【島原の乱】幕府を鎖国へ導いた江戸時代最大の内乱

誰もが一度は耳にしたであろう島原の乱。

島原・天草の乱、島原・天草一揆とも言われる江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆です。

宗教戦争であるとか、厳しい年貢に反発した一揆であるとか様々な説が唱えられる戦いでもあります。

島原の乱により鎖国が始まり、以降明治維新に至るまでの江戸幕府の本格的戦争といえ、歴史的意味は絶大です。

本稿では、そんな島原の乱について、発生原因から、戦の経緯、事後処理について順に見ていきます。

島原の乱勃発まで

唐津藩・寺沢広高の圧政

天草は、元々キリシタン大名であった小西行長の所領であったためキリスト教信仰が盛んな土地でした。

もっとも、小西行長が関ヶ原の戦いで西軍に属したために天草の地は没収され、東軍に与した唐津藩主・寺沢広高に飛び地という形で天草4万石を与えられます。

その結果、寺沢広高は、飛び地を含めると12万3千石を領する大名となり、飛び地である天草領を治めるために富岡城を築くなどし、城代・代官を派遣して統治します。)。

寺沢広高は、当初はキリシタンの弾圧を積極的には行っていなかったものの、慶長19年(1614年)に禁教令が出された後はキリスト教を弾圧し、領民に対してキリスト教の棄教を厳しく迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになりました。

島原藩・松倉親子の圧政

また、島原は元々キリシタン大名であった有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教信仰が盛んな土地でした。

そんな島原に、元和2年(1616年)、大坂夏の陣で武功を挙げた松倉重政が有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封してきます(松倉重政が肥前日野江に移封された理由は、江戸幕府が、おそらく名君松倉重政にキリシタンの弾圧と、有馬氏が延岡に移封されたことによりあぶれた浪人を取り締まらせるためだったのだと思われます。)。

松倉重政は、自身が治める島原藩が実高僅か4万3000石の小藩であるにも関わらず、江戸幕府に忠誠を見せるためと大大名を装って家格を高めるために、江戸幕府に島原藩の表高が10万石であると申告し、島原藩には、実力の2倍を越える普請が課せられ、島原藩は経済的に困窮します。

また、4万3000石の島原藩は、石高から考えると、ギリギリ城持ち大名レベルの貧乏小大名に過ぎず、また、島原藩内には元々キリシタン大名有馬氏時代から残る日野江城と原城という2つの城があったのですから、これらのいずれか(普通に考えれば、当初政庁を置いた日根野城と考えるのが一般的です。)を使用するべきだったのですが、松倉重政は、江戸幕府の一国一城令に従って現存する原城と日野江城を破却し、1616年(元和2年)、島原半島の雲仙岳東麓・島原湾の平野部に新たに本格的な近世城郭である島原城の築城と城下の整備を開始します。

しかも、築いた城は、五層五階の天守を中心に3基の三重櫓が幾重にも屈曲した高石垣の上建ち、平櫓33基、広大な堀をも擁する、小藩のものとは思えない巨城です。

さらに、松倉重政は、島原藩主となった当初は、キリシタンにより南蛮貿易の利を得ることができたためにキリスト教を黙認していたのですが、キリシタン弾圧政策をとっていた江戸幕府からの圧力もあって1621年(元和7年)ころからキリシタンの弾圧を開始します。

そして、1625年(寛永2年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されるたことによりキリスト教弾圧が極端化・徹底化されます。

その後の弾圧は過酷を極め、キリシタンを処刑したり、またその顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押したり、指を切り落としたりするなど数々の拷問が行われました。

これに加えて、松倉重政は、キリシタンの出城ともいえるフィリピンのルソン攻略を江戸幕府に進言するなど、もはや常人の発想とは思えない行動をとり始めます。

しかも、そのために島原藩の領民に対して、戦費調達のために更なる税を課し、遠征準備まで行っています。

松倉重政は、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行うなど、その圧政は極まります。

そんな松倉重政は、寛永7年(1630年)に死亡するのですが、島原藩の2代目藩主となった松倉勝家は、まだ父親の代の方がマシだったと領民に言わしめる程の更なる圧政を敷きます。

