1640年)、応仁の乱などにより廃絶状態にあった新日吉神社(いまひえじんじゃ)を復興させ、現在地のやや北東側に位置する豊国社と豊国廟の参道上に配置します。

この新日吉神社再建の結果、豊国社及び豊国廟への参道が封鎖され、その参拝が封じられることとなったため豊国社の朽廃が加速しています。

豊国社・豊国廟の事実上の消滅

以上の徳川家による様々な豊臣家の痕跡抹消政策により、次第に人々の記憶から豊国社の存在が失われていきます。

また、参道封鎖と社殿等の修復禁止により豊国社及び豊国廟は荒れ果て、もはやそこに行こうとする者すら現れなくなります。

その結果、江戸時代に入ってしばらくすると、もはや京から豊臣家の痕跡は認められなくなりました。

そして、豊国社と豊国廟は、人々に顧みられることなく200年以上に亘って朽ちるにまかされたのです。

豊国廟再興

豊国神社再興を布告(1868年閏4月)

江戸時代にひたすら捨て置かれた豊国社・豊国廟ですが、明治維新を経て徳川の時代が終わると風向きが変わります。

富国強兵政策を目指す明治維新政府が、海外進出を目指した豊臣秀吉の政策を高く評価したからです。徳川家と戦った豊臣家礼賛でもあります。

その結果、慶応4年(1868年)閏4月、大阪に行幸した明治天皇が、「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとして豊臣秀吉を賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下し、明治6年(1873年)8月14日には別格官幣社に列格します。

豊国神社の飛地境内となる(1880年)

以上の結果、明治政府によって豊国社の再興が認められることとなったのですが、豊臣秀吉廟は阿弥陀ヶ峰に残されたままであるものの、豊国社がかつての所在地であった阿弥陀ヶ峰中腹での再建がなされるということにはなりませんでした。

結局、豊国社は、豊臣家ゆかりの大名家によって豊国神社として現在地である方広寺大仏殿跡地に社殿のみが再建されることとなったのです。

これにより、阿弥陀ヶ峰に位置する豊国廟は、方広寺大仏殿跡地に建つ豊国神社飛地境内という扱いとなりました。

そして、明治13年(1880年)に現在地に豊国神社の社殿が完成し、遷座が行われました。

豊国廟参道の整備(1897年)

豊国神社(豊臣秀吉を祀る神社)の再建に続き、続けて豊国廟(豊臣秀吉の墓)の整備が始まります。

明治30年(1897年)、豊臣家ゆかりの旧大名家によって豊国廟の再興が行われることとなり、まずは豊国廟の参道を塞ぐ形となっていた新日吉神社の社地を南西(現在地)に移した上で、豊国廟までの参道を整備します。

豊国廟再建(1898年)

また、明治30年(1897年)、豊国神社飛地境内扱いとなっていたには阿弥陀ヶ峰山頂に至る上り坂を石段として整備します。

その上で、石造五輪塔完成後の明治31年(1898年)の豊太閤三百年祭が大々的に挙行されました。

現在の豊国廟

以上の経過を経て、豊国廟は、現在、豊国神社飛地境内として京都市東山区今熊野北日吉町所在の阿弥陀ヶ峰の山頂にひっそりと佇んでいます。

豊臣秀吉の墓まで辿り着くまでには、鳥居→拝殿→中門→五輪塔へと続く563段の石段を登っていかないといけません。足に自信がある方は一度挑戦戦してみてください。

鳥居

太閤坦

麓に建てられた鳥居をくぐった先がかつて豊国社の社殿があった太閤坦(豊国廟の西側下方の平坦地)です。

現在、太閤坦には豊臣秀吉の孫である国松と豊臣秀吉の愛妾であった松の丸殿の供養塔(五輪塔)が誓願寺から移されて配されています。

拝殿

拝殿の先にあるのが、豊臣秀吉の墓に向かう石階段です。

拝観料100円を支払った後、上って行きましょう。なお、ここから最上部まで大人の足で20分程度です。

中門

五輪塔

石段を登り切った先にあるのが、伊東忠太設計によって建てられた石造五輪塔であり、これが豊臣秀吉の墓です。

この高さ約10m・総重量47tとされる巨大な五輪塔の下に豊臣秀吉が葬られています。

五輪塔工事の際、その土中から直径約1mの素焼きの壷に入った豊臣秀吉のものとおぼしきミイラ化した遺骸が発見されており、この遺骸は手足を組んで座る形で西方を向いて葬られていました。

もっとも、この遺骸は、風化が進んでいたこともあり運び出しの際に崩れ失われており、1本の歯だけが豊国神社・宝物館に残されています(なお、遺骸の調査結果により豊臣秀吉の血液型がO型であったこともわかっています。)。

なお、石段を登り切った後で左側(北側)に向かうと、清水寺の舞台を見下ろす絶景が見られますので、一見の価値ありです。

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