【天下茶屋の地名由来】天下人・豊臣秀吉の茶屋

大阪市西成区「天下茶屋」や、大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の「天下茶屋」駅の由来をご存じですか。

大阪の天下人ゆかりの茶屋があったことからその名が付されました。

本稿では、この「天下茶屋(てんがちゃや)」という地名の由来について、簡単に説明していきたいと思います。

天下茶屋の興り

天下茶屋とは、現在の大阪市西成区岸里東2-10-9にあった芽木家の跡の一部です。

同地が上町台地からしみ出た地下水が湧き出る場所であったため、天正年間(1573年~1592年)に、芽木小兵衛光立が同地において湧き水を利用して開いた茶店が起源とされています。

この茶店は、大坂から和歌山を経て高野山へと通じる紀州街道沿いにあるため往来も多く、とても繫盛した茶屋でした。

なお、同地の湧き水の品質の良さから、茶屋の道路向かい(紀州街道を隔てた東側)には後の茶聖・千利休の師であった武野紹鴎が隠棲していたと言われています(そのため、同地は「紹鴎の森」とも呼ばれました。)。

天下茶屋と呼ばれるようになる

前記のとおり、天下茶屋が紀州街道沿いにあったこと、大変栄えた茶屋であったためその屋敷が立派なものであったこと、大坂城から住吉大社・に向かう中間地点に位置していたことなどから、同茶屋が住吉大社や堺に向かう豊臣秀吉の休息場所にあてられることとなりました(当時の当主は、3代目芽木小兵衛・昌立)。

そして、この茶屋で休息することとなった豊臣秀吉は、この地で、随行させていた千利休に茶店の泉水を汲ませて茶を点てさせました。

このとき、湧き出た水の味の良さに感嘆した豊臣秀吉は、天下茶屋の水に「恵の水」という銘を付し、それを所有する芽木家に年三十俵の朱印を与えることとします。

この出来事により、「天下」人豊臣秀吉が休憩をした「茶屋」、または関白「殿下」が休憩をした「茶屋」が訛って、同地を天下茶屋と呼ぶようになったと言われています。

天下茶屋の遺構

豊臣秀吉が休息したとされる建築物などは芽木邸内に保存され、5000㎡もの敷地内に屋敷や茶室・井戸・池などを備えていたことから、江戸時代には紀州藩主をはじめとした諸大名も宿泊したと伝えられているのですが、太平洋戦争時の戦災で焼失してしまいました。

現在は、大阪市が芽木家から敷地の北西一角と土蔵の寄付を受け顕彰史跡天下茶屋跡として整備し、わずかに残る1体の石像のみが当時を偲ばせています。

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