松倉勝家は、松倉重政の失政により傾いた島原藩の財政を健全化するため、領民に九公一民という苛烈な税を課しました。

飢饉発生

そんな中、天草・島原に更なる不幸が訪れます。

17世紀頃の世界規模の異常気象の余波が到達し、寛永11年(1634年)頃から島原・天草地方に飢饉が発生したのです。

島原・天草地方は深刻な農作物の不作により餓死者が続出し、また藩の財政の悪化しました。

ところが、島原藩では、苦しむ領民に救いの手を差し伸べることはありませんでした。

そればかりか、島原藩主・松倉勝家は、飢饉によって下がった税収を填補するために、領民に対してあらゆる税を課し始めます。

子供が生まれたら人頭税、畳を敷いたといえばこれにも税、死んで墓を掘ったら墓穴税など、生まれ→生活し→死ぬの人間のサイクルの全てに税をかけたのです。

こんな制度の下で人間が生きていけるはずがありません。

多くの人が、税金を払えなくなっていきます。

ところが、松倉勝家は、この税を治められなくなった人を、徹底的に迫害しました。

税を納められなかった者に、キリシタンに行っていたのと同様の迫害をしました。

年貢を納められなった者の妻や娘を人質に取ったり、それでも払えない者を拷問にかけてなぶり殺しにしたりするなど、とんでもない悪行を繰り返します。

領民たちの我慢は限界を超えます。

島原の乱勃発

島原で一揆蜂起(1637年10月25日)

寛永14年(1637年)10月25日、圧政に耐えかねた島原の領民は、有馬村のキリシタンを中心として代官所に強談に赴きますが、交渉が決裂します。

そして、要求を拒否されたキリシタンたちは代官の林兵左衛門を殺害し、そのまま一揆を起こします。

島原ので発生した一揆は、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた小西行長の家臣の子・天草四郎(本名:益田四郎時貞)を総大将として担ぎ上げ、武士身分から百姓身分に転じていた旧有馬氏の家臣を管理者として組織化されていきます。

また、島原の一揆は、その2日後には海を挟んだ天草にも飛び火し、天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして組織化された一揆となります。

江戸幕府は、キリシタン弾圧のため、「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という構図を作り出したのですが、実際はそのような単純なものではなく、以上の前提事実を鑑みる限り、宗教対立のみによる戦争でないことは明らかであり、百姓に対する弾圧、武士の身分を失った浪人の反乱等の政治的・経済的な側面も複雑に絡み合って発生した一揆であったことがわかります。

島原藩は、領内で一揆発生との報告を聞くと、直ちに軍を編成して討伐に繰り出しましたが、一揆勢に返り討ちにあい、すぐに島原城に退却します。

勢いに乗る一揆勢は、そのまま島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行います。

一揆勢に手を焼いた島原藩側は、一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたのですが、民心を失っていた島原藩に求心力はなく、その武器を手にして一揆に加わる者も多かったといわれています。

その後も一揆の勢いは更に増し、一揆は島原半島西北部にも拡大していきました。

島原一揆が天草一揆に合流

島原の一揆勢は、有明海を渡って天草の本渡城などを攻撃して富岡城代を討ち取るなど勢いを増します。

一揆勢の中からは、そのまま日見峠を越えて長崎に侵攻しようという意見さえ出ました

ところが、本渡城攻攻めの途中で、九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、背後から攻撃を受けることの不利を悟り、天草から島原への撤退を決めます。

一揆勢原城址に籠城

(1)一揆勢の勢力

撤退に際して島原の一揆勢は、天草の一揆勢を吸収して島原半島に戻り、島原領の旧主・有馬家の居城であった廃城・原城址に籠城することとしました。

天草の勢力をも取り込んだ一揆勢は約37、000人程にまで膨れ上がり、断崖の上に立つ要塞である原城趾を修復して本来の防衛力を整えた上、島原藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えることとしました。

なお、原城からは、立てこもった一揆勢が使用したと推測される竪穴建物群が検出されているのですが、そこには個別に炉や竈などの煮炊きに必要となる遺構・遺物が見つかっておらず、食事等が集中管理されるなどしていたことがわかります。

このことから、原城に籠った一揆勢が、単なる寄せ集めの集団ではなく、厳しい軍規により規律された組織化された軍であったことが明らかとなっています。

(2)戦略

籠城策をとった以上、島原の一揆勢は後詰(援軍)を想定していたはずです。

補給なしに籠城戦を戦うことはできないからです。

正確なところはわかりませんが、おそらく以下の国内外のキリシタンを後詰として想定していたのではないでしょうか。

① 日本国内のキリシタン

島原の一揆勢は、当時日本の人口の約10%を占めるまでに成長した日本国内のキリシタンが、島原の乱を契機として、その弾圧に抗って各地で蜂起することにより日本全国で内乱が起きることによって、幕府軍を引き返させようと考えていたものと考えられます。

② 海外のキリシタン(ポルトガル)

また、島原の一揆勢は、ポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいます。

当時、日本では、ポルトガルと幕府が懇意にするオランダとの間で貿易利権を巡る争いが起きていたのですが、日本において劣勢になりつつあるポルトガルに一発逆転の援軍を期待していたものと考えられます。

実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていたことからも、この事実がうかがえます。

原城籠城戦

板倉重昌による攻城戦

島原の乱発生の報を聞いた江戸幕府は、急ぎ現地近くの九州の諸大名に兵を集めさせます。

その上で、江戸幕府は、板倉重昌を総大将として、乱鎮圧のため出陣させます。

板倉重昌に率いられた幕府軍(実際には九州諸藩軍)は、原城を包囲し、寛永14年(1637年)12月10日、20日、繰り返し総攻撃を行いますが、ことごとく失敗に終わります。

失敗の原因は、討伐軍の士気が低かったことに加え、石高わずか1万5000石の小藩・深溝藩主にすぎない板倉重昌に大大名である九州諸藩が従わなかったことにあるとも言われています。

板倉重昌での乱鎮圧困難と見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱の派遣を決定します。

大将後退を自身の失態としたくない板倉重昌は、松平信綱到着前に乱を平定しようと焦り、翌寛永15年(1638年)1月1日、再度原城を総攻撃するもののこれも失敗し、幕府軍に4000人とも伝わる大損害を出します。

そして、板倉重昌自身も軍を率いて突撃を敢行したのですが、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け戦死し、幕府軍は大敗を喫します。

知恵泉・松平信綱の攻城戦

(1)砲撃策・懐柔策

原城に到達した松平信綱は、板倉重昌の失敗を分析し、力攻めではない攻城方法を模索します。

まず、穴を掘って城内に進入する策や、忍びを潜入させてかく乱させる方法などを試みるも、目立った成果を挙げられませんでした。

また、松平信綱は、寛永15年(1638年)1月6日には、長崎奉行からオランダ商館長クーケバッケルに依頼して船砲五門(ゴーテリング砲)を陸揚げして幕府軍に提供してもらうとともに、デ・ライプ号を島原に派遣して海から原城内に艦砲射撃を行いました。

もっとも、砲撃の目立った効果も見られず、そればかりか諸将から外国人の助けを受けることへの批判が高まったため、砲撃による攻城も諦めます。

松平信綱は、矢文による懐柔作戦も試みます。松平信綱は、原城側に「投降した者は家に戻って工作を許しかつ米2000石を支給しその年の年貢を免除する」(新撰御家譜)との好条件の提案をしますが、これも正式に拒否されます。

城を囲む九州諸侯12万人にも膨れ上がった幕府軍を率いる松平信綱は迷います。

ところが、その後、原城から、「城中の大将3名は成敗しても結構だが残りの籠城者の命は助けてほしい」(一揆籠城之刻日々記)との矢文が帰ってきます。

先の返事とはことなる内容の矢文が届いたことにより、松平信綱は、原城に籠る一揆勢に不安が広がっていることを確信します。

(2)兵糧攻め

松平信綱は、この一揆勢の不安の原因を探るべく、原城内に諜報兵を派遣して一揆勢の動きを調べさせます。

その結果、原城内の兵糧が残り少ないことを知ります。

この報を聞いた松平信綱は、原城攻めの策を兵糧攻めに切り替えます。

そして、その後、原城の断崖絶壁を海まで降りて海藻をとって兵糧の足しにする一揆勢を見、また城外に討って出た一揆勢の死体の腹を開いて胃を見分したところ海藻しか入っていないのを確認し、原城内にもはや一揆勢を養う兵糧が残っていないことを確信します。

(3)力攻め(1638年2月27日)

寛永15年(1638年)2月24日、松平信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、一揆勢が空腹で満足に戦えないと判断し、原城に総攻撃を行うことが決定されます。

決行の日は天候の都合から同年2月28日とされたのですが、前日の同年2月27日に鍋島勝茂が抜け駆けで原城を攻撃します。

この鍋島勝茂の攻撃を見て、諸大名が遅れてはならないと続々とこれに続いたため、結果として、同日総攻撃へとつながります。

この総攻撃に対して、原城側も死力を尽くして反撃を行ったのですが、一揆勢は大きく兵力に劣る上、城内の食料・弾薬は尽きていたためこれを支えきれず、翌日原城は落城します。

天草四郎は、原城になだれ込んできた熊本藩士に討ち取られます(享年16歳)。

また、籠城した一揆勢は皆殺しにされます。なお、諸説ありますので正確なことはわかりませんが、幕府軍の攻撃とその後の処刑により、最終的に籠城した一揆勢3万7000人全員が死亡し、生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人であったとも伝えられています。

いずれにせよ、現在においてなお原城からはおびただしい数の人為的に損傷刺された人骨が発見されていますので、相当の殺戮がなされたことは間違いないと思われます。

事後処理

島原藩・唐津藩天草の処分

江戸幕府は、体制を揺るがしかねないキリシタンの反乱事件として、島原の乱を重大視します。

そこで、島原の乱のきっかけを作った者たちの処分を行います。

まず、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てによって一揆を招いたとして島原藩主の松倉勝家を改易処分にした上、斬首刑に処します(江戸時代に大名が斬首とされたのはこの1件のみです。)。

次に、天草を領有していた寺沢堅高の責任を問い天草の領地を没収します。なお、後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶しています。

天草地方を江戸幕府直轄地(天領)とする

島原の乱後、さらなるキリシタンの反乱を恐れた江戸幕府は、天草地方を幕府直轄地とし、鈴木重成を代官として派遣して、復興を果たしつつ監視を行います。

鈴木重成は、禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招いて住民の教化に努めました。

また、鈴木重成は、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力しました。

キリシタンの迫害強化

島原の乱後、さらなるキリシタンの反乱を恐れた江戸幕府は禁教策をさらに強化します。

そのため、幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原の乱後にわずかに残された島原半島及び天草諸島の信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていきました。

もっとも、江戸時代半ばになると天草から産するナマコ・鮑・フカヒレなどの海産物の乾物(俵物)が、長崎を通じて清朝に輸出されるなどして江戸幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及が自粛され、文化2年(1806年)に天草地方の4村に対してキリシタンの検挙がおこなわれた際も、5000人以上の存在が発覚したが幕府側は踏み絵と誓約だけで赦免されるなど方針の転換も見られています(天草崩れ)。

鎖国(1639年)

島原の乱によりキリシタンの拡大とその伴う反乱を恐れた、キリスト教の布教を制限する意味もあって鎖国政策を推し進めていきます。

具体的には、寛永16年(1639年)島原の乱で江戸幕府に敵対したスペイン・ポルトガルの来航を禁止(南蛮船入港禁止)・日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理統制することとしたのです。

この鎖国政策は、嘉永7年(1854年)に日米和親条約が締結されるまで200年以上に亘って続くこととなります。

